第5話









 ゆっくりと陽が昇る。

 海水を浴び、雨に濡れ、泥と血、汗と涙に汚れた衣服のままでは式典には出られない。一同が途方に暮れているのを意にも介さず、休む、と殿下はそのお召し物のまま、休息堂きゅうそくどうに引っ込んだ。朝日に、休息堂の白い幕が眩しくはためいている。

 侍従が懐から携帯電話を取り出した。その仕草が私たち役人をとたんに現実へ引き戻す。


「分室庁舎の……シモダさんの上長に、なんて言えばいいんでしょうね」


 ふいにハシモトさんが言った。


御前ごぜん警備けいびで死人が出たなんて聞いたことがない」


 海で死んだシモダさんは、遺体もあがらないだろう。呻きながら、ハシモトさんは顔を覆った。

 宮廷への連絡を終えたらしい侍従が後ろから言う。


「みなさま方は、等しく口を噤んでくださいまし」


 殉職者についての報告も、その後のことも、本祭事に係ることはすべて宮廷の管轄です。今しがた起こったことをすべて忘れたかのような平板な口調に、ハシモトさんの嗚咽が重なって、私たちはどうしたらいいのか分からないまま、ぼうっと突っ立っている。ずぶ濡れの一等制服がじっとりと重い。


「……着替えないと」


 ツツミシタさんがうつろに呟いた。


「正午からの式典、これじゃあ出られない」


 現実から逃避したい私たちを洗い流すように、こうこうと白い陽が昇る。「そうですね、着替え、どうしましょうね」と、私は応えた。後ろで、ハシモトさんが鼻をすすりながら、泣き続ける。







 シモダさんは、省庁の特別昇進のほか、宮廷から白花しらばなの冠位を授与された。白花の冠位は、民間人が受けられる冠位の最上級である。御前職務中、王配殿下を守っての殉職と報告され、遺族には帝から直筆の礼状が贈られたと、くだんの侍従が言っていた。

 精神を病んだハシモトさんはそのまま退官した。省庁内で御前警備は呪われた職務だと噂され、来年度の御前警備を穏当に徴用できないと悟った宮廷は、ツツミシタさん、シモスワさんを宮廷職へ転属させた。破格の待遇で女官として召抱えることで、来年以降の御前警備役をやらせようもいうはらだった。


 私はというと、きつく緘口するよう厳命されたうえで記章を授与され、変わらず過ごしている。本来は郵送で届けられるはずの記章を手ずから持参したのは、くだんの侍従であった。

 ある日の昼、来客があると言伝られ応接室へ向かうと、一人の女が立ち上がってゆるく礼を一つ。雑面を着けておらず、素顔であったが、その声はまさしくタケウチと呼ばれていた年嵩の女官だった。


「……式典以外で、宮廷の人間を初めて見ました」


「そうでしょうねえ。落ち着きませぬか、わたくしの素顔は」


 ほほ、と侍従は笑って、小箱を開け、収められた記章を差し出した。私はそれを受けとり、制服の胸元に着ける。

 侍従は、その後の顛末を簡単に話して聞かせた。シモスワさんとツツミシタさんは、新帝陛下のご姉妹のおわす第二宮だいにくうで女官を任じられつつ、併せて術師としての位を与えられ来年の開海式典に備えているのだと、その説明の途中で、ふと侍従はこちらを見る。濃いおしろいのせいで、その顔にはつやがない。


「あなたを宮廷職に推さなかったのは、単にあなたが未婚の若い女性であるから。お恨みでしょうか」


 首を振る。宮廷勤めなど御免だ。


「宮廷に、王配殿下のお心を乱す若い女性は入れられませんからね」と、侍従はにこりともせずに言う。


「……ご冗談を」


 侍従の顔はその姿勢と同じく、ぴくりとも変わらぬまま。陶器でできた造り物のような顔で、生臭いことを言うものだから、その真意を量りかねて眉を顰めた。侍従はゆっくりとまばたきをする。


「いいえ」


 たわむれではございません、と侍従は続けた。殿下は、ときたまあなたのお話をされている。あなたに諭されたことを心に留めておられる。侍従はやれやれとばかりに首を振った。


「殿下はまだ幼い。そのお心はまだ柔い。容易く揺らぐ。すぐに浮き立つ。すぐに落ち込む。けれど宮廷でそのようなものはお辛いだけ。あの箱の中ではね、忘れることだけが救い。平坦であることだけが幸い。悼んで生きるなど、お辛いだけ。あなたのことも、あなたの箴言も、故郷の許婚のことも、早く忘れてほしい」


 侍従はぽつぽつと語りながら、ゆっくりと小箱を閉じた。だからあなたを宮廷職には推さなかった。カタン、と、あの箱が閉まったときと同じような音が鳴る。


 宮廷は、箱。殿下は子猫のように、豪奢な箱のなかで、あの禍々しいまでの神性しんせいを湛えた新帝に愛でられて生きる。美しい御魂を吐きながら、かわいがられて生きる。すぐに慣れて、と呼んだ少女のことなど、忘れていく。それだけが、このまま一生囲われる殿下の心穏やかに過ごすすべなのだと侍従は言う。それは、きっと正しい。宮廷で十余年は過ごしてきたであろうこの侍従にとっては、きっと正しい。


「―――殿下は」


 けれど私は、明けの空に月より明るく浮かぶ岩音硯いわがねすずり王配殿下の美しいたましいを、丸くたおやかな、そして凍えるような痛みをくるんだ黒いまなこを、見てしまったから。


いたんで生きるとおっしゃった」


「生きると決めてそうおっしゃったのだから、そんな悲しいことを言ってさしあげないで」


 侍従は煩わしげに私を見た。お前に何がわかるとでも言いたげに。


「私には殿下にとって何が辛くて何が辛くないのかなんてわからないけれど、殿下は侍従のあなたのことを慕っているようですし、」


 侍従の首も刎ねられる、と聞かされたときに初めて殿下の目が揺らいだことを思い出しながら、私は続けた。


「あなたぐらいは殿下のお心を肯定してさしあげたら」


 それはべつに、殿下のお心を思ってのことではない。


「だってそうしないと、殿下は孤独を育てて、いともたやすくお命を捨ててしまうやもしれませんし? 何しろまだお若いから。子どもの衝動は計り知れませんから」


 侍従は、私のあんまりな物言いに苦笑した。殿下がこれから末長く、海開きの祭事に出てくださらなければ、本邦の国民は困るのだ。言外の意味を察した聡い侍従は、ふう、と息を吐く。


「宮廷は箱とわたくしは言いましたけど、殿下にとってはもはや、この国丸ごとが箱、ということですか」


「そう、だからせめて少しは楽しい箱にしてあげて」


 私は立ち上がった。昼休みが終わるからだ。一介の役人でしかない私にとっては、殿下のお心がどう揺らごうとも、「前年度となんらかわらない今日」が一番、ありがたい。


「ようくわかりました」


 侍従もつられたように立ち上がる。省庁の味気ない応接室には不釣り合いな格式ばった宮廷服を、はためかせもせずに出て行く姿を見ながら、あれは服までも陶器でできているのか、と感心しさえした。


「それでは、


 侍従はそう言って、正面玄関前につけられた車に乗り込んで、去っていった。


「……また?」


 すっかり見えなくなってから、思わず呟く。


 私が宮廷の、それも帝や王配殿下のおわす主宮しゅぐう付きの側近文官を任じられたのは、それからしばらくの晩夏のことである。



 ―――あの、女狐。









 省庁が宮廷からの伺いという名の命令を断れるはずもなく、私は放り出されるようにして宮廷行きが決まった。女官ではなく側近文官扱いというのは、せめてもの配慮なのだろう。側近文官、要は新帝陛下と王配殿下付きの事務員である。



 ―――楽しい箱にしましょうね。



 主宮副女官長という肩書らしいくだんの侍従は、拝命式で殿下の背後から、薄く笑っていたと思う。雑面を着けていたから、当然、見えはしないのだけれど。

 私の顔を見た王配殿下の、微かにきらめく目を思い出してはげんなりする。

 楽しい箱にしてやれとは言ったが、私を楽しい箱の飾りにしてくれとは言っていない。なじれば、タケウチは朗らかに言った。宮廷の女ほど、信頼に足らぬものはありませんよ、お役人様。「王配殿下がお呼びですから、お早く支度なさって」と、彼女は可笑しげに言って私に与えられた居室兼執務室を出ていった。


 側近文官の任期は三年だ。

 私に課せられた新たな役務は、三年のあいだ、王配殿下を死なせずにいること。早々に祭事を終えて宮廷に戻りたいと、思わせること。触れてはならない。苛んでもならない。

 かせてはならない。当然、かせてもならない。


日下部くさかべ


 殿下が、無意識に縋るような甘やかな声で呼ぶ。やさしく光る、うるわしい御魂を舐めた舌で呼ぶ。


 ―――帝のご夫君ですからね、お忘れなきよう。

 

 私は頭の中にふわっと浮かんできた武内たけうちを平手打ちしながら、散歩に出たいと愚図る殿下を宥める。根負けして、宮廷内の庭へ出る。年齢のわりに上背のある殿下の後ろ姿を眺めながら、三年、この若い王配殿下が十九になるまで、触れさせもせず苛みもせずに飽かさない方法など、いったい誰が思いつこうか。


「はあぁ、……勘弁してくれ」


 だが私は従順で優秀な官吏。与えられた役務は全うしてみせよう。

 女官連中に半日で仕込まれた宮中での仕草―――例えば両手は袖の中に仕舞う、とか―――をぎこちなく体に張り付けて、私は先を歩く殿下を追った。





***


 



 






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海霊祭事 糸川まる @i_to_ka_wa_

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