カツレツ・プディング・チキンスープ

キングスマン

カツレツ・プディング・チキンスープ

 ツミとバツとキズとデマは同じクラスのともだち同士。

 いつものように四人は自習室に集まって読書会を開く。

「今日は誰のおすすめを読む日だっけ?」とツミはく。

「……私だよ」おそるおそる、バツは小さく手をあげる。

「当ててあげようか? 老化ものでしょ?」キズの推理。

「バツは老化もの好きだよね」ニコニコした表情のデマ。

 円形のテーブルを囲むように等間隔で席に着き、時計回りの順番で少女たちは言葉を交わす。

 こくんとほおあからめてバツは首を縦にふる。自分の好みをみんなに覚えてもらえていたのが嬉しい。

 だけどそれも束の間、同じような話ばかり読んでいる単純なやつだとバカにされているのかもしれないと、不安に襲われる。

 首を横にふり、否定的な考えを追い払う。ここにいるみんなは、そんなくだらない感覚を持っているわけないのに。バツは後ろ向きな自分の感情がほとほと嫌になっていた。

 気を取り直してバツは鞄の中から四冊の文庫本を取りだし、それぞれの前に置く。

「あ! 『旅人と靴』だ。私これ好き!」

 いつだって明るいツミは、本の表紙を見るなり嬉々としてそのタイトルを読みあげる。

「名作」

 常にマイペースのキズは短く同意する。

「私も好き。ちょうど昨日、読んでたよ」

 みんなのことが大好きなデマは、みんなと同じくらいこの本が好きだった。

 不安と安心がチョコとバニラをミックスしたソフトクリームみたいにマーブル模様になって、バツの頭をぐるぐる回る。

 みんなはこの本のことを好きだといってくれた。それはつまり、みんなこの本の内容を知っているということ。自分しか知らない特別な一冊だと思っていたのに、はじめてこの本を読んだときの衝撃を、みんなは既に体験済みなのだ。

 選んだ本で失望させることはなかった。だけど感動してもらうこともできそうにない。

 みんなに申し訳ない。同じ本を三冊も取り寄せてくれた図書係の人にも申し訳なさがこみ上げてくる。

「……ごめん」だからバツは謝ってしまう。

 バツは誰よりも後ろ向きだから。

「どうしてバツが謝るんだよ?」

 間違ったことなど何もしていないのにと、ツミは言葉以上に表情で語る。

「だって、もうみんな、これ読んでるんでしょ?」

「それがどうしたの?」キズが首をかしげた。

「だから、また読んでも楽しくないかなって」

 わずかな沈黙。そしてバツ以外の三人は、彼女の落胆の理由を察して微笑んだ。

「もう、バカだなあバツは」

 椅子に腰かけたまま上半身を伸ばし、捕食するみたいにツミはバツを抱きしめた。

 バツの左隣に座っていたキズも同じような体勢で抱きしめる。

 正面にいたデマはテーブルの上で石みたいにかたくなっていたバツの手に自分の手のひらを被せ、親指と人さし指で丁寧にほぐす。

 つまり四人は、なかよしなのだ。

「バツが一生懸命選んでくれた本にガッカリするわけないでしょ。それにこの本は名作だし、名作は何度読んでも面白いし、読むたびに新しい発見があるんだよ」

「ツミに全面同意」

「私も」

 ツミの主張にキズとデマがうなずく。

「……みんな」あと一つでも優しさを与えられてしまうと、泣いてしまうかもしれない。「じゃ、じゃあ、読もうか」

 さすがにそんな醜態を晒すわけにはいかず、強引に読書へ誘導する。

「了解」

 キズが一口つぶやくと、四人はそれぞれの椅子に正しく腰かけ、本を開く。

「そうだ、もうみんなこの本を読んでるなら、みんなの好きなシーンを教えて」とバツは言う。

「それなら最初はバツから聞かせてよ」

 そう促したのはツミだった。

 うん、わかった。そう答えて、バツは本をぱらぱらめくる。

「……私はやっぱり、物語中盤から主人公の老化に感情移入しちゃうな」

 開き癖がつくほど何度も読み返したお気に入りのページで手をとめる。まるでそこに描かれているのは自分自身であるかのように、バツはしんみりと文章を見つめている。

「感情移入って」デマがくすっと笑う。「私たち老化なんてしないでしょ」

「私、老化って感覚が未だによくわかんない。老化って要するにあれでしょ? 体の──」

「経年劣化」

「そう、それそれ。でも時間が経つと弱ってくるってどういうこと?」

 ツミの疑問にキズが答えて、そこにまたツミが次の疑問をぶつける。

「旧世代にはまだ調律がなかったから、人は成長をピークで固定することができなくて、最適化されることのない成長は時間の経過とともに今度は衰弱へと進んでいく。それが老化」

 キズは教科書を朗読するように説明をする。

「な、なるほど」

 ツミはわかったふりをした。

「小学生のころ、授業で枯れる花を見たでしょ」そう助け船を出したのはデマだった。「たぶん昔の人もあんな感じで、体のエネルギーは有限で、それを使い果たしちゃうと、どんどん弱ってきて、それが肉体にも影響したんじゃないかな」

「あ、なるほど」

 ツミは少し理解を示した。

「ツミ、小学校でずっと寝てたの?」イタズラをするような口調でキズはからかう。

「どうせ私はキズみたいに頭よくないですよ」

 高校の入学式、主席で合格したとかで新入生代表として全校生徒の前に立ち挨拶をしていた天才と、今はこうして気のおけない環境で同じ小説の楽しさを共有している現実を、ツミはときどき不思議に感じていた。

「頭いいとか関係ない。こんなの常識」そうは言っているものの、キズはまんざらでもない表情を浮かべている。「──話が脱線しちゃったね。それで、バツはどうして老化に感情移入しちゃったの? もっと聞かせて」

 話題をふられて、バツはうなずく。

「老化でどんどん体が不自由になっていくのに、それでも目的地にたどり着こうとする主人公を見てるとすごく勇気づけられて、それでも老化はもっと進んでいって、老化のぶんだけ主人公は動けなくなって……その繰り返しを見てると、私の中に老化を感じちゃうんだ。私も何かしようとするたびにこわくなって動けなくなって、あ、これって老化なのかなって」

「つまりバツは老化していく主人公にではなくて、老化っていう概念そのものに感情移入していたと」

 デマからの問いにバツは、うん、と首肯する。

「疲れてるのかな? 一度、センターに行って調律してもらえば?」とツミは言う。

「大丈夫だよ。それよりツミはこの本のどこが好きなの? 教えて」

「私?」よくぞ聞いてくれたとツミは鼻を高くする。「私はもちろん、病気の部分だよ」

「出た、病気好き」キズは鼻を鳴らす。

「これ見てよ」

 言いながらツミは鞄の中からメガネを取り出してみせた。

「メガネがどうかしたの?」

「かけてみて」

 どこか釈然としないものを感じながらも、ツミからメガネをわたされたキズは素直に言葉に従った。

「うわ、なにこれ!」

 経験のない不快感に襲われ、キズは慌ててメガネをはずした。

「どうしたの、キズ」

 ただごとではない様子にデマは声をあげる。

「なんだか目の前がふにゃってして、頭がグラってした。どういうこと?」

「それはね、本物のメガネだから『ど』が入ってるんだよ」

「ど?」デマは首をかしげた。

「確か、メガネがまだ目の病気をサポートする道具だった時代に、レンズに施してた処理みたいなものじゃなかったっけ?」

 かしこいキズでも知識に自信のない領域の話だった。

「かして」キズからメガネを受け取ったデマは興味本位で自分にかけてみる。「うわ! すごい! クラクラする!」

 体ごとゆらして、メガネを楽しんでいる。体の動きにあわせて、セーラー服の胸元で結ばれている青いスカーフもゆれている。

「どうして本物のメガネなんて持ってるの?」バツが訊く。

「ウチって古い蔵があるでしょ? 掃除してたら奥から出てきたの。せっかくだから、みんなにも小説の主人公みたいに本物のメガネの感動を味わってもらおうと思って」

「味わったけど、感動はしない」とキズは切り捨てた。

「そうじゃなくて、ちゃんとした状態で味わってよ」

「ちゃんとしたって、どういう──うわ!」

 言葉を遮るように、キズの視界は霧に覆われる。

 ツミの手のひらには、そこに収まる程度の大きさの赤いスプレー缶があり、その中身をキズの目に向けて噴霧ふんむしたのだ。

「……あのさあ、ツミ」怒りと呆れを足して割ったような声でキズは言う。「病気にするなら一言断ってからにしてよ──ああもう、お風呂にいるみたい」

 スプレーの効果で、キズの視界は大きく制限された。

「いいからいいから、メガネメガネ」ツミに悪びれた様子はない。

 デマからメガネを受け取って、ツミはもう一度それをかけてみる。

 途端、霧が晴れたように世界に色と輪郭がよみがる。

「……ああ、これは」

 不本意ながら、小さな感動を覚えてしまう。

 病気で目に不自由があり、それをこんな道具で解決できたなら、確かに純粋に嬉しかったのではないだろうか。キズは旧世代の人々の感情に想いを寄せてみた。

 メガネをかけたりはずしたりを繰り返し、視界の開放を閉塞をキズは楽しんでいた。

「ね? いいでしょ?」

 まるで自分が目の病気とメガネを発明したかのようにツミは得意になっている。

「面白いのは認めるけど、やっぱり私は普通でいいよ」

 鞄の中から緑色のスプレーを取り出して、それを自分の目にかける。

 間もなく、キズの視力は元通りに快復した。

「ええー。もっとメガネ楽しんでよ。小説の主人公と同じなんだよ?」不服な様子のツミ。

「私、顔にアクセサリーつけるのあんまり好きじゃない」

「だったらコンタクトレンズは?」とツミが訊く。

「コンタクトレンズ……って何だっけ?」キズはそれを思い出せないでいた。

「あのね、メガネからレンズをはずしてそれを直接、目につけるの。旧世代でメガネを買えない人はそうしてたんだって」

「なにそれ、面白い」デマは笑う。

「面白いっていうか、こわい」

 どうすればこの大きさのものを目につけるとこができるのか、キズには全くイメージできなかった。

「でも、たまには病気も悪くないでしょ?」

「まあ、たまにならね」

「ろ、老化だって目は悪くなるんだよ? それに──」

 ツミとキズのやりとりに、老化好きのバツが割って入る。スカートのポケットから赤のスプレーを出して、半袖のセーラー服から伸びている自分の腕に噴射ふんしやした。

 紙をくしゃくしゃにしてから広げたみたいに、腕にしわができる。老化現象だ。

「──ほら、かわいいでしょ?」

 病気にはない魅力が老化にはあるんですとアピールをする。

「ええと、オバアチャンっていえばいいのかな? そういうの」記憶を探るようにデマは言う。

「うん、オバアチャン!」バツはにっこり微笑む。

「えい」

 といって、しわしわのバツの腕に緑のスプレーをかけるツミ。

 アイロンをかけたみたいにバツの腕からしわが消え、肌にハリとつやが戻る。

「もう、ツミのいじわる」ぷくう、とバツは頬をふくらませた。

「だって今は病気の時間でしょ。それにみんな、ちゃんと劇の練習してる?」

 そう言ってからツミは、イルカが海中から飛び跳ねるように力強く席を立つ。

「私は腕の病気!」めいっぱい声をあげる。「誰かと手を繋いだり、じゃんけんもできない!」

「私は耳の病気!」バツも席を立つ。「人の声も歌も音楽も、何も聞くことができないの!」

「私は足の病気!」お次はキズの番。「足が勝手に動いて、壁にぶつかるまで止まれない!」

「私は口の病気!」最後はデマ。「何を食べても、たこ焼きの味しかしないの! どうして?」

 全員言い終わると、しんと静まりかえる。ほどなくして誰からともなく笑いだし、それはかつてやまいと呼ばれたもののように伝染して、気づけば四人とも笑っていた。

「みんな、ちゃんと練習してくれてたんだね」とツミは嬉しそうだ。

 文化祭の出し物で、ツミたちのクラスは全員で病気を擬人化した劇を公演することになっていた。

 総勢三十五人。三十五種類の病気たちの愉快な日常。

 病気好きのツミが発案者であり、脚本もツミが執筆している。

「ツミの考えたストーリーだからね、ちゃんとクシャミの練習だってしてるよ」キズはそう言うと、目を細め、口を半分開き、鼻をむずむずさせてから「──へっくち!」と勢いのある声を出した。

 旧世代の人々は病気になると、このクシャミと呼ばれる独特の発声を突発的に発生させていたという。

 キズにつづいて、バツとデマも「へっくち!」「へぶしゅ!」とそれぞれのクシャミを披露した。

「うーん、デマのは何か違うんだよなあ」ツミは目を細め、口を半分開き、鼻をむずむずとさせて「へっくち!」と声をあげる。これが見本だよと伝えるように。

 なるほどそうすればいいのかと手を叩いてデマは「へびゅびゅ」「ふぇきゅりゃ」などと彼女なりのクシャミを頑張ってみせるが、ツミに納得の気配はない。

「デマは運動神経いいし演技力もあるのに、どうしてクシャミだけダメなんだろう」

 それがツミには不思議でしかたなかった。

「でも、デマのクシャミ、昨日よりずっと上手になってるよ」それはキズの声だった。「放課後に教室で一人、クシャミの練習してたの、私、見てたから」

「うわあ、あれ見られてたんだ。恥ずかしいな」気まずさを紛らわすように笑う。

「デマが努力家なの、私も知ってるよ」バツはまっすぐデマを見つめていた。

 そんな友情を傍観していたツミにひらめきが訪れる。

「ちょっと待って──今すごいアイデア思いついたかも」

 席に着き、鞄を開けてノートとえんぴつを取り出して、それをしるしはじめる。

 創作の熱量に道具がついてこられなかったようで、ノートの上でえんぴつの芯が音をたててはじけ飛ぶ。別のえんぴつを筆入れから探すものの、四本収納されていたそれらは全て、家出したみたいに芯がなかった。

「誰か、えんぴつ持ってない?」

「……シャーペンじゃダメ?」申し訳なさそうにバツが聞き返す。

「ダメ。えんぴつがいい」

 作家にはこだわりがあった。

「私、シャーペンしかないよ」とデマは言う。

「私も」とキズ。「いい加減、ツミもシャーペンにすればいいのに。便利だよ?」

「便利とかどうでもいいの。古くても不便でも使いなれたものが好きなの」

「あ、その気持ちはちょっとわかるかも」

 ツミの主張にデマは同調した。

「またまた、ご冗談をデマさん」キズがわざとらしく慇懃いんぎんな物言いでつづけた。「あなた新しいものが出るとすぐ乗り換えてるじゃないですか。シャーペンだって芯の折れないタイプの持ってるのデマさんだけですぜ?」

「それはそうかもだけど……」

「それにデマってSFが好きだよね」小説の表紙を見せながらバツは言う。「この本でもSFパートがあるでしょ? やっぱりデマはあそこが好きなの?」

「好き!」目を輝かせながらの即答。「テレビが立体映像になってるのってすごい発想だよね。車もとりあえず空を飛ぶみたいな安直なやつじゃなくて、場所によってバイクになったり、盾になったり、動くはしごになったり、液体金属製だから流動的に変化して、それに途中から出てくるロボットがどうして機械の操作が苦手なのかわかるシーンでロボットの素材が実はあれで、動力源もあれだったって──ああいうのこそセンスオブワンダーっていうんだよ!」

 まくし立てて喋らなければ体を爆破させると誰かに脅されているかのような早口に、他の三人は圧倒されていた。

 自分と彼女たちの温度差に気づき、デマはやや冷静になる。

「あ、ごめん。熱くなっちゃって」

「いやいや、好きなだけ語ってよ」両手を広げて、キズは受け入れを表明する。「私が作者だったら感動して泣いてるかも」

「ほんとに? あと五時間しゃべっていい?」そういえば語ってないことが、まだまだたくさんあった。

「五分に短縮してくれたら聞く」

 キズは己の軽率さを少し後悔した。デマは五時間しゃべると言えば本当にしゃべるからだ。

「五分じゃたりないよ。それだったらキズの好きなところ教えてよ」

「私?」唐突に意見を求められ一瞬戸惑うものの、本をぱらぱらめくると、すぐにそれを見つける。「私は、犯罪のシーンが好きだよ」

「──犯罪」苦手な野菜の名前を口にするような声をツミはこぼした。

「……犯罪」やまびこのようにバツは同じことをつぶやく。

 ツミは正直に「実は私、いまだに犯罪ってよくわからないんだ」と白状する。

 バツも正直に「私も」と意見を合わせる。この感覚は自分だけではなかったのだと安心しているようにも見えた。

「私はわかるよ」デマは簡潔に「犯罪って悪いことでしょ?」と述べる。

「……そこまでは私もわかるけど、犯罪って悪いことが細分化されてるでしょ?」自分の発言に間違いはないか、いつも以上に慎重にバツは言葉をつないでいく。「勝手に人のものを取ってはいけませんとか、勝手に捨てちゃいけませんとか、勝手にころ──」なぜかその先を言うことに躊躇ちゆうちよしてしまう。

「勝手に殺してはいけない──殺人罪のことだね」キズはあっさりと言いきった。

「誰かのものを取りたいなんて思ったことないし、勝手に捨てたくなったこともないし、そもそも何か落としたらすぐ拾いたくなるし、それでも一番わからないのは、殺すっていう感覚だよ。殺すって命を奪うことでしょ? どうしてそんなことしたくなるの?」

 珍しくバツが自分の意見を強く主張した。

「旧世代の遺物だからねえ。旧世代は調律がなかったから、病気や老化や犯罪があったっていわれてるし」

 どことなくさとすようにツミは言った。

「病気や老化はわかるけど、犯罪はわからないよ。よくないことをしたくなることなんてあるわけないよ」

「そうなんだよねえ」

 ツミとバツの議論に出口は見えない。

「……オトコのせいじゃないかな」

 自分だけにしか聞こえないような声で、キズはつぶやいた。

「オトコ……ってなんだっけ?」

 聞き覚えはあるけど思い出すことができない。ツミはそういう顔をしている。

「旧世代にいた人の種類。調律に対応できなくて絶滅したって小学校で習ったでしょ?」

「どうせ私は小学校ではずっと寝てましたよ。で、そのオトコがどうしたの?」

「ほとんどの犯罪にはオトコが絡んでたっていわれてるの。オトコは非力でのろまで群れるのが好きで、やたら着飾ることに熱心で、悪さばかりしていたって」

「なにそれ、かわいい」デマはそれを想像して楽しんでいる。

「キズ、本当に詳しいね」バツは感心している。

「よくわからないけど、一度でいいからオトコに会ってみたかったかも」

「無理でしょ」キズは断言する。「一九六〇年にオトコの絶滅は確認されてるから」

「六〇年前かあ。だったらもう、オトコを実際に見た人もいないんだね」

 ツミはわかりやすく、がっかりした。五〇歳の誕生日になれば人はみな、ファームに入る。だからオトコを知る人はいない。本当にそんな存在はあったのだろうか。わからない。

「ところで、どうしてキズは犯罪が好きなの?」

 デマが、ぽつりと訊ねてみた。それは本当に他意のない世間話のような問いだった。

「好きっていうより、興味を持ってるっていうのが正しいかな。昔はよくないことだったのかもしれないけど、新しい時代になって娯楽に変化したことへの経緯を調べたりするのが楽しいっていうか──ツミの病気好きやバツの老化好きやデマのSF好きと一緒だよ」

「ろ、老化は昔から悪くないよ」声は小さくても、はっきりとバツは告げる。「私、大人になってもっと強いスプレーを使えるようになったら、すぐに白髪にするし」

「病気だってそうだよ。私、毎日鼻水出てても問題ないよ」

「そもそもSFは最初から悪くないよね?」

 三人からの抗議に、はいはいとキズは反省するふりをした。

「あ、そうだ」ふいにキズは思いつく。「なんだか犯罪がひたすら悪ものにされてるけど、おもしろい犯罪だってあるんだよ」

「なになに? 教えて」

 わかりやすく食いついてくれたデマにキズは感謝したくなった。

「あのね──勝手に人に触れてはいけません──って犯罪」

 ツミ、バツ、デマの三人は一斉に疑問符を浮かべた。

「さわっちゃダメってどういうこと? やっぱり犯罪って意味わかんない」

 そのツミの言葉にバツとデマが何度もうなずく。

「それは──」キズが不敵に微笑む。「こういうこと!」

 席を立ち、ツミの背後に回り、両手を相手の両脇にもぐらせて素早く小刻みに刺激する。

 当然、相手はくすぐったくて笑いがとまらない。

「ちょっとやめてキズ──やめ──きゃ──」

「どう? 猥褻罪わいせつざいっていうんだよ」

「ワイセツザイって何? 外国の言葉?」

 言いながらツミは必死で体をじたばたさせていた。くすぐられているからだ。

 笑いすぎて体力が尽きたのか、最終的にツミは上半身ごとテーブルにあずけた。

 犯罪は終わらない。

 キズの手はデマの腋下えきかを襲う。

 反応はツミよりも敏感で右目から大粒の涙をこぼして悲鳴に近い声を何度もあげた。

 バツに至っては彼女の中にあった新しい可能性を開花させてしまったようで、顔をあからめ、声を震わせながらも、もっと強く、もっと激しくしてくれてもいいかもと、より高度な犯罪を要求する始末。

 まもなく下校時刻であることを知らせるチャイムが響くころ、キズ以外の三人はぐったりとテーブルに突っ伏していたが、異常なまでの胸の高鳴りはなぜか心地よくもあり、犯罪に対して前向きな感情を抱くまでになっていた。


「なんか今日は変な空気になっちゃったね」

 水筒のお茶を一口飲んでようやく落ち着き、ほっこりとツミは言う。

「まあ、たまにはこういうのもありなんじゃない。たまには」

 デマは二回目の『たまには』をしっかりと強調する。

「それじゃあ、帰ろうか」

 キズが席を立ち、デマがつづく。

「あ、私はギリギリまで脚本の手直ししたいから、もうちょっといるね」

 辛うじて使えそうなえんぴつを一本見つけたツミは、それを手のひらで器用にくるくる回していた。

「私はツミと一緒に帰るから待ってる」

 帰りの方向がツミと同じであるバツはそう言ってから、この十分間ですでに三杯目のお茶を口に運んでいるところだった。

 バイバイ。そう言って手を振ってキズとデマは自習室から出ていく。

 また明日、なんて言わなくても、また明日、四人でここにいるから。


「ああ、外の空気おいしい!」

 校門を出て伸びをしたデマは開放感で満たされている。

「別に変わらないでしょ」

 キズは冷静でマイペースだ。

「そうだ、キズ。バス停までダッシュしようよ。私が勝ったら、たこ焼きね」

「なんでそこまで堂々とズルい宣言ができるの。オオカミにでもならないとデマには勝てないでしょ」

 それくらいデマの運動能力は優れている。校内でも知らない者はいない。

「キズが勝ったら私に好きな犯罪していいよ」

「だから自転車に乗ってもデマには勝てないって」

「じゃあ、よーいどん!」

 一方的に合図を出して少女は走り出す。

「だから──」

 抗議をつづけるのは時間と体力の浪費と考え、あきらめてキズはデマの背中を追う。


 そんな二人の姿を自習室の窓から別の二人が見つめていた。

「楽しそうだね」とこぼすツミ。

「……うん」とうなずくバツ。

 それから言葉はなく、お互い席に着くと、ツミは執筆を、バツは読書をはじめた。

 当直の先生が見回りにきて帰宅を促されたが、文化祭の準備であることを告げると、あと一時間だけいてもいいと許可をもらえた。

 短編を一本読み終えて視線をツミに向けると、えんぴつを持つ手がとまり、その表情はあからさまに悩みの様相を呈していた。

「うまく、いってないの?」

 バツの声に反応したものの、顔はノートを見つめたままだった。

「……さっき、すごいアイデア思いついたって言ったの覚えてる?」

 バツは「覚えてるよ」と答える。

「自信はあるんだけど、うまくまとめられるか不安で」

 いつも明るいツミの弱音は、必要以上にバツを心配させた。

「よかったらツミのアイデアを聞かせて。力にはなれそうにないけど、話すだけでも何か整理できるかも」

 うん、と言ってツミは語りはじめる。

「今度の劇はクラスのみんな一人一人に違う病気を演じてもらう予定でしょ?」

「うん」

「三十五人だから三十五種類の病気を考えてたんだけど、それをやめて、病気の種類を一つにしたいと思ったの」

「──え?」思わず声を出してしまうくらいには、衝撃的な改変だった。「病気を一つに? でもそれだと……」

 物語をつくる才能のないバツにでもすぐに頭をぎる不安材料が浮かぶ。

 取り扱うものが一つだけだと、物語が単調になってしまうのではないか。

 そんなバツの不安はお見通しで、ツミはこう切り出した。

「ねえバツ、幻の病気って知ってる?」

「幻の……びょうき?」

 もちろんたった今、はじめて聞いたので、首を横にふって知らないことを告げる。

「その病気にはいくつもの症状があるの。頭が痛くなる、めまいがする、ご飯が食べられなくなる、眠れなくなる、体に痛みを感じることまである……他にもいっぱいあるけど、そのはじまりの多くは、まず顔が赤くなるって言われているの」

「……なんだか、不思議な病気だね」

「それは病気じゃないと言われている。同時に、不治の病だとも言われている」

「不治? 治らないってこと? でも調律ができてから病気はなくなったんじゃ?」

「その病気だけは、まだ世界に残ってるって言われてる。そして、二人いればその病気を再現できるかもしれないの」そこでツミはバツをしっかりと見据える。「ねえバツ──よかったら、手伝ってくれない?」

 はじめて目にした真剣なツミの表情に、バツは自分の中に未知の感情の誕生を覚えた。

 少しこわい。ちょっとだけ断りたい気もした。しかしそこで、生まれ持ってのバツの恐怖心が猛威をふるう。

 いやだと言ってツミに嫌われたりしたら、それこそ一番いやなできごとになってしまう。

 だからバツは「うん、いいよ」と無器用に笑って見せたのだ。

「ありがとう」ツミも微笑んでくれた。

「……それで、どうすればその幻の病気になれるの?」

「ええっとね、まず二人が強く近づくの」

 そう言ってツミはバツに近づき抱きしめる。

 セーラー服とプリーツスカートの交わるあたり、つまりバツの腰の位置に手を回す。

 バツは少し拍子抜けをした。これくらいのことなら毎日のようにやっているのに。

 これで病気になるのなら、とっくになっているはず。

 つまり幻の病気はやはり幻で存在しないということになる。

 そう結論づけようとしたとき、ツミの口が動く。

「それでね、こうするの──」

 そう言って、顔を近づけて、自分のくちびるをバツのくちびるにつけたのだ。

 まず、あらゆる考えが消えた。

 冷静になろうとする自分がいた。だけどなれなかった。

 手をつなぐことやハグならいつもやってる。これくらいの密着はなんともないはずなのに、手でも体でもなく、くちびるになった刹那のこの変化は何なのか、混乱する。

 だけど、もっとこうしていたい想いが強まっていく。

 それなのに、自分を固定していたツミの腕の力はゆるめられ、体は離れてしまった。

「……どうだった?」ツミは訊く。

「……わかんないよ」バツは事実のみを声に出す。「……だから、もう一回してみよ?」そして願いを口にする。

「……うん」

 どうやら思いは同じ。

 二人はまたつながる。今度は簡単に離れないように、バツもしっかりとツミを抱きしめた。

『これ』が何なのかはわからない。でも『これ』に正しいやり方はあるのではないか、そう思って顔の角度を変えてみたり、より強く相手に体を押しつけてみたりした。

 そういえばどうして『これ』をしているときは勝手に目を閉じてしまうのだろうか。ツミも目を閉じているのだろうか。気になってそっとまぶたを開けると、同じく、そっとまぶたを開くツミと目が合った。心ごとつながっているようで嬉しい。

 セーラー服とセーラー服、スカートとスカート。衣擦きぬずれの音が響く。脚と脚も絡まっていく。

 そこに混じろうとするような、突然の激しい雨音。

 驚いて二人は窓の外に目をやる。

 天気予報はしばらく晴れがつづくでしょうと言っていたのに、反抗期のような大雨。

「……キズとデマ、大丈夫かな?」

「たぶんもう、バスに乗ってるよ」

 そこで二人は雨に打たれたように、はっと我に返り、少し距離を取って気まずく笑う。

「なんか、変な感じだったね……もしかして本当に病気になっちゃったのかな?」

 未曾有みぞうの鼓動がバツの胸で暴れていた。

「本当にね。だったら嬉しいな」

 お願いだから少し静かにしてと、ツミは自分の胸をぎゅっと掴んだ。

「だけどやっぱりツミはすごいね。こんな病気のことまで知ってるなんて」

「キズのおかげだよ」

「キズの?」意外な名前の登場にバツは首をかしげる。

「私の家の蔵にあった古い本に書いてあったことなんだけど、ところどころ昔の文字を使ってるせいでちゃんと読めなかったのを、キズが教えてくれたんだ」

「そうなんだ……キズって本当に頭いいよね。いつもどれくらい勉強してるんだろう?」

「授業中とか結構寝てるのにね」

 見えないところで努力しているのか、根本的な才能なのかツミとバツにはわからない。

 それより、今の二人には他にするべきことができてしまった。

 何かの病気を患ったかのように頬をあからめたバツは、こうつぶやく。

「……ねえ、ツミ」

 その一言で相手には全て伝わった。


 くちびるをあわせた二人の少女。

 美術品のように動かない。

 だけど片方に変化が訪れる。

「ぷは!」と声をあげて、デマは大きく深呼吸をした。

「……もしかしてデマ、息してなかったの?」

 もしかして足し算できないの、とでもいうようにキズはあきれていた。

「え? 息してよかったの?」

「当たりまえでしょ。むしろなんで呼吸をとめてたの?」

「だって犯罪だから、そういうものなのかなって」

「犯罪への偏見がすごい」

 ここまでのあらすじはこうだ。

 デマは極端に自分に有利な勝負をキズに持ちかけた。

 理由は空腹であり、たこ焼きを食べたかったからだ。

 それはキズも承知しており、自分も空腹だし、たこ焼き一つおごった程度で揺らぐほど財政難でもない。

 はるか先を走るデマの背中を追いながら、たこ焼きにかけるソースは甘口にするかトマトケチャップ味にするか悩んでいたところ、前方に変化が訪れた。

 デマの速度が不自然に落ちてきたのだ。

 うまく前が見えていないような、手探りで進むような、奇行ともとれる動き。

 実力差がありすぎるので今さらバランスを取ろうとしているのか、はたまたからかわれているのか、圧倒的に後者の理由だろうけど、思いきって速度を上げてみると、あっさりと抜いて自分が先にバス停にたどり着いてしまったのだ。

 ケガでもしたのかと心配したものの、そうではなかった。

 デマは普通にくやしそうであり、それを見てキズは純粋に自分が勝利したことに喜ぶ。

 ズルい勝負をしかけてきたデマだけれど、その結果とは真摯に向きあった。

 さあなんでも好きな犯罪をぶつけてきてというので、遠慮なく気になっていたものを試させていただいた。

 以前、ツミから解読を頼まれた本に、とある犯罪を想起させるものがあり、それがずっと頭の隅に居座っていたのだ。

「で、今のはどういう犯罪なの?」

「うーんとね、たぶん猥褻罪なんだけど強制猥褻罪かそれとも強制性交等罪って言えばいいのかな──あっ、でも私たちともだちだし、そもそも今回の件はデマから言い出したことだし、本人の承諾も得てるから、性的暴行の用件って満たしてないのかな? どうなんだろう?」

「……魔法をとなえてるみたい」

 ぶつぶつと自分の世界にこもってつぶやくキズを前にして、デマはそう言うほかなかった。

 現実に引き戻すかのような突然の雨。

 バス停は雨宿りできるように配慮されているものの、屋根は穴だらけで修繕は全くされていなかった。

 おかげで二人は景気よくずぶぬれる。

「ああ、こんなときにハリーがいてくれたらなあ」とデマはもらす。

「だれ? それ」

「ハリーだよ。オートロボットの。強くて優しくて便利なんだよ。遠くにいても雨がふってきたら高速で飛んできて傘をさしてくれるんだ」

「ああ、なんだSFの話ね」

「それにハリーの研究所にはカラーテレビもあるんだから」

「カラーテレビが開発されるのは百年後って言われてるけどね。たぶん『旅人と靴』に出てくる立体映像のほうが先に実現すると思うよ」

「キズは夢がないなあ──」

 そのとき、大粒の雨粒が立てつづけにデマの顔を直撃した。

 おそらく見間違いだろうけれど、不自然なかたちの雨粒がデマの左目からこぼれたように見えた。

「あちゃー、やっちゃった……」デマは顔をゆがめる。「ちょっともったいないけど、まあ、いっか」しかしすぐに立ち直る。

「どうかしたの?」

「別に、なんでもないよ」

 言いながら、雨の中、鞄を開いて緑のスプレーを出し、自分の目にかけて「これでよし」とうなずいた。

「どうしたの、デマ」

「なんでもないよ。それより少し先にちゃんとした屋根のバス停あるからそこまでダッシュしよ。私が勝ったらたこ焼き二倍。今度は負けないからね」

「本当に、なんでそんなに元気なのよ」

「これでも昔はよくオトコの子に間違えられてましたから」

「──どういうこと? オトコって非力でのろまなものでしょ?」

「──あ! そうだったね」ははは、とデマは笑った。

 話し合っている最中も、雨は遠慮なく二人を打ちつづける。

 そこでデマは、こんな声を発した。

「──ハックション!」

「もう、デマ──」キズはあきれた。「せっかく練習してるのに、また昨日の変なクシャミに戻ってるよ。クシャミはこうでしょ」

 へっくち! とキズは正しいクシャミを伝授した。

「せっかくだから、次のバス停まで二人で練習して、明日ツミとバツを驚かせよう」

「はい、先生」

 雨の帰り道、正解と間違いが何度も何度も交差する。




【不法投棄】

適切な手段、場所を用いずに、物、廃棄物を投棄すること。犯罪行為。

紙くずなど軽微な物を道ばたに投棄する、いわゆるポイ捨てもこれに該当する。

身につけているアクセサリーなどが外れたことを自覚しておきながら回収しないでその場に放置することも、これに該当する。


【風邪】

頭痛、目眩、食欲不振、睡眠障害、関節痛、発熱など、その症状は多岐にわたる。

主な原因はウイルスによる発症であり、原因となるウイルスは毎年のように新型が出現している。

そのため現時点では難病認定されているような病気でもいずれは特効薬が開発されるだろうけれど、風邪の特効薬の開発は現実的に不可能といわれている。


Fin

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