第4話








王配おうはい殿下! お待ちください……!」


 ハシモトさんの声に振り返れば、その腕を振り払い、お堂のくぐり戸から転がるように王配殿下が駆けだしてくるのが見えた。

 ハシモトさんの"遮蔽しゃへい"の影響外に出てしまったがために、殿下の姿は一瞬、はっきりと海霊に見えてしまった、と思う。海霊のくらい口が三日月のように細く弧を描く。おぞましい笑顔に見えた。舌なめずりをするような笑顔に見えた。


「……


 けれど、ハシモトさんの呼びかけもまるで全く耳に入らない様子で、王配殿下の視線は海霊の立つあたりにまっすぐ向けられている。その目は海霊のすがたも見ていない。そしてうわごとのように呟く。「さや」と繰り返し呻く。

 このままではまずい。殿下が海霊と関わってしまう。私は王配殿下を結界の内側に入れるべく足を動かそうとするが、沼にはまったように動かない。

 ごう、としぶきを纏った風が吹き、まばたきほどの一瞬ののち、海霊が殿下の正面に立った。


 ―――みしったかおでもあったか


 だが殿下は、その海霊の呼びかけにすら反応を返さなかった。はっとして目線を辿る。見れば、海霊の連れてきた死者の群れ。―――海開き前の海に落ちれば死ねる、という殿下のお話が蘇った。「、どうして」と、再び殿下は呟いた。死者の群れの中に、新年の晴れ着をまとった少女がふらふらと揺れながら浮かんでいるのが見えた。真新しい上等の晴れ着の、赤と金の刺繍が、か細くきらきら光った。


「殿下!」


 自身を鼓舞するために声を張る。そして根の張ったような足を無理やり持ち上げると、王配殿下の背中に飛びつき、そのまま倒れ込んだ。


 ―――おほ


 ―――きえた よいぞ よいぞ


 ―――のう このむすめか あねかいもうとか 


 殿下を見失った海霊は、しかし変わらず可笑おかしそうな笑顔を浮かべたまま、今やだれもいない場所に向かって語り続ける。


 ―――みたまをぜんぶくれるなら むすめをかえしてやっていいぞ


 みるみるうちに、海霊の顔が晴れ着の少女に似ていく。頬のまるいやや幼げな輪郭も、目じりのすうと垂れた甘い顔立ちも、もの言いたげに開いた唇も、ただただ透明であることを除いて、さやと呼ばれた少女に似せられていく。それを呆然と見つめる殿下の目に、雨粒よりも大きな涙が浮かんでは、瞳に膜を張った。


「返す?」


 震える声で殿下が発する。私は慌ててその口を押えた。殿下、なりません。あのものの言葉に耳を傾けてはなりません。耳元で、海霊の甘い誘惑を散らすため、鋭く言ってはみるが、わずかも響かない。


「さやを生き返らせてくれるというの?」


 幼い声に、喜色きしょくが滲みさえした。


 ―――もちろん


 ―――みたまをぜんぶくれるならね


 ―――とくべつよ


 海霊の口調は、次第に若い娘のそれに似せられていった。


 ―――かわいそうに こんなにひえて


 透明な少女の姿をした海霊は、さやを傍らに引き寄せて、その頬のあたりに鼻を、額を擦りよせる。同じ顔が二つ。

 殿下の肩が震える。ごぼりと胸が鳴って、王配殿下は御魂みたまをひとつ、吐き出した。不透明な白い球。ぼんやりと弱く明滅しては、頼りなげに輪郭を崩す。


 これが、御魂。


 御魂をはっきりと目にしたのは初めてのことだった。これまで二度、海開きの祭事には御前ごぜん警備けいびで駆り出されているが、これまでは長年祭事に携わってきた先帝の王配殿下が、侍従の用意した衝立のなかで吐き出して、侍従が手ずから御魂を受け取ると、箱に入れて私たちに託し、箱のまま海霊に献上していた。


 幼い王配殿下の御魂は、ふるふると震える。侍従が慌てて箱に収め、私に差し出した。さあ、こちらを海霊に。そして早くこの祭事を終わらせなければ。その声音からは、侍従の怯えと混乱が読み取れた。


「まだだ、」


 王配殿下が呻く。そしてまたひとつ、げろりと手のひらに御魂を吐き出した。


「すべて渡すからさやを返して」


 充血した目から、血のように涙がこぼれる。


「クサカベさん、何を逡巡してるんですか! 早く、御魂を海霊に納めて!」


 ハシモトさんが怒鳴りつける。彼は今、シモダさんの分の結界もひとりで張っていて、その額には筋が浮いていた。


「私たちは殿下の護衛を任じられているのです、殿下に何かあれば、私たちの首も……」


 ―――はよう えらべ


 ハシモトさんの怒号を掻き消すように、海霊が急かす。殿下は震える手で、もう一つの御魂を私に突き出す。これも箱に収めてくれ、と言いながら差し出される両手を、自身の手でぎゅうと包んで、「殿下、お願いです」私は正面から殿下を見据えた。王配殿下の目の周りは赤く腫れあがり、とめどなく涙がこぼれる。手のひらにかすかに触れる殿下の御魂はぬるく、あるのかないのかわからない、湯気を丸めて固めたような触り心地だった。それはぼわぼわと、指の間でやわく震えた。


「今日ここで殿下に何かあれば、わたくしどもとて重く罰せられます。侍従も―――あなたの侍従も同じ。殿下は貴いお方です。帝の待望された貴いお方、そんなお方を死なせたとあっては、わたくしどもはもろとも首を刎ねられます、いともたやすく」


 侍従も、という言葉に、ほんのわずか殿下の目が揺れた。だが、と、殿下は悲鳴のような声で言う。さやは私のせいで死んだのだ、私が代わりになれるのなら。


「殿下、代わりになどなれません。死んだものは、もう戻りません」


 雨に打たれる少年の顔が、みるみるうちに不快そうに歪む。聞きたくないと、声にならずとも伝わってくる。けれど私は続ける。続けなければ、ここで殿下をうしなってしまう。

 祭事を終わらせられるのは、御魂を吐き出せる殿下だけだ。


「死者は帰らない。決まっていること。たとえ海霊でも神でも、そんなことができるはず、ないではありませんか」


 例え最上位の神であっても、死んだものの時間を巻き戻すように現世うつしよへ帰すことはできない。たとえ海霊が少女をおかに戻しえたとしても、それは生きていたころの少女とは全く違う存在だ。人間ではない。王配殿下も、分かっているはずのことである。うう、と殿下はひときわむごたらしく呻いて、なんでさやだけ、と背中を丸めて泣く。

 なんでさやだけ。

 幼さゆえと分かってはいるものの、ほんのわずか、淡い火花のように苛立ちが散った。あなたたちは自ら捨てたのだろう、いちどきの感情でそれを捨てたのは、あなたたちだろう、と詰問したいような、嗜虐心のようなものが湧き出でてくる。慌ててそれを掻き消す。相手は、まだ子どもだ。


 海霊が、少女の姿のまま、猫なで声で差し込む。


 ―――ぜんぶはだめか?


 ―――なればみたまをみっつくれたら つぎのぎょうじにも むすめをつれてきてやるぞ


 ―――あいたかろう? さびしかろう? つぎのぎょうじにもあえるぞ


 殿下が誘惑されるように首をもたげる。海霊の顔にだんだん血がかよっていき、透明だった姿は色を帯びる。眉を下げる可憐な少女の姿に、殿下の胸が痛いほどの慕情に燃えているのが分かった。これ以上はいけない。そう思って、私は意を決して"遮蔽"をほどいた。そして間髪入れずに再び感応かんのう特性とくせいを放つ。"遮蔽"の対象を、われわれではなく海霊のほうに変え、私たちから。試したこともない方法だった。ふわっと視界にもやがかかるように、海霊や海霊が率いる死者の群れの姿がぼやける。ひとの姿になりつつあった海霊も、薄絹の向こうに離されたように、やがてその姿をとらえられなくなった。


「さやが消えた、どうして、」


 慌てて立ち上がろうとする殿下を、侍従と二人がかりで押さえた。


「大丈夫、見えないだけです。殿下、もう、あれらを見てはなりません」


 殿下がなおも身をよじる。


「祭事を終わらせましょう」


 私は殿下の両肩に腕を巻き付けるようにして抱きすくめながら、なだめるように言う。


「嫌だ、せめて三つ渡させてくれ、そうしたら、またここでさやと会えるんだろう、」


「……殿下」


「私はどうせ宮廷に戻っても、もう一生囲われる。愛する人を選ぶこともできないのに、自らの命さえ自由にさせてもらえないのか? 来年、ここで会うだけ、会うだけ……」


「殿下」


「三つだけだ。三つなら、誰も気づかない。タケウチが黙っていれば、おまえたちが罰せられることもない」


「殿下!」


 耳元で放たれた私の大声に、殿下の肩が跳ねる。どうか聞いてくださいませ、と侍従が涙声で促した。殿下のお顔を見たら、その弱弱しく懇願するようなお顔を見たら言葉を紡げなくなりそうで、私は無礼にも王配殿下を正面から抱きかかえたまま続ける。


「来年。またここでお会いするためには、いとしいひとのたましいは、また一年、冷たい海で耐えねばなりません」


 ひい、と赤ん坊の泣くような声が抱きかかえた体の、胸の底のほうから響く。


「わたくしどものことを強烈に恨んで構いません、わたくしどもはきっと一生、死んでも、殿下の苦しみは理解できない。できないのに、殿下ののぞみをはばんでいる」


「でもいまこの瞬間、殿下はわたくしども皆のいとしいひと」


「何をおいても喪いたくないのです」


 ドウ、と波が高く上がった。いよいよ海霊がしびれを切らし、海をごうごうと鳴らし始める。冷えたしぶきが、雨に濡れた全身をなおも痛めつけるように濡らす。


「殿下、いたんで生きることを、選んではいただけませんか、」


 ―――のう そろそろしまいじゃ


 "遮蔽"しているはずなのに、海霊の声が響いた。

 私の未熟で結界が揺らいだのか、海霊との圧倒的な神性しんせいの格の違いか、空を覆うように荒海あらうみのぬしの声が響いた。結界を裂かれて、頭が割れるように痛む。両耳が別の生き物になったみたいに、どくどくと激しく脈打った。痛みの合間に、かわいらしい声が転がり込んできた。


「おまえ、血が」


 そんなことを私を見つめて言うものだから、はあ、と呆けた声を出してしまう。袖口を伸ばした殿下の手が、私の鼻のあたりに触れた。


「で、殿下、何を」


「ほら」


 そして見せられた紫の宮廷服の袖に、真新しい血がしみ込んでいる。


「鼻から血を出しておる」


 それを聞いて、「ご無礼を!」、我を忘れて殿下にしがみついていたことをいちどきに思い出し、弾かれたように体を離した。鼻のあたりを両手で押さえる私に、殿下はしみじみという様子で「私は、おまえのいとしいひとか」と言う。おまえたちのいとしいひとなのか。自分の口走ったことを思い返して、思わず青褪あおざめた。相手は王配殿下だ、なんという口を利いているのだろう。


「悼んで生きていくしかない」


 殿下は私の様子にはかまわず続ける。海霊のすがたを殿下から隠すための"遮蔽"はほどけてしまったが、殿下はもはや海霊を見ない。やさしい風が防呪の木々を撫でるように吹いて、海霊はいたように少女に似せていた姿から戻る。


「さやは死んだ、私が愚かだったせいで。死んだ者は戻らん」


「悼んで生きるしかない」


「それしかできない」


 しだいに、自らに言い聞かせるように。


「さやは死者だ。死者は死者の国に送ってやらねば」


「海の国はさみしかろう」


 殿下はそう言いながら、両手に抱えていた二つめの御魂を、ゆっくりと口の中に押し込んでいく。御魂は淡く光って、光ったまま殿下の喉を滑り落ちていった。ずぶ濡れの宮廷服に身を包んだ殿下の内側が、ほんのかすか、燃えるように光って、そしてしんとおさまる。あまりにも美しく、私も侍従も息をするのさえ忘れる。

 そして殿下はゆっくり立ち上がった。私が膝に抱える小箱を両手でそっと持ち上げる。王配殿下の御魂を収めた小箱は頼りないほど軽く、持ち上げられると蓋がカタリと音をたてた。


「殿下、」


「大丈夫」


 膝をついたままの私を見下ろす姿は、その気配は、年相応でありながら、どこかふっきれたように冴え冴えとしていた。

 殿下が結界の外に出る。ひた、と靴が濡れた岩を踏む。暴れる海面がしずまる。


 ―――なんだ つまらん


 殿下の差し出す箱を、風がさらうように巻き上げる。蓋が浮かぶ。身蓋の分かたれた隙間から、夜闇を白くにじませるように、光がこぼれる。水があふれるように、たぷたぷと満ちてこぼれる音が聞こえる。こぼれ出た御魂は、青いほどの白さで、ぼっと光った。殿下のたましいが、月よりも大きく大きくふくらむ。濃藍の空を覆って、月よりも大きく丸くふくらんで、光る。


 ―――まあよいか これなら わるくない いいたましいだ

 

 海霊の口がぽっかりと開き、殿下の御魂がゆっくりとその空洞に吸い込まれていった。つるつると吸い込まれていくのを、私たちも、殿下も、そして死者の群れも、みな石化せきかして見つめた。殿下の御魂が、最後のひとすじに至るまで海霊のはらにおさまってようやく、私たちは息を吐いた。後ろでへなへなとハシモトさんが崩れるように倒れ込んだ。


「祭事はしまいじゃ。また来年の七月にまみえましょうぞ」


 そして、殿下はぴしゃりと告げた。

 気づけば、殿下の背にする東の空が淡く白み始めている。海霊は満足げに輪郭を二、三度くゆらせると、


 ―――またの


 そう告げて、けむりと消えた。死者の群れがぱっと光る。殿下のいとしいひとの姿も、ぱあっと光って、そして煙のように消えた。


「さや」


 最後に殿下が、抗いようもなくその名を呼んで、手を伸ばした。伸ばした手は空をかいた。空の箱が風に舞い、そして思いのほか軽薄な音を立て、地面に転がった。からん、からんからん、と、軽々しい音をたてて転がった。

 そこに収まっていたのはまだ十六の子どもの、命をちぎったもの、それをうまそうに、大口で啜っていった海霊は、同じように、シモダさんのたましいも啜るんだろうか。さやと呼ばれた少女のたましいも、群れのように連なっていた人々のたましいも。




***

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