残夏の果て/3
しばらくして老人が出て行った後、私は店番の青年と薄暗い喫茶店に取り残された。青年以外に店を切り盛りしている人はいないらしい。静かな店内には蟻の足音さえ響きそうなくらいだった。
ねぇ、と声を掛ける。だって喋らないし。
「私、お代払えないんだけど」
云ってしまってから、また随分と横柄な物云いをしたなと思う。見ず知らずの人間に、こんな気安く話しかけてしまうような知り合いなんか、私は私の頭の中の私しか知らない。
このお茶のせいかしら。甘味は無かったが、渋味も苦味も無い。有るのは春先の空気のような穏やかさだけ。
ひと口つけてカップを置くと、胸の奥につかえていた息が長々と吐き出された。肩に力が入っていたことを、この時初めて自覚した。仄暗い店内の空気がクリアになった気がした。
甘くて、頭を布で包んでくるような、眩暈。僅か。
「気にしないで良いよ。お代は結構だ」
青年は、気を悪くした風もなかった。
眩暈。耳鳴り。快い。汗でべったべたになった身体を洗うみたい。
「これって、夢? それとも、うっかり私って死んじゃったの?」
「さあ」
真っ赤が差し出される。ベリーが山盛りに飾られたタルトが一切れ。猫の意匠が柄にあしらわれた銀のフォーク、やはり猫のマークがあしらわれた小皿。
「……夢なら、食べても太らないのか」
「さぁ。太るかもしれないし、太らないかもしれない。痩せるかもしれないし、痩せないかもしれない。君次第だ」
意味の無い忠告。タルトはやたら甘酸っぱい。不自然なくらい。こんなに甘いベリーを口にした事も無いし、こんなに酸っぱいベリーを食べようとした事も無い。ザラザラのタルト生地にシロップがぐにゃり。
美味しくて不味い。
言葉のなくなった喫茶店で、私はカップを傾ける。温かなお茶が身体中に染みわたってゆく。紅茶によく似ているけれど、それとはまた違うお茶のような気がした。
汽笛が、鳴った。
「帰るべき時間のようだ。迎えの――汽車か、君の場合は」
青年は外を伺うように首を伸ばす。窓ガラスは曇っていて、その役目を到底果たす気は無さそうだった。汽笛からして汽車が来ているらしいことはわかっても、その姿をここから見ることはできない。
「そう。美味しかった」
タルトを半分残して、重くて分厚い木のドアを押し開ける。誰もいない汽車が、来たときとは逆方向を向いて停まっている。甘ったるい葦の湿地とソーダ水の海を駆け抜けると、オレンジ色の光に影が点滅するトンネルに入る。
暑い――そう云えば暑い。ここまではひんやりしていたのかもしれない。梅雨時分の曇った朝みたいに湿気てて、優しい涼しさ。こんな暴力的な熱気じゃあなくて。
頭を上げると、スーツ姿の、あのひょろ長いオジサンがにこやかに私に向かって一礼をしてみせた。それから、さっきまでは空っぽだったオジサンの手からトランプくらいの大きさのカードを一枚、渡される。
「お気に召したのならば、またのご来店をお待ちしております。必ずですよ」
トンネルを抜けると、もの寂しい電車は普段通りの住宅街を走っている。蹴飛ばされた鞄が所在なさげにへしゃげて隅に追いやられていた。
手元には、猫のシルエットがあしらわれたカードが一枚。
喫茶、三毛猫 四葉美亜 @miah_blacklily
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