黄金(こがね)の水

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黄金の水

 真夏のまぶしい太陽が、真上から強烈な光を注ぎ込む8月の午後、コーヒーメーカーを販売する「エースコーヒー」の営業担当・酒井祐介さかいゆうすけは、小金井市内の企業をアポイント無しで訪問する、いわゆる「飛び込み」で営業活動をしていた。

 中途入社の祐介は、前職の生命保険会社での営業実績を買われて鳴り物入りでエースコーヒーに入ったものの、契約件数は1ヶ月で2,3件程度で、会社に帰ると上司に捲し立てられる毎日が続き、先日ついにリストラ対象として「最後通牒」とも取れる言葉を突き付けられた。

 祐介には妻と幼い子どもが居り、折角採用してくれた今の会社を辞めさせられたら、その先の見通しは相当暗いものがあった。


 現在担当しているのは、武蔵野・三鷹・小金井・府中の「武蔵野エリア」である。

 今日は、小金井市を流れる野川付近の閑静な住宅街にある中小企業を訪ね歩いた。

 辺りは雑木林が多く残り、木々にとまった蝉の鳴き声が煩い位に響き渡っていた。

 最初に訪れたのは、竹林に覆われた薄暗い道路沿いにある、小さな設計事務所である。

「はい、大崎設計事務所ですが」

「ごめんください、エースコーヒーの酒井と申します。突然お伺いして申し訳ありません。当社のコーヒーメーカーで作ったコーヒーをぜひご賞味していただきたく、伺いました。今ちょっと、試供品を用意しますね」


 そういうと、祐介はキャリーケースからコーヒーメーカーを引き出し、自社製品であるコーヒー豆と天然水で即席でコーヒーを作り、提供した。

 しかし、数秒後、苦虫をつぶしたような顔をした相手から投げつけるようにコップを返された。


「あのお、まだ、半分しか飲んでないようですけど」

「もういいよ!何だこのコーヒー、水が全然美味しくないぞ」

「いや、機械の高度な性能を持った最新型ですし、豆はブラジル産の最高級のものですから、きっとお口に合うと……」

「我々も忙しいんだ!もう帰ってよ!」


 試飲した事務所の所員は祐介の背中を押しだすと、そのままドアを閉め、鍵を掛けてしまった。


「はあ、もう嫌だ。今日も全然ダメだなあ」


 祐介はため息をつきながら、キャリーケースを引きながらとぼとぼと道路を歩いた。

 すると、目の前に突然、古びた外装の神社が姿を現した。

 鬱蒼とした竹林が神社の屋根や背後を覆いつくし、屋根は苔で覆われ、木造の賽銭箱は朽ち果てていて、夜中に訪れたら多分幽霊でも出てくるのでは?と思えるほど、おどろおどろしい雰囲気の場所であった。

 神社の参道の入口には、トタンで出来た看板がかかっており、

「ここ蒼井あおい神社には、『黄金こがねの水』の守り神が祀られており、人の心を清め、人々に幸運と安泰をもたらします」

 と、消えかかった黒い文字で書かれていた。

 思うように実績を作れず、会社からはクビをちらつかせられ、気分が落ち込んでいた祐介は、神にでもすがりたい気持ちだった。


「あまり当てにしてはいけないけど……一か八か、神頼みしよっかな」


 祐介は賽銭箱の前に歩みを進めると、小銭を投函し、手を叩いて目を閉じ、願をかけた。


「なんとか1台でも多くコーヒーメーカーを契約してもらえますように。このままクビになって、家族を悲しませてしまうことがないように」


 祐介は深々と一礼すると、参道を歩いて鳥居をくぐり、再び営業に出ようと気持ちを入れ替えていた。

 するとその時、鳥居の脇に『冷えたおいしい水がありますよ!』と毛筆で書き殴られた幟が立っていた。


「あれ?さっきこんな幟、あったっけ?」


 祐介はその幟を手に取り、一体いつ、誰が?と訝しがっていたが、暑い中歩き続け、喉がカラカラに乾いていたので、怪しいと思いつつも、幟の示す方向へと歩き出していった。

 藪に覆われた小径を辿っていくと、そこにはトタン屋根で出来た、小さな物置小屋があった。

 一目見た限り、小屋の中に誰も居る様子がなかったので、祐介は腹の底から息をすいこみ、大声を出した。


「すみません!ここで冷たいお水を頂けるんですか?飲んでいきたいんですけど」


 すると、白い裃と真っ赤な袴を着込んだ1人の若い女性が、後ろで結んだ長い髪を揺らしながら、小屋の奥から祐介の元へと歩み寄ってきた。


「いらっしゃいませ。『黄金の水』をお求めですか?」

「はい……というか、あなたは誰?」

「私はこの神社の巫女で、黄金の水を守る役割を仰せつかっている水谷美祢みずたにみねといいます」

「ほお、巫女さんなんだ!ところで、どうして黄金の水っていう名前なの?」

「はい。長きにわたり小金井の地を潤し、生業や文化を育て、人々の生活水として使われてきた、まさにこの地にとって『黄金』のような水だからです。この神社の真下を通るハケから採取されています」

「ハケ…って何?」

「国分寺、小金井を通って調布まで伸びる長い崖のことです」

「ふーん、しかしそんな尊い水を、通りすがりのしがないサラリーマンのこの俺が飲んでいいのかな?」

「いいですよ、今日はとても暑いですし、黄金の水が通りすがりの人の健康に役立つなら、水守としてこれほど嬉しいことはありません」


 美祢はにこやかに微笑むと、再び小屋の奥へと向かった。


「結構かわいいな、あの子…高校生?大学生?いや、もっと年上か?」


 祐介は、小屋の奥で水を用意している美祢の背中を見ながら色々と妄想していると、やがて美祢がこちらを振り向き、唐草模様をあしらったグラスを手にしながら戻ってきた。


「さ、こちらが黄金の水です。冷たいうちに召しあがれ」


 にっこりと微笑み、ハイトーンの可愛らしい声で美祢から水を渡された祐介は、照れながらも、水を少しずつ口に流し込んだ。


「ん……なんだ、このスッキリとした飲み口は?」


 祐介は、水をもう1口飲んでみた。

 いつも飲んでる水道水とは明らかに違う。軟らかい水という感じである。

 飲み終えると、祐介は目を閉じ、頷きながら確信した。

 これは、ひょっとしたら……祐介が取り扱うコーヒーメーカーの実演に使えるのでは?

 その時、美祢は祐介の考えていることはお見通しと言わんばかりに、クスっと笑って問いかけた。


「この水を、もっと飲みたいと思ってらっしゃいますよね?」

「う、うん。よく……分かってるね」

「もしこの水を必要とするならば、この神社の前の道路をずっとお進みください。そうすれば、崖沿いに小さな泉があります。あまり教えたくはありませんが、あなたは今、大変な境遇にあるようですから、ほんの少しでもお役に立てばと思い、こっそりとお教えしました」

「え?何で俺の境遇を……知ってんの?」


 美祢は祐介の疑問に対し何も答えず、祐介が飲み終えた空いたグラスを片付けると、

「黄金の水を飲み干したあなたに幸いが訪れますよう、ここでお祈りしていますね」とだけ言い、大きな瞳を瞬きさせると、下駄の音を鳴らしながら小屋の奥へと足早に去っていった。


 祐介は狐につまされたような気持ちで、しばらくきょとんとしていた。


「あの子、俺に水の在処を教えてくれたけど……本当にあるのかな?」


 祐介は目を閉じて冷静に考えたが、とりあえず美祢に言われた通り、神社から崖へと続く道路を進んでみることにした。

 すると、鬱蒼とした木々に覆われた窪地に、崖の隙間からチョロチョロと水が流れ出し、小さな泉が出来ているのを発見した。


「こ、これは……!?」


 祐介は、キャリーケースから空になっていた1リットルサイズのペットボトルを取り出し、崖の下の小さな泉の水を汲みだした。

 ペットボトルに水を満たした後、祐介は少しだけ水を手に取り、そっと喉に流し込んだ。


「これ……さっき飲んだ黄金の水だ!この水ならば、ひょっとしたら……」


 祐介は、汲み取った水をキャリーケースに入れると、早速近くにあった美容室に立ち寄り、いつものように飛び込み営業でコーヒーメーカーの実演を行った。

 ペットボトルに入れた水を使い、コーヒー豆とともに機械の中に注ぎ込んだ。


 応対したオーナーの女性は、約束も無く飛び込みで営業に来た祐介に対し、最初は怪訝そうな顔をしていたが、出来上がった試供のコーヒーをゆっくり飲み干すと、表情が一変した。


「お、美味しい!こんなまろやかで、スッキリした飲み口のコーヒーは初めて!ねえこれ、うちの店で置いてもいいかしら?」

「契約して下さるんですか?」

「もちろん!」

「あ、ありがとうございますっ!」


 こうして祐介は、喉から手が出る程欲しかった1件目の契約を締結することができた。

 その後営業に向かった会社でも好評を得て、この日だけで4件もの契約を獲得した。


 帰りに、祐介は蒼井神社に立ち寄った。思うように契約を取れず窮地にあった自分を救ってくれた神社の巫女・美祢に、どうしても一言お礼が言いたかった。

 しかし、水の在処を示す幟の姿はどこにも無かった。


「あれ?確か、ここにあったのに」


 祐介がいくら探しても、幟は無く、美祢がいた物置小屋に通じる小径も、藪に覆われ見つからなかった。

 その時、祐介の耳元に、突然、女性の声が入ってきた。


『無事にお役に立てたようですね。これからも、家族ともどもご安全に』


 祐介は思わず振り向いたが、周りには人影が全く無く、ただ蝉の声だけが響いていた。

「え?今のは誰?周りには、誰もいないのに……」


 その時突然、祐介のスマートフォンの着信音が鳴り響いた。


「営業部長の本田だ。小金井市の桝谷産業さんって所から、わが社のコーヒーメーカーの口コミ聞いて、お前に説明に来てもらいたいって電話があったぞ。今から大至急行ってこい!」

「そ、そうでしたか!今すぐ行ってきます!」


 祐介は慌ててキャリーケースを手にすると、神社を背に走り去っていった。

 

 祐介が去った後、鳥居の陰で、頬を赤らめながら祐介の背中を見えなくなるまで見守っている美祢の姿があった。


「自分のため、家族のために頑張るあの方に、これからも黄金の水のご加護がありますように……」とつぶやきながら。

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