狐の嫁入り
黒イ卵
✳︎✳︎✳︎
魚の腐ったような生臭い風が吹いていた。
窓の外は晴れの中、降り始めた雨。
「狐の嫁入りってやつか……。」
誰に言うわけでもなかったが、思いの外、俺の声は部屋に響いた。
外はだんだんと黒い雲が広がり、雨粒は大きく、強くなってくる。
ーー痛い!やめて!
聞こえた幻聴は、確かに、あの日の天気雨の中で、俺の手から逃げようと踠いた、紀美
「未だに思い出すってなぁ……。」
くるりと窓に背を向けて、コーヒーメーカーをセットする。
……あの日の紀美姉の、白い細い腕、掴んだ赤い痕、失くしたボタン。
コポコポと飴色の液体が、ゆっくりとガラス容器に落ち、ナッツのような香りが広がる。
……あの日、神社で、雨宿りを、したんだ。
益子焼のぽてりとしたマグカップは、ゴツゴツとして、何か人の骨の感触のような、温もりがある。
ガラス容器の中の液体を、ゆっくりとマグカップに移す。
飴色だったはずが、注いだ色は黒く、波立ち、うねる。
晴れなのに、雨。
あの日の記憶に引っ張られる。
……紀美
紀美姉の濡れたブラウスが透けて、慌てて視線を逸らして、見ない代わりに。
聞きたかったけど聞けなかったことが、するりと口から出た。
……さぁね、どうだろう。好きな異性なんて、ね、よく、わからないなぁ。
その時、いつもよりも少しだけ掠れた低めのやさしい声で、俺の体にそっと寄り添ってきて、紀美姉の濡れたブラウスが、俺のシャツに張り付いた。
ゴクリと喉を鳴らし、紀美姉を見ないよう見ないようにして、そうしたら紀美姉は、もっとすり寄るようにして、俺の頬に手を当て、そっと紀美姉の方に向かせた。
……ねぇ。わたしの好きな人、知りたいの?
俯いたまつ毛の長さに、繊細さに見とれて、一瞬、言葉の意味がわからなかった。
え、何、だれ、ともごもごして、紀美姉の見上げた瞳に釘付けになる。
またゴクリと喉を鳴らして、両手で紀美
そっと紀美姉が目を閉じたのをきっかけに、紀美姉の口を塞いだ。
キス、なんてもんじゃない。
ただ唇を押し付けていただけだった。
それでも、近所の、二つ年上のお姉さんが、急速に近くて、血が上って、意識が飛んだ。
ーー痛い!やめて!
そんなこと言われても、どう止めていいのかわからなかった。
だって、紀美姉は……驚いて手を離した俺を抱きしめて、焦らないでって言ったから。
痛くしてごめん。
いいの、続けて……。
不意に、雨の音が止んだ。
二人して顔を見合わせて、少し笑い、紀美姉のブラウスのボタンが一つ無いことに気付いて、探したけれど、何故だか見つからなかった。
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すっかり冷えたマグカップのコーヒーを飲むと、薄まったナッツの香りが、口の中に広がった。
……狐の嫁入りってね。
狐の嫁入り行列を、人間は見てはいけないの。だから、人間に知らせるために、晴れの中、雨を降らせるの。
紀美姉は、当時行ってた塾の、講師と付き合っていた。
二股をかけられてたらしい。
相手は、講師の家に遊びに来てた元カノで、突然の天気雨で雨宿りをして、ソウイウコトに、なったと、聞いた。
ーー狐に化かされたんだって。部屋にあげたくせに。
紀美姉の眼が、光の加減で、黒い色がきゅっとすぼまるのを見た。
……ねぇ、わたしも、狐に化かされたってことで、おあいこよね?
化かされたのは、俺の方だと思いながら、今度は紀美姉にされるがままに、下になった。
……いつのまにか、晴れの中、また雨が降っていた。
(終)
狐の嫁入り 黒イ卵 @kuroitamago
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