神様、勇気をください

きょうじゅ

乾いた大洋

 全く、これは何という神の皮肉だろう。世界は東西冷戦の真っただ中だっていうのに、ソ連海軍北洋艦隊ガジーヴォ基地所属の整備兵の端くれであるところの僕、セルゲイ・プレミーニンはいま、アメリカは東海岸の民草の命と健康を大規模核災害から守るためにその身を投げ出そうとしているのだった。

 僕たちは今、バミューダ沖で大爆発寸前の原子力潜水艦の中にいる。バミューダ沖ということは、ニューヨーク、つまり僕は行ったこともないがあの自由の女神像の

お膝元からせいぜい千数百キロMメートルくらいしか離れていないっていうことだ。

 そもそも何でプルトニウムとウランを死ぬほど(絶対的にはたいした重量じゃないが、人間の命の重さに比するならばそれは絶対的な死をもたらすだけのかさである)積み込んでそんな大西洋の端っこを航海していたかというと、わがK-219潜水艦は旧型のオンボロで、攻撃目標に“ギリギリ”まで接近しないと核攻撃が出来ないという事情によるものであった。

 さて、本日つまり1986年10月3日、わがK-219はまずミサイル・ハッチの損傷によって火災事故を起こした。損傷したハッチからミサイル・サイロ内に海水が流れ込んで十六基のミサイルのうち一基が完全に破壊され、液体ミサイル燃料と海水の反応が猛毒のガスを発生させた。毒ガスは潜水艦内に充満し、僕らは酸素ボンベと簡易防護服のおかげでかろうじて命を保っているが、放っておけばまもなく酸素ボンベは必要なくなる。何故なら、わがK-219の機関であるところの二基の原子炉が炉心溶融メルトダウンを起こし、その熱が海水と反応して水蒸気爆発を発生させ、わがK-219は我々と共に木っ端微塵に吹き飛ぶからだ。

 厳密に言えば、それは核爆発ではない。だが核爆発だろうが水蒸気爆発だろうが我々の命が風前の灯であるという点に変わりはなかった。また、アメリカ大西洋沿岸でソ連軍が原子力潜水艦を搭載核兵器もろとも爆発四散させたという事実を、U.S.Aアメリカ合衆国がどのように認識しどのように反応するかという点、これは未知数であった。

 最悪の場合、相互確証破壊条約が発動され、アメリカの大統領はわがソ連を核攻撃するだろう。それは第三次世界大戦の開始と同義であり、つまり世界の終わりだ。我々がそれを知ることはないが、しかし我々の存在と名は、のちの人類(なんてものがこの地球上に残ることがあるならだが)にとって、永劫の呪詛の対象となることだろう。

 それを防ぐための手立ては、たった一つだけある。たった一つだけ、我々に残された望み。どういうものかというともちろん、それは、制御棒を操作してK-219の原子炉を作動停止させるというものだ。ちなみに制御棒って何だか知ってるかい? 僕はこれでも一応専門の技術者だから詳しく話すと長くなるんだが、ごくかいつまんで言えば、それが炉内に押し込まれると原子炉の活性が停止するという棒状の装置のことだ。

 だが、どうもそれはかなり薄い望みのようであった。いま、決死隊としてコントロールルームに突入した上官のベリコフ大尉が戻ってきた。


「ベリコフ! ニコライ・ベリコフ! 状況はどうだ、速やかに報告しろ!」


 と、無線で連絡してきたのはK-219の最高責任者、イーゴリ・ブリタノフ艦長。


「駄目です、同志……! 制御棒、すべてはおろせませんでした……! 完全停止まで残り四本です!」


 と大尉が報告する。


「セルゲイ・プレミーニン! そこにいるか!?」


 艦長が僕の名を呼んだ。


ダー、同志ブリタノフ。同志プレミーニン、待機しております」

「次はお前が行け。これは命令だ」

ダー、同志ブリタノフ。同志プレミーニン、既に準備しております」


 僕は既に防護服に身を包み、ガスボンベを背中に背負っていた。こうなるであろうことはとっくに分かっていた。ベリコフ大尉は息も絶え絶えでどう見てももう再突入に耐える状態ではなかったし、今この場で、原子炉に突入できるだけの心身を維持しているのは僕だけだからだ。


「同志プレミーニン、任務拝領いたしました。これより原子炉コントロール室内に突入します」


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