創生の巌 ~ 武蔵野今昔がたり

からした火南/たかなん

創生の巌 ~ 武蔵野今昔がたり

 武蔵野台地の中程に、浮船がごとき丘陵きゅうりょうが在る。

 東西二里半を超えるこの丘には二渓にけいの谷が刻まれており、両の谷は共に百年程前に出口をき止められ、多摩川の水を貯める水瓶みずがめとなっていた。

 ふたつの人造湖のほとりに広がる森の奥深く、ひとつのいわおが佇んでいる。百尺もあろうかという巨巌きょがんの大半は土中に在り、丘のいただきより顔を覗かせているのはわずかであった。

 花崗岩かこうがんから成るこの巌は周囲の堆積岩たいせきがんとは趣をことにし、おそらくは十万年の昔、多摩たまの流れが武蔵野に扇状地を成した際、激流に乗って谷を下ってきた物ではないかと考えられる。奥多摩おくたまに降り注いだ雨水うすいが多摩川となって青梅おうめの谷より流れ出す際、長年に渡り多くの岩石や砂礫を運びだした。その際に押し流されて来た物ではないかと思われる。

 もしくは、近隣の火山より飛来したものではないかとも考えられる。二万年の昔、富士の山と箱根の外輪山は永きに渡り、噴火を繰り返し噴煙を吐き続けていた。武蔵野の扇状地にも火山灰が降り積もり、厚い層を成している。噴火の激しきおりには噴石ふんせきの飛来する事もあり、その際に降って来たものではないかとも思われる。

 しかしながら、百尺という常軌をいっした巨巌きょがんである。激流に運ばれたという話も、噴火に飛ばされたという話も、巨大なたたずまいを考えれば理が通らぬ。この巌の由来を知る者は誰も居ない。


 一千五百年の昔より、巌に宿る者が在る。

 その者はかつて、武蔵国むさしのくにの国造りに尽力した土着神が一柱ひとはしらであった。しかし時の流れる内に忘れ去られ、その名を唱える者が居なくなった今、唯々ただただ武蔵野を見守るだけの存在と成り果てていた。

 巌に宿る神は、武蔵野に昇る月を好んだ。十五夜じゅうごやの欠けるところのない望月もちづきよりも、十六夜いざよいわずかばかり丸味を失う姿を好んだ。渺渺びょうびょうたる萱原かやはらの果て、奥多摩の尾根より昇り出た月が、夜風にそよぐかやの花穂を青く照らし出す光景にみやびを感じた。

 武蔵野には元来、神代かみよの昔からしいかしなどの照葉樹しょうようじゅが茂っていた。しかし大きな回禄かいろくい、一部は野火のびや伐採など人の営みの中に失われ、次第に萱原へと置き代わっていった。そうして平安の頃になると広大無辺な萱原の眺望ちょうぼうとなり、月の名所として多くの歌にまれるようになった。

 だがかつての萱原も今は無く、巌に宿る神が一千年に渡り親しみ続けた風光ふうこうを、再び愛でることは望むべくもない。


 十六夜いざよい秋月しゅうげつが昇る晩、巌に宿る神を一人の童女が訪ねる。

 木菟みみずくの声に誘われるように森の下草を踏み、なかば葉が落ちたこずえより射し入る月明つきあかりに導かれ巌の元へと辿り着いた。

「久しいな……」

 そう言って、いまだ昼のぬくもりが残る岩肌をでる。

「ミシャクジか。珍しい」

「月を愛でておったら、ふとお主を思い出しての」

石神井しゃくじいから遥々はるばる、ご苦労なことだ」

 ミシャクジと呼ばれた童女は、古くよりこの地に住まう土着神が一柱である。三宝池さんぽういけより掘り出された石剣せきけん御神体ごしんたいとして、今は石神井神社しゃくじいじんじゃまつられている。

何故なにゆえわらべの姿をしておる」

たわむれじゃ。お主も巌と化しておろう。同じことよ……」

 そう言うと下草に積もる落葉の上に腰を下ろし、岩肌へと寄り掛かる。晩秋の夜風に冷えたミシャクジの体に、陽光の残滓ざんしが一際温かく感じられた。

「して何用だ」

「用など無い。逢いに来ただけじゃ」

 そう応えると寸刻すんこく、巌へ寄り添ったままもくして月を見上げていた。

 奥多摩の尾根より昇った月はすでに高く、この小高い丘の頂からも梢の向こうにその姿がはっきりと見えた。丘の下へと目を移せば人の住処すみか煌々こうこうとした灯火ともしびが無数に広がり、遠く辰巳たつみの方角には赫灼かくしゃくたる東京の耀かがよっていた。

「ここの眺めも変わったものだの。前に来た時は、夜が夜として在ったはずじゃが……」

「前は確か、江戸の世であったか」

「あの頃の明媚めいびは、林と畑の入り乱れたるさまじゃったの」

 三百年程前にミシャクジが訪れた時、武蔵野では盛んに新田開拓が行われていた。

 武蔵野の大地は厚い火山灰に覆われ、その下には多摩川が運んだ砂礫が広がっている。つまり土地が水を蓄えず地下へと流れ去るため、開拓には新たなる用水が必要であった。丘の南側には玉川上水たまがわじょうすいから野火止用水のびどめようすいを始めとするいくつもの用水路が引かれ、丘の北側では深井戸を掘って用水とした。

 萱の茂る野原をひらいて、雑木林ぞうきばやし畑地はたちが造られた。水を蓄えぬこの地では水田など望むべくもなく、もっぱら麦や雑穀そして野菜がつちかわれた。

 その頃の肥料と言えば下肥しもごえであったが開拓に充分な量など無く、雑木林に積もるくぬぎ小楢こならの落葉より堆肥たいひを得た。林の木々は二十年ほどで総てがられ、薪や木炭そして材木となった。切り株からは再びひこばえが顔を出し、やがて株立かぶだちの若木となり、再び元のような雑木林へと育っていく。

 見渡す限りの萱原は、人の営みの中で雑木林や畑地へと姿を変えた。しかしこの里の風景も、二百年ののちには大きく姿を変えることになる。急激な人口増加にともない市街は無秩序に拡大を続け、かつての自然と調和が取れた人里の姿など今はもう無い。


「のぉ、デエダラよ……」

 えてその名で巌を呼んだ。

 巌に宿る神には、大太郎法師デエダラボッチと呼ばれた時代がある。神に対して法師の呼名よびなとは神仏混淆しんぶつこんこうはなはだしいが、大地に降り立つ山よりも高やかな姿を見上げて、当時の人々はその名で呼び習わした。

 藤蔓ふじづるの縄で山を運び、地を掘り、橋を架け、武蔵国むさしのくにを中心に国造りに励んだ。デエダラの歩いた跡には清水が湧き出し、枯れることのない池や井戸となった。井の頭池いのがしらいけ善福寺池ぜんぷくじいけ筆頭ひっとうとして、武蔵野に在るデエダラゆかり湧水わきみずを挙げれば枚挙まいきょいとまがない。

「もう、人の世には関わらぬのか?」

 寄り添ったまま目を閉じ、デエダラに尋ねる。

「……関わらん。ただ、見守るだけだ」

 わずかに思い巡らせた後、静やかに応えた。

 ミシャクジは改めて、眼下に広がる家々の灯火ともしび見遣みやる。

 神代かみよの昔から原生した照葉樹の森は、デエダラが巌に宿る頃には果てなき萱原へと変わっていった。それより一千年の時を経て、打ち付けに雑木林の里となった。人の住処すみかは急激にその数を増し、わずか二百年の後には雑木林の里は見る影も無くなった。更に百年が過ぎた今、風情ふぜいの無い無機質な住処すみか累々るいるいと、武蔵野を埋め尽くそうとしている。

「武蔵野の明媚めいびは、何処どこへ行ってしもうたやら……」

 溜息に混じって、ミシャクジの口から不平がこぼれた。

「……何処へも行かん。武蔵野は美しい、今も変わらずな」

 静やかなデエダラの反駁はんばくに目をみはる。

「この風光の何処が美しい! お主が好んだ萱原に昇る月は、もう二度と見られぬのだぞ!」

 ミシャクジの悲憤ひふんに、変わらず静やかに応える。

「人の営みは、何時いつの世でも美しいものだ」

「野を焼き、林を拓き、奇妙な住処で地を埋めようともか?」

「林を造って二百年、きょが野を埋め百余年。人の世の営みがこの地に及んでわずか三百年だ。萱原の果なきをって明媚めいびたたえられた一千年に比べれば、いまだ途上。千年ののちには調和も取れよう」

「そうであろうが、しかし……」

「ミシャクジよ、お前は雑木林の里を好んでおったな。あの林とて人の手で造られ、人の手で支えられたもの。人の造りし物と自然の釣り合いが、お前の目に好ましく映ったのであろう。造り生もうとする営みは、何物にも代え難い。今は釣り合わずとも、やがてまるくなる……」

 おだやかなデエダラの物言いに、しばし目を閉じ聞き入っていた。そして巌へ寄り添い、梢の向こうに秋月しゅうげつを見上げる。

「この国を造ったお主が言うのじゃ、きっとそうなのであろう。とは言え、神代かみよの昔から月の美しさは変わらぬ。お主も変わらぬ。わしも変わらぬ。人の世ばかりがうつろうて行く……はかなき事よの」

 そう言って再び目を閉じる。遠くのくさむらで鳴る虫のが、夜の静寂しじまに一際大きく響いて聞こえた。

「この月とて、無論お前とて我とて、変わらぬではなくにぶいだけのこと。成程なるほど、人の世は泡沫うたかたのごとく移ろう。れども泡沫うたかたであればこそ……」

 不意にことが切れた。ミシャクジには、巌の内より眼下の灯火ともしびを見渡しているかのように感じられた。

 やがてゆるやかに言の葉が継がれる。

のちの武蔵野にあっては、人の世の営みこそが明媚めいびであろう」

 目を閉じたまま、デエダラの声に身を任せる。寄り添う岩肌からは、変わらず温もりが伝わってきた。

 十六夜の月は寂光じゃっこうを放ち、柔らかに武蔵野を照らし続けていた。


(了)

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