残夏の果て/2

「そうそう、あなたでございます。どうでしょう、ほんの少しだけ、あなたの時間をわたくしに頂けませんでしょうか」


 はたと頭を上げると、吊革を掴んだ、スーツ姿のひょろ長いオジサンが、細長い目で私を見下げていた。オレンジ色をしたネクタイが、安っぽい香辛料のように目の中で焼け付く。

 ぎこちなく肯いたその時、列車がトンネルへ入った。灯りがパッと消えてオレンジ色のトンネルの光だけが窓から途切れ途切れにして長い影を落とした。


 ずっと昔のフィルムみたい。出来の悪い映像。


「大変よろしい決断です。では、お連れ致しましょう」


 オジサンは、トンネルを出ると同時に消えた。にこやかな笑みをべったりくっつけたオジサンだった。

 疎らに乗っていた筈の乗客も消えて、外はいつの間にか薄暮の海に囲まれていた。水平線の彼方は茜色の雲が垂れ込めていた。


 汽笛が鳴る。


 運転手も居なくなっていた。無人の汽車が列車を牽引していた。ソーダ水を思わせる甘い香りが、プリズムのような光彩の中に漂う。

 落ち着いた気分になっていた。列車はソーダ水の海を抜けると、葦の湿地を進んでゆく……。

 電車は、電車ではない。汽車だ。ついに私も気が狂ったか。狂った先の世界がこれか。スイーツ脳な気はしてなかったのだけれど、窓から見える景色はひたすらに甘ったるい。ソーダ水の次はお菓子で出来たよくわからない構造物。クッキーっぽい煉瓦が中途半端に積み重ねられた柱。チョコレートの床。匂いからして吐きそうな程。

 

 寝不足だったからな。寝てるんだろう私。メイセキムだっけ。寝てるのに意識がはっきりしてる夢。明晰夢。明日から睡眠薬増やそうか。でもどこから調達しよう。不便な世の中、個人輸入もままならない。


 まあ、いいか。どこでもいい。どこに向かうも構わない。これが夢なら醒めなくていいし、ずっとこのままでも一向に構いはしない。私の鞄も無くなっている。教科書もノートも問題集も、ついでに財布も、私の所有物は影ひとつ残さず消え去った。

 いるものでもなし、くだらない。鬱陶しいのはこの制服。でも着替えなんか持っていないし。

 

 もしかしていつの間にか私死んでるのか。それも、いい。死んだことも忘れているならもう思い出さない。忘れろ、忘れろ。生き返るな。


 汽笛がなる。


「間もなく終点――喫茶、三毛猫。喫茶、三毛猫でございます。お出口は左側、お降りのお客様は足元にお気を付け下さい――」


 あの男のアナウンスが聞こえた。 

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