隠れ家カフェにて

@kurapino

第1話

 小さなテーブルに運ばれてきたそれは、彼女を満足させるには十分だった。大きな皿には、2つの自家製ケーキと、苺で飾られたパブロバが並んでいた。添えられていた色鮮やかな花びらを彼女はポケットにしまった。彼女は全てをわかっていたのかもしれないし、何もわかっていなかったのかもしれない。しかしそれを母親へ伝えるには、彼女は幼すぎた。母親は彼女の隣でしばらく文庫本を眺めていたが、おもむろに、まだオレンジジュースを飲んでいた彼女の手をとり、外へ出た。階段を次々と降りていく。彼女たちは今日が何曜日かなんて知らなかった。日曜日を始めとして周期的にやってきては人々の活動の目盛になっていくそれに、縛られたくなかった。自分だけの時間を過ごしていたかった。しかし忙しなく過ぎてゆく現代において、それは叶わない。


 母親は吉祥寺のとあるひっそりとしたカフェに娘を連れて行った。カウンターで一人読書をする人、何かをノートに書き留める人...店員さんか煎れてくれたコーヒーの香りが立ちこめ、ゆっくりと時間が流れていく。その日もいつものように客は疎らで、のんびり過ごすには良い場所だった。娘は母親譲りの控えめな性格で、自分の感情を表現するのが苦手だった。しかしあの大きなデザートプレートを目の前にすると、目を輝かせ、母親に笑顔を向けたのだった。


 走るかのように歩く母親の背中からいつもの匂いを感じ取った彼女はどこか安心し、どうしたのか母親に尋ねてみた。しかし母親は何を言うでもなく、ただひたすらに足を進めるだけであった。ようやく母親が止まったのは、井の頭公園へ続く道の途中だった。入り口手前の商店街では立ち食いの店が賑わい、点在する古着屋はそれぞれの個性を光らせていた。公園に入ると、緑が生い茂り、池は細波をたて、涼やかな風が吹き抜けていく。これだ、と母親は思った。娘に感じさせたかったのは、この空気だった。まだ幼い娘に勉強のことばかり言い聞かせる父親は、娘の人生から色を奪った。娘には、方程式や文法に縛られず、もっと自由に考えて欲しい。


 様々な色彩に溢れる自由な街、吉祥寺。暗闇の中で目が徐々に慣れていくように、自分の暗い景色の中で見えるようになったものがある。それはその景色そのものを変えてしまうほどに強く大きく、そして果てしなく明るかった。

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