月はいずれ満ちる

「月が綺麗だな」


 夕食中、落とした箸を拾いに窓際まで歩み、拾い上げてからふと窓外に目をやったら金色に輝く見事な満月。

 テーブルに戻ってから何気なくその感想を漏らした。それだけなのに、向かい合って座る水由みゆは途端に表情を変えた。

 いつも以上にこちらをじっとりと睨みつける、細められた鋭い目。

「?」

 状況が把握できず、しばしそんな目と見つめ合ってしまった。


 妙な沈黙の中で少し考えてみて…… やっと、誤解を招いてしまっていることに思い至った。

「文字通りの意味だぞ⁉︎」

 大慌てで弁明したら、水由は再び瞬時に表情を変えた。怒りのこもった表情から、感情の読み取りにくい仏頂面へと。普段の表情へと。

 「そう」と短く返事をし、普段通り少しこちらを睨んでから、何事もなかったかのように麦茶を口にする。


 少し胸をなでおろし、食卓のうどんを一口すする。

 動揺している時は食べ物の味がしない、とよく言うが、水由の料理はこんな状況下であっても美味しい。それが少しばかり恨めしかった。




 水由が自身の記憶を取り戻し、奇妙な同居生活が始まってから半年ほどが過ぎた。

 「好きに罰を与えてくれ」と間違いなく言ったのに、水由は私に何もしなかった。殺されるくらいの覚悟をしていたのに、何も。家を出ていくことすらなく、同居生活を続けている。

 

 何故なのだろう。水由は自分が彩氷あやひではないことを思い出した。もうここにいる理由はない。

 それとも、もしかしたら私から離れないこと、それそのものが罰のつもりなのだろうか。なるほど、理にかなっている。最も安らげるはずの場所である自宅にい続け、私を睨み、無言のうちに責め続ける。確かに私にとっていい罰になっている。


 けれどだとしたら、何故なのだろう。

 毎日ではないが、食事をしている時などにぽつりぽつりと話をしてきてくれるのは。

 あまりアイコンタクトを取らず、無表情で淡々とした口調で。その日のニュースや好きな漫画、始めたばかりの仕事の話などを。私に対する憎悪のこもった言葉では決してなく。

 話し方がそれなため、どう反応していいのか困ることもあるが、とりあえず内容はきちんと聞いて、何かしら言葉を返すようにはしている。それでいいのかは分からないが。


 先日、仕事の休憩時間に社外に出た際、水由を偶然遠目に見かけた。職場の先輩達らしき数人と、どこかに食事にでも行く途中だったらしい。

 水由は、輝くような笑顔だった。私には一度も見せたことのない、そして、彩氷とは全く違う笑い方だった。

 やはり、私は水由が心を許せる存在ではないこと。そして、やはり彩氷の笑顔は二度と見られないこと。

 ずんっ、と心にのしかかって、水由の姿が完全に見えなくなるまで立ち尽くしてしまった。


 そういえば、水由の家族や友人達に関する話というものを聞いたことがない。突然いなくなってしまったのだから心配しているに違いないと、そういう意味でも罪悪感を募らせていたのに、ニュースや行方不明者の情報が載ったサイトをどんなに確認しても水由は出てこない。

 何か事情があるのかもしれない。だから、私からもそれに関する話題は振らないようにはしている。

 いつか自分から話したい時に話してくれれば…… という考えが浮かんでは、私などがそんな上から目線で望むことではないと、すぐさま打ち消すようにしている。


 しない話と言えば、あれ以来水由との会話に彩氷の話題が出たことは一度もない。

 当然か。水由にとっては私同様に敵のような存在なのだろう。

 私が、敵にしてしまった。あの優しい彩氷を。




「ごちそうさま」

 正面からの声で我に返る。食べ終えた水由が立ち上がるところだった。私もさっさと食べてしまおうと、再び箸でうどんを持ち上げようとした、その時だった。


「これ」

 水由が足元に置いていたエコバッグから何かを取り出し、テーブルに置いた。

「?」

 またしてもしばらく状況が把握できなかった。

 その何かが、私がよく行くカフェのロゴ入りの袋であること。今日発売されたばかりの、けれど忙しくて買いに行けなかった新作の珈琲豆であること。今日が私の誕生日であること。

 全てを理解して声をかけようとした時には、水由はもう自室に戻ってしまっていた。




 二、三ヶ月前だっただろうか。

 帰宅して水由の部屋の前を通りかかったら、ドアがほんの少しだけ開いていた。その隙間から、水由が本棚の前で立ち尽くしているのが見えた。

 どうしたのだろうと観察してみて…… 水由の足元に数冊の漫画の単行本が置かれているのに気付いた。

 水由が好きだと言っていたあの漫画。サイトで読むだけでは飽き足らずに購入したのだろうか。けれど、それらを目の前の本棚に配置することもなく、何か悩んでいるように見える。


 本棚は、既に彩氷が愛読していた書籍でいっぱいで。だから、自分の大好きな漫画を並べることができなくて……


「捨てていいぞ」

 無意識にそう言っていた。

 驚き顔で水由は振り向き…… 普段以上に怒りのこもった目で、私を無言で睨んだ。

 たじろいだが、続けた。

「売っても…… いいし」

 目にこめられる怒りが、一層強くなった。やはり言葉のないまま。

 急に気まずくなって、その場を離れた。


 彩氷の思い出の品を失いたいわけはない。けれど、文句を言う権利はない。

 水由は自分の人生を奪われかけた。だから、彩氷の痕跡と私の思い出を消し去る権利は十分にあるから……


 それなのに、その日の夕方。

 夕食を作ろうと自室から出ようとしたら、ドアがうまく開かなかった。

 無理やり押し開けて見たら、床には先程まで本棚に詰まっていた彩氷の書籍や衣類、雑貨類がずらっと置かれていた。水由の部屋にあった、ありとあらゆる彩氷の遺品が。どれも特に傷ついた様子もなく、綺麗な状態のままで。


 水由にとってはやはり不要な物。

 けれど私にとってはそうではないと、思ってくれたのだろうか。




 キッチンに満ちる香ばしい珈琲の香りを胸いっぱいに吸ってみた。

 あそこの珈琲豆は、やはりいい。新作も美味しそうだ。


 コーヒーは漢字で「珈琲」と書くと教えてくれたのは彩氷だった。

 小学二年生の時に、「ねえねえ、知ってた?」と、少し自慢げにノートに書いて見せてくれた。あの頃は漢字がかなり苦手だったから、こんな難しい漢字が書けるなんてすごいと思った。

 何度も書き取りの練習をして、それ以来コーヒーを常に「珈琲」と書くようになったし、漢字に対する苦手意識も少し減った。当時から珈琲をブラックで飲んでいた彩氷を見習っていたら、私も珈琲が好きになった。


 そうだ、「月が綺麗ですね」を教えてくれたのも彩氷だった。

 あれは小学四年の時だったか、「本当にあの人が言ったかどうかちゃんとした証拠はないらしいけど、でもすごいロマンチックな話聞いちゃってさー!」と話してくれた。

 そんな台詞で通じるのだろうかとも思いはしたが、そんな台詞でも通じるほどに繋がり合っているということなのかもしれないとも思った。

 本、それも昔の人が書いた難しそうな話なんて…… と敬遠していたが、それをきっかけに文学作品に興味を持てるようになった。




 そうか、彩氷はもういない。けれど、私の色々な部分は彩氷でできている。

 水由はそれを知っている。だから、私に彩氷を忘れてほしくなくて怒ったんだ。




 珈琲を、ふたつのカップに注ぐ。

 温かな湯気を立てるそれらをおぼんに載せ、水由の部屋の前までやって来た。


 私はもう二度と誰にも「月が綺麗だな」と言うことはない。言いたい相手は、もういないから。

 けれど、今日はあの綺麗な月の下で、水由と珈琲を飲んでみたいと思った。できたら、の話だが、何か他愛のない話でもしながら。


 拒まれたっていい。別の時にまた一緒に飲めるかもしれないから、それでいい。

 もしも飲める日が永遠に来なかったら? それだって十分に有り得る。

 けれど今は、誘ってみたい。


 ドキドキしながら、目の前のドアをノックした。

 硬い音は、妙に大きく響いた。

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珈琲は月の下で PURIN @PURIN1125

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