曝熱の鎖獄

 コントロールルームに、僕は最後の無線機を持ち込んだ。極限環境下では壊れる恐れがあるので大尉はここに残していったのだが、僕についていえばどうせこのK-219にとっての最後のチャンスはこの僕なのだ。利用しても問題はあるまい。


「こちら同志プレミーニン。コントロールルーム内、突入しました」

「状況を報告しろ」


 艦長の声はあらゆる感情を抑えて冷徹だったが、それでもなお極限の緊張状態にあるのが分かった。そして、それは僕だとて同じだ。


「熱い。何もかもが熱いです。温度計は摂氏90度を示しています」


 生まれてこの方、こんな熱さは経験したことがなかった。ほとんど呼吸ができない。潜水艦乗りとしてやっていくためには信仰が必要だ、というのは艦長の口癖なのだが、ここまでの信仰が試されることになるとは正直、工業学校を卒業して海軍に志願したあの日からこっち、一度も考えたことはなかった。


 もっとも昨今の、特にアメリカなんかの潜水艦は快適に作られているらしいが、と僕はとりとめもないことを思う。いけない。錯乱が始まりつつある。


 このK-219は1970年くらいに作られた、原子力潜水艦の世界で言えば古参のおんぼろだ。だから居住区域の快適性も低いし食事もたいしたものは出ない。とはいえ、今いるこの場のこの環境に比べれば、日頃の居住区など天国そのものであるとは言えたが。


 制御棒を確認する。確かに四本、残っていた。制御棒コントロールシステムは喪失していたが、理論上は、僕が持ってきたレンチでこれを原子炉内にねじ込むことはできる。理論上は、この型の原子炉であればそうだ。というか、この型の原子炉で、もちろん停止した状態のものを使ってだが、レンチを使って手動でクランク・ダウンする演習は行ったことがあるのだ、工業学校時代に。あのとき必要だったのは約五分の時間だった。


 しかし今は、仮に五分でそれが可能であるとしても、あと五分間この毒ガスの充満する曝熱ばくねつ鎖獄さごくで、僕は生きていることができるのだろうか。


「同志プレミーニン、作業を開始します」


 僕は制御棒を動かし始めた。硬かった。硬いというか、おそらく事故の影響でフレームが歪んでしまってうまく下がらないでいるのだろう。だが、動くことは動いた。一本。まずは一本だ。


 そのとき、警告音がした。酸素ボンベが空になりつつあるという警告の音だった。ボンベをむしり取り、新しいものに変える。新しいものというか、これが最後の一個だった。これ以上は艦外から補給されない限りどこにもない。非常に問題なことは、このボンベの中の酸素が尽きたとき、僕には新しい酸素が、毒ガスから身を護る手段がないということだ。それは原子炉の停止に首尾よく成功した場合であっても同じだ。だが、今はそんなことを考えている場合ではなかった。


 二本目。一本目よりスムースに制御棒は下りた。


 そのときだった。僕はアーモンドの香りを嗅いだような気がした。次の瞬間には、肺の奥をガラスで引き裂かれるような感触を味わっていた。……ガスボンベのケーブルが熱でやられて、わずかに空いた孔から毒ガスが入り込んできたのだ。


 だが、それでも。僕は三本目の制御棒を下した。


 熱い。息ができない。ああ、たった一呼吸でいい。神様。呼吸をさせてくれ。


 それはできない相談だよ、プレミーニン。一呼吸、まともに吸い込めば、今やすっかり大きくなった孔から入り込んだ毒ガスのために君は死ぬだろう。死んだら、任務は続行できず、そのあとどうなるかは神のみぞ知るというところだ。


 四本目。残された最後の一本の制御棒に、僕はとりかかる。


 何千、何万、何億の人が死ぬだろう。

 今、このとき僕が弱かったならば。


 僕の故郷の人々も死ぬだろう。

 自由の女神は焼け落ちるかもしれないが、

 しかしそのときにはわが赤の広場のレーニン廟も朽ちて果てるだろう。


 そのときだった。レンチが折れた。制御棒は、あとほんのもう少しで沈み切るというのに。


 神様、勇気を下さい この罪深い世界を救うための勇気を


 僕は防毒マスクをむしり取り、全身全霊で最後の一呼吸を吸い込んだ。肺が焼け爛れていくのが分かったが、それでもその一呼吸で供給された酸素はぼくの生命となって僕の肉体を駆け巡った。


 最後の制御棒を、真っ黒に煤けた防護服の手袋ごしに、素手で原子炉内へと押し込んだ。確かな手ごたえがある。やった。原子炉の作動停止は、果たされたのだ。


 だがまだ終わりではない。状況を、艦長に報告しなくてはならない。そうでないと、艦長は原子炉が停止した事実を把握できず、K-219を自爆させるかもしれない。


「か……ん……ちょう……どう……し……か……」

「プレミーニン! 同志プレミーニン、首尾はどうだ!」

「原子炉、停止……しました……」


 最後の言葉を振り絞り、僕はそう言った。


「プレミーニン、君は英雄だ! よっぽどの勲章ものだぞ、プレミーニン! プレミーニン、どうした! プレミーニン、聞こえているか!?」


 もう何も聞こえなかったが、気が付くと僕は、コントロールルームと隣の部屋とを繋ぐドアの前に来ていた。力を込めて、それを押す。だが、開かなかった。


「プレミーニン! いま、救援を送る! 待っていろ! 死ぬな、お前は……お前は、お前のやってくれたことの価値は計り知れないんだ……!」


 何も聞こえない。神様。


 Mahma母さん

 

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神様、勇気をください きょうじゅ @Fake_Proffesor

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