衝突

扇智史

* * *

 薄汚れた窓の中で、私は相も変わらず憂鬱そうにうつむいて、こちらに背を向けたまま手元で何かをもてあそんでいる。

 私は「きもい」と吐き捨てて、カーテンを閉めた。私の丸まった背中は、それきり見えなくなる。


 部屋の窓が、別世界にいるもうひとりの私に通じていることに気づいたのは、まだ小学校に上がる前だったと思う。庭と道路に面して明るく陽射しを取り込むはずの南向きの窓が、ときおり、薄暗く沈んだいつもと違う景色を映し出すのを、私は当たり前のことのように受け入れていた。

 窓の向こうはここではない部屋で、私と違う私が暮らしていた。向こうの「私」は私とは趣味が違うようで、服の代わりに本を、かわいらしいクローゼットの代わりにおしゃれな文房具を買ってもらっていて、いつも部屋の真ん中のテーブルに向かい合ってノートに何かをぐるぐると描いていた。

 最初はテレビでも見るみたいな気持ちで眺めていたけれど、そのうち退屈になってきた。いつも「私」が部屋にいるのは、私の行動と同期しているからではなく、単に彼女が外に出ないからというだけだった。私が部屋に友達を呼んでみんなで遊ぶようになっても、「私」はずっとひとり遊びに没頭していた。

 この子とは友達になりたくないな、と思ったら、私は「私」に興味をなくしてしまった。外でリアルな友達と遊び、リビングで1日の話を母親に聞かせて過ごした。自分の部屋に戻れば、手鏡で顔と髪と服を整えることに没頭し、スマートフォンを手に入れてからは液晶画面のなかに楽しみを見いだした。

 道路に面した窓に目をやることはめったになくなり、たまに「私」が映ることがあっても、見向きもしなくなった。


 それからの私は、自分で言うのもおこがましいけれど、いつもクラスの中心でたくさんの人に好かれて過ごした。

 私の周りには、いつも誰かがいた。休み時間になれば、いつも友達が私の周りに駆けつけてくるし、そうでなければ私から友達の席の前に駆けつけ、手近の椅子に座っていつまでも話をし続けた。その日のコーデや、嫌いな教師、共通の知人のゴシップ、話せることは山ほどあった。窓の向こうにいる別の世界の自分のことなんて口に出す必要もなかった。

 その場に即した話題を振りまき、適切な相づちで会話をスムーズにすることが楽しかった。小学生のころから鏡を手放すことなく、いつでも自分の笑顔とメイクを確かめて、明るくて外向的な自分を演出した。

 そうやって作り出した、私を大好きな私が、みんなに愛されているのだと思った。「珠美たまみちゃんって素敵だよね」ということばに、私は酔いしれた。


 恋もたくさんした。はじめのうちは、ほかの友達と同じように男の子に憧れて、男子とつきあったり別れたりしていたけれど、高校で後輩の女子に告白されてから、どうやら自分は女相手でもいけるらしいと自覚した。

 女の子との恋愛は、男子相手よりもいくぶん秘めやかで、だから私は次第にそれに没頭するようになった。たくさんの友達に振りまくためではない、たったひとりのための笑顔を作るのが、心地よく思えるようになってきた。

 いつしか、男にも女にも愛嬌を振りまきつつ、つきあうのは女性だけ、というのが私の生き方になった。


 ナズナと出会ったのは、社会人になって間もないころ。行きつけのバーで隣になり、なんとなく話しかけたのが彼女だった。ナズナは最初、すこし驚いたような目で私を見てから、ゆるゆるとその日の酒の話をした。

 会話は止めどなく続いた。押しつけられて大変な仕事の話や、近所のコンビニの新商品の話が、ナズナとの会話の中では光り輝く何かに変わっていくみたいに思えた。ナズナはゆるやかにうなずきながら私の話を聞き、ときどきふっと遠い目をしながら自分の話をした。そのテンポが、私を魅了した。

 その日の夜には、ナズナは私の部屋にいた。

 大学時代からひとり暮らしを始めて、何度か引っ越しを繰り返したすえにたどり着いた、居心地のいい部屋だった。適度なスペースのキッチン、真っ白い天井、深くて広いクローゼット。南向きの窓。

 シャワーを浴びて、ほっそりとした体をさらしたナズナはとてもきれいだった。私は「来て」と、ベッドの上で彼女を呼ぶ。

 だけど、彼女は遠い目をして、窓のほうを見ていた。

 振り返ると、そこでは「私」がいつかと同じ姿勢でうつむいている。「私」は定職にも就けていないらしく、いつもPCの前で顔をうつむけて、泣きそうな顔をしていた。

 ナズナの目が、困惑するように揺れた。私は手を伸ばして、最近になって買い換えた花柄のカーテンを閉ざした。薄い闇の中で、もう一度ナズナを呼ぶ。今度は、ナズナは迷うことなく私の誘いを受け入れてくれた。


 ナズナとの恋は、とても充実していたけれど、いつも後ろ髪を引かれているようなうっすらとした不安がつきまとっていた。私はナズナを全身で愛したし、ナズナはいつだって私のそばにいてくれた。仕事だってうまくいっていたし、それ以外の時間は全部ナズナのために使っていた。

 それでも、心のどこかがいつも薄暗いのは、ナズナが時々見せるあの遠い目のせいなのかもしれなかった。

 あの初めての夜、ナズナが見たもののせいなのかもしれなかった。

 あれから、その話をずっと避け続けているせいかもしれなかった。

 私はナズナをつなぎ止めるために、必死だった。


 窓の外が騒々しい。どこかで事故があったらしかった。

 ナズナがスマホで検索して、私に画像を見せてくれる。「玉突き事故だって」というコメントとともに見せられた映像の中では、信号待ちの車列の真ん中にいた軽自動車が、後ろから突っ込んできたトラックと前にいたワゴン車に挟まれて潰れていた。「ひえ」と私は低い悲鳴を上げて、私はナズナからスマホを奪った。液晶面を下にして、恐ろしい映像が見えないように、テーブルの上に叩きつけるように置いた。

「そういうの見ちゃダメだよ」

 グラスに注がれた果実酒をあおる。救急車のサイレンが、静かな街角に鳴り響く。都会で暮らしていくなら、このくらいの騒音には慣れないといけない。でも、大学で実家を離れてから数年経ったいまでも、私は宵の静けさを破られることに慣れないままだ。

 私は窓から目をそらして、テーブルの半透明な天板を見つめる。私とナズナで相談して購入したデザイナーズテーブル。私の部屋の家具は、いつのまにか半分くらい、ナズナの趣味に染まっている。

 かたん、と、隣に座っていたナズナが立ち上がる気配がした。見上げると、彼女は、私の後ろを回り込んで、南向きの窓のほうへと近づいていく。

「ここから見えるかな」

 彼女は、あの遠い目をしているだろう。私はナズナの方を向きもせず、つぶやくように言う。

「無理じゃない? どっちにしても、見たくないよ」

 ナズナは答えずに、窓のそばに立つ。窓を閉ざしているのは、ふたりで選んだ幾何学模様のしゃれたカーテンだ。

 何かが揺れる気配がする。目を上げると、ナズナはカーテンを半ばまで開けていた。

 南向きの窓の中で、思い詰めた顔をした「私」がうつむいている。安っぽいテーブルの上で、細い刃物が光っている。

「やめて!」

 声を張り上げたのは、誰に向けて、何に向けてだったのかよくわからない。ただ、私はナズナの背中に抱きつくようにして、カーテンを開こうとしていた彼女の右腕を必死に押しとどめた。

 ナズナが半分だけ後ろを振り向く。彼女は、あの遠い目で私を、私の後ろのずっと遠くに存在する何かを見ている。

 私はナズナをつなぎ止めたくて、必死に話をした。幼稚園のころにはじめて「私」を見た日のこと、それからずっと窓の向こうに「私」がいること。誰にも話したことのない秘密を、私は口にした。そうすれば、私とナズナの絆が永遠になるように思えたから。

 もっと私を見てほしかったから。

「……そう」

 ナズナは、私の異様な告白を、特に疑いもせずに受け入れたみたいだった。彼女は割と、そういうところがあった。控えめで、自己主張をあまりしなくて、人の言うことに唯々諾々と従ってしまう。私はそんなナズナを、必死に周りの悪意から守っていたつもりだった。

 そして、ナズナはうっすらと笑う。

「それじゃ、今度は、わたしが珠美に話していないことを話さなくちゃね」

「え?」

 不意を突かれて、私はそんな声しか出せない。いつだって如才なく人付き合いをこなして、的確な相づちを打っていたはずの私なのに、今この瞬間だけは、そんなふうにできなかった。

 じっと、私の眉間をまっすぐに視線で貫くような目で、ナズナは言った。

「小学校のとき、珠美とわたしは同じクラスだったんだよ。覚えてないよね?」

 呆然と、私は言葉を返せないまま。

「珠美はわたしになんか見向きもしなかったし、いっつもわたしの後ろの席の友達とばっかり話してたものね。ちょくちょく珠美に椅子を取られて、わたし、困っちゃってたんだけど、覚えてないよね? わたしは全部覚えてるよ」

 記憶の中に、今よりもずっと幼いはずのナズナの面影を探るけれど、すこしも思い出せない。ナズナの名前がクラスの名簿にあったかどうか、それさえはっきりしない。

 ナズナはきっとウソはつかない。

「偶然再会して、わたしのこと覚えてないふうだったのはさすがにおどろいたけど……声をかけてもらえて、すごくきれいになってた珠美がわたしを気にかけてくれるのが、ほんとうにうれしくて、だから誘いに乗って……」

 また、彼女の視線が、南向きの窓へと移る。私ではない「私」を見る。

「だけど……あなたじゃないあなたのほうが、わたしは、ずっと好きみたい」

「どうして! あんな、暗くて陰キャで友達もいないやつのどこが……」

「あの子はきっと、わたしの居場所を奪ったりしないもの」

「え……」

「わたし、ときどき恐くなるの。珠美に愛されすぎて、今度はわたしのたましいごと、あなたに奪われてしまうんじゃないかって。わたしが懸命に育ててきたわたしが、消えてしまうんじゃないかって。珠美、わたしに内緒でわたしといっしょに住む話、進めてるよね?」

 ぎくり、とした。ナズナの色を交えた家具の数々、彼女に見せずにひとりで選んでいた物件。どれもこれも、ナズナのため。

 彼女は驚いて、でも最後には受け入れてくれるって、信じていたから。

「ご、ごめん……でも、それもナズナの……」

「わかってる。ごめんね。でも、わたしはもう、そういう身勝手な愛情は受け入れられないの」

 ナズナがカーテンを開ける。窓の向こうでは、「私」がいよいよ追い詰められた顔をして、テーブルの上の刃物に手を伸ばそうとしていた。

 まっすぐな目で、ナズナは窓から見える景色の果てを見つめている。

「行かなきゃ」

「待って!」

 きつく握りしめた私の手を、ナズナは振り払った。どこからそんな力が出るのか、それとも最初からナズナは、こんな強さを持っていたのだろうか。

 ナズナの手が、窓を開ける。私がはじめて「私」を見たときから、ずっと開けられることのなかった窓。

 それはきっと、向こうの世界に通じている。

 行かないで、と叫びかけて、声が出なかった。ふたつの世界がつながって生じた異様な圧力が、私の口を封じ、ナズナの全身を押さえ込んでいるみたいだった。それはあるいは、世界の変化を妨げる抑止力なのかもしれなかった。

 その力にあらがって、ナズナは足を踏み出し、狭苦しい窓枠を乗り越える。

 ナズナが跳ぶ。私があげた悲鳴は、突然の轟音でかき消される。

 そしてナズナの姿が消える。


 私は呆然と座り込んだ。閉ざされた窓からは、遠い夜景が届くばかり。赤い光と灰色の煙が空を覆っている。さっきの事故現場で起きた爆発のせいかもしれない。

 炎の色に染まった夜を見やることしかできないでいる。ナズナは行ってしまった、私にはどうすることもできない彼女の思いの力で、私の手から離れていってしまった、私は、誰もいない場所に取り残された私は、どうすれば……

 ごとん、と、重たい音がした。

 振り返ると、バスルームから、何かの影が現れる。薄暗い部屋の奥からぬっと現れ出たのは、どこかで見覚えのあるような、だけど知らないような……

「やっと会えたね。わたしの、珠美」

 その声は、知っているような、知らないような、ナズナの声。私のよく知る声音で、だけど私の知らない圧力でもって言葉を紡ぐ、不気味な呼びかけ。

「ずっと見てたの、鏡の奥から。ようやく、ようやく、会えたね」

 世界が変化するのを妨げる抑止力。

 ひとりのナズナがこの世界からいなくなったから、その席に、新しいナズナが収まる。玉突き事故のように。

 足を引きずるようにしながら、ひどく長い髪のナズナが、私に歩み寄ってくる。

「邪魔なわたしは、もういない。わたしを愛してくれるよね、わたしの珠美」

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