第3話







 とはいえ、差し出される御魂みたま開海式かいかいしきのたびに一つずつ。直ちに尽きるということもない。タケウチと呼ばれる侍従は、宥めるように言った。


「わかっておる」


 王配おうはい殿下は、言葉少なに応じた。不慮の事故で崩御なされた先帝の夫君も、まだご存命だ。


「先帝が崩御された折、私はまだ結婚できる年齢ではなかったから、のがれた逃れたと、母がおかしうなるほどに安堵して泣いておった理由が分かった。……母は、私を王配にしたくなかったのだな」


「急転直下、まさか法が変わろうとは、誰も思いもせん―――、のう?」


 王配殿下は笑いさえ含んだ震える声で話し続ける。私たち職員は息を潜めて語りを聞いている。殿下の言葉が切れると、思い出したように潮騒しおさいが間に差し込まれる。風はなくとも、不思議と波は寄せる。


「結局私は婿入りが決まって、今はもう母はおかしくなってしまった」


 ぽつりと、王配殿下は言った。


「私のせいだ」


 ざわざわと、風もないのに防呪林が騒ぎ始める。陽が傾き、曇天がうす赤く滲んでいる。


「私が、心中など図ったから」 


「―――殿下!」


 侍従が慌てて遮った。まだ十六歳の子どもの放つ、心中、という響きが、やけにふわふわと軽々しいものに思えてきて、一瞬意味を掴みかねる。


「そのお話は、どうかお控えくださいませ!」


 幕の内側に向かって声を掛けながら、私たちのほうを見下ろす。決して口外するなと、雑面の下の目に射貫いぬかれたような気持ちになる。殿下はそんな侍従の制止を無視して続けた。


「二つ上の従姉いとことな、幼いころから、将来の約束をしていたのだ」


 私たちは、その声の震えが、笑いをこらえていたからではなく、涙をこらえていたからだと気づいた。私たちが聞かねばならないお話なのだろうと思った。まさか宮廷で、このようなお話を吐露するわけにもいくまいと。 


「だが私は宮廷に呼ばれてしまった。当然、断ることなど許されぬ。なら、ならのう、結ばれることの到底叶わぬなら、一緒に死んでしまおうと思って、新年を祝う宴席を抜け出して、海まで走って、それで身を投げたのだ。死ねばなんとでもなろうと、思って。生身で、海開き前の海に落ちれば死ねるからの」


 その口調はあくまで軽い。

 手を繋いで駆ける若い男女の姿が浮かんだ。

 今年の冬は恐ろしく冷えて、一月はほとんどずっと、雪が降っていた。海の底で一緒になろうとでも、甘やかに言葉を交わしたのだろうか。雪が海に落ちて大海の一滴に混ざるように、決して分かたれぬように居ようとでも。……だが王配殿下は助かっている。


「ただただ、いとしいひとを死なせさいなんだだけだった。母はおかしくなってしもうたし、父も私が目を覚ますまでさんざん、宮廷に責められてしてしまった」


「むなしい存在でしかない私のようなものが、たかだか寿命のひとかけらを食わせてやるだけで役に立つのであれば、それはもう、―――」


 それは、もう。

 王配殿下の声は、その先を潰したまま途切れた。そこで初めてゆるく風が吹いた。ぽつりと雨が落ちる。私たちの座っているあたりは粗末ながらも板張りの屋根があって濡れることはないが、途端に地面から立ちのぼる雨と濁った潮の匂いに、ハシモトさんのみならず全員がわずかに顔をしかめた。


「……少し休む」


 王配殿下は長い沈黙ののちにぽつりと言った。侍従を呼び、二言三言、小声で言葉を交わす。「祭事は、何時から」「日の入りの寸前にお声掛け申し上げます」「分かった」

 会話を終えた侍従は、石段を下って私たちの前に立った。睨みを利かせるように、たっぷり数秒押し黙って、そして穏やかに釘を刺す。


「ご理解いただいているかとは思いますが、開海式典に関するあらゆることは、決して口外なされませんよう。当然、先ほどのお話についても同様です」


「……ええ」


 もちろん。ハシモトさんが代表して答え、私たちは俯いたまま浅く頷いた。

 まだ脳裡に、しんしんと雪の降るような心地だった。雪がはらはらと落ちるのみで、そこには誰の姿もない。


「立って歩いてもかまいませんか」


 ふいに、シモダさんが声を上げる。「椅子に座りっぱなしで腰が痛くなってしまって」と腰のあたりをさする。


「ええ、かまいませんが」


 余り遠くへは行かれませんよう、と侍従が言い終わらないうちに、シモダさんは立ち上がって伸びをした。ほかの三人は、疲弊した様子でぐったりとパイプ椅子の背もたれに寄りかかる。目線だけわずかに動かして石段の先を見上げれば、ぴんと背筋を伸ばしたまま腰掛ける侍従の姿が見えた。


 宮廷の人間は、揃って雑面をつけ、同じ薄灰色の侍従服をまとっている。みな背格好も近く、声で何となく性別や年齢を察する以外には、区別をつけることができない。みな、作り物のようにしゃんと立ち、凛と座る。同じ型から鋳抜かれた機械なのかもしれない。


 することもなく、目を閉じた。

 婚約者の顔を、思い浮かべる。

 二つ年上で、徴税部に事務職員として勤めるおっとりした人だ。離島の地主の次男で、母親が私との結婚に反対している。私の実家が婿取りを希望しているからだ。二人の間で口約束の婚約を結んだまま、もう一年が経つ。徴税部は目立って遠隔地への異動の多い役所である。婚約者も今は山二ツ越えた遠い町に赴任していて、もう長いこと顔を合わせていない。思い浮かべた顔が、正しく今の彼の姿に似ているのか、自信はない。

 私たちは海に身を投げずとも逃げられるのに、それをしないのは、もはや億劫さを焼き払うほどの熱量を喪っているからなのだろう。まだ若い身空で心中などばかげていると思った。人はすぐに忘れる。いとしいひとも、熱情も、きっと殿下も三年経てば、帝に猫のように囲われる暮らしに慣れる。



 ―――ドボン、



 海面に、石をたたきつけたような音がかすかに響いた。が近くなったからか、波が暴れている。無意識に閉じていた目を開ける。お堂は完全に沈黙している。侍従は、端から椅子に座った木彫りであったかのように、じ、と動かない。防呪林が、不穏にざわめいた。



「日が暮れてしまう前に、結界だけ張っておきますか」


 私が目を開けたのをきっかけにしたのか、時計を眺めてハシモトさんが言った。することも無いですし。「あ、シモダさん呼んできます」と、ツツミシタさんが立ち上がった。私も遅れて立ち上がって、シモダさんと自身の座っていたパイプ椅子を畳む。うとうとしていたらしいシモスワさんは、あくびを噛み殺して伸びをした。私たちが張る結界は、御魂を吐き出す王配殿下の姿を淡くぼやけさせ、大海の霊神を惑わすための"遮蔽しゃへい"の結界。まかり間違っても海霊が王配殿下を丸呑みしないよう、そのお姿を隠すための結界だ。


「―――ハシモトさん、」


 ツツミシタさんが、青褪あおざめた顔で戻るなりハシモトさんに耳打ちする。 


「どうかしました?」


「シモダさん、……いません、どうしよう」


 ひゅっ、と背筋が凍る。にわかに速まる私たちの拍動を掻き消すように、バラバラと激しく雨が降り始める。逃げたのか、あるいは、


 ドボン、という海面を打つ音が耳に蘇った。


「クサカベさん、何か気になることはありませんでしたか。妙な音がしたとか、そういう」


 ハシモトさんとツツミシタさんがこちらを見た。ハシモトさんの異質いしつ感応かんのうが嗅覚に強く出ているのと同様、私の異質感応は聴覚に強く出ている。

「……そういえば、海に、何かが落ちる音が」


 全員が息を飲んだ。


 また水を打つ音が聞こえる。これは私の脳内で鳴っている音ではない。重たい何かが、ドボン、ドボン、と水面を打つ。


「……まさか、シモダさん、落ちた?」


 激しい雨の音に紛れて、ドブン、ドブン、と、水の塊が水面を砕くような音が、歩くほどの速さで、こちらに近づいてくる。これは波の音ではない、海霊の起き上がる音だ。





 海霊の、海から上がる音。





「ハシモトさん―――すぐに殿下を!」


 ほとんど同時に、ハシモトさんもその気配を察した。


「―――殿下!」


 ハシモトさんのほとんど悲鳴に近い声。侍従が弾かれたように立ち上がる。瞬間、轟音に振り返れば、海面から高く高く水柱が噴き上がった。お堂の直径をはるかに超える巨大な水柱が、まるで巨大なかいなで掴まんとするかのように、こちらに向かって倒れこむ。ハシモトさんは迷いなく休息堂に体全体を投げ込んだ。私とツツミシタさん、シモスワさんは同時に"遮蔽"の感応特性を放つ。三人分の"遮蔽"が、煙幕のように一瞬、海霊からの干渉を躱した。


 水柱は目標物を見失い、私たちの待機場の手前に、どう、と倒れた。岩の地面に跳ね返されて崩れた水柱が、高潮のような濁流としぶきに変わって待機場へ流れ込み、私たち三人の全身を濡らす。水流をまともに受けたパイプ椅子が、返す波に引きずり込まれるかのごとく、岩壁の下へ消える。


 ―――ああ のがした


 ふいに、はるか水底から響くような声とともに、ざぶんと海面から人影が浮き上がった。


 ―――おこるな たわむれじゃ


 大海の霊神はぼやぼやと輪郭をにじませながら、水面に棒立ちで浮かんだ。

 海霊の体は透明で、向こう側に西日が透ける。今まさに沈んで消える西日が、その体を透かして陽駆ひかる。その姿は人に似せているのだろう。丸い頭、昏く空いた口、細い頸、肩、かいな。腰から下はすうとすぼまっている。


 ―――さて


 ―――ぎょうじといこうかの


 海霊が歌うように言った。水の壁を挟んでくぐもった声。瞬間、断ち切られるように西日が海に飲まれた。海霊は、夜をもたらす。

 その声に誘われるように、ざぶざぶと水面を割って、海面から大勢の人間が上がってくる。白く不透明な肌に海水がまとわりついて、彼らはずぶ濡れのままだらりと腕を体の横に垂らしている。昨年一緒だったキノシタさんは、これを見て心を壊した。私は思わず目を逸らす。水柱を浴びて濡れた全身が、今更になってひどく冷え始めた。


 海霊は、海開きの祭事にその年に海で死んだ人間たちを連れてくる。たわむれに。


「……ああ、シモダさん、……シモダさん……」


 シモスワさんが、まるでうなされるように繰り返し名前を呼ぶ。シモダさんはだらりと腕を垂らして、波の揺れるのに合わせて、ふら、ふら、と揺れながら、海霊の横に立っている。


 海開き前の海に落ちれば死ぬ。これは本邦では、決まっていること。海開きの前に海に魅入られたものは、海霊に奪われる。古代の帝と海霊との間で決められたことだ。それが一介の役人であっても、貴いお方のいとしいひとであっても。


 決められていることなのだ。




***



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