第2話
「
ふいに、左隣でハシモトさんが呟いた。彼は鼻がきく。確か、
「祭場の匂いは、何度経験しても慣れませんねえ。そもそも普段、俺たちは海になんて、好き好んで近寄らないし。磯の香りからしてあんまり慣れてないから」
泥の
車は一度も停車することなく目的地である祭場に到着したらしい。ゆったりと停車する。「立ち上がってください、手を触りますね」と
時間は十四時ごろだろうか。
今日は朝から土砂降り、空は厚い雲に覆われて陽は差さず、しかしじりじりと汗のにじむ初夏の気温に、目隠しの下が痒くなる。否応なく鋭敏になった聴覚が、シモダさんの速く浅い吐息や、宮廷の人間たちが纏う硬い衣服の衣擦れの音をとらえては、なんとか世界を形作ろうと躍起になる。
祭場をぐるりと囲む
祭場は海辺だ。日付は六月末日。まだ海に近寄ってはならない時期だと、防呪林がけたたましく騒いでは、この場を離れるよう警告を続ける。
「それではこれより、私どもがお
手を引く女が囁くように言う。私はすなおに従って、顎が鎖骨につくほどしっかり首を折った。途端に、ぞわりと体中の皮膚が粟立つ。折っている頸のてっぺん、丸い骨の先にぽたりと氷の粒が落ちたような悪寒が、細かに波打って足指まで伝播する。濡れた
シャラン、と小さな鈴の音が遠くから、重なって響いた。
「お戻りくださいませ」
しばらく歩いて、女はまた囁くような声で言った。女に掴まれている手先の感覚がない。前後を、
「ここからは、お口をしっかりと閉じてお待ちくださいませね」
女は妙に甘やかな声でそう言うと、私の手を離した。突然よすがを
まさに、今、
―――シャラン、
今度ははっきりと、空気中の塵を払うように、数百もの鈴が重なって鼓膜を揺らした。―――シャラン、シャラン、と鈴の鳴らされるごとに、蒸し暑さが霧散していく。
「御前にて」
先ほどの女とは別の、もう少し年嵩の女の声が淡々と告げた。直立の姿勢から素早く
長い沈黙、
樹木のざわめきも、風のささやきも、人間の呼吸音もない。死んだのか、と思いさえする。昨年も、その前もそうだった。帝を前にして、私たちはあらゆる感覚を喪う。
「本年も」
「そなたらが、任を
昨年と同じ決まり口上。昨年はそこで終わったが、新帝は続ける。
「我が夫、
「怖ろしがるやも」
新帝が息を継ぐごとに、先ほどの濡れた絹が一枚ずつ、足されていくように、体が重く、冷えていく。「のう?」と、帝がおそらく傍らの御輿におわすのであろう王配殿下に、笑みを含んだ声を掛けた。王配殿下は何も答えない。
「頼みましたよ」
それが、口上の締めの一言だったようで、終わるなりまるで波の返すかのごとく周囲に音が戻ってきた。
御簾が戻される音に続いて、御輿と担ぎ手、侍従たちの遠ざかっていく足音。砂を踏む布靴の音。帝の気配が遠ざかるとともに、今度は少しずつ、自らの感覚が戻ってきた。たとえば、背中ににじんだ冷や汗が、制服のシャツを肌に吸い付かせる不快さ。額に滲んで頬を転がる汗の粒が、皮膚に与えるわずかな刺激。
脱力したらしいシモダさんが呻き声を漏らした。
「これより、王配殿下への
ぴり、と再び背筋が伸びる。
頭の後ろで留め具が外され、目隠しが取り払われると、目元の皮膚が久々の外気に一瞬だけひんやりと冷えた。だがその爽やかさもごく刹那のこと、蒸した空気に再び汗を纏う。ゆっくりと目を明ける。明るさに慣れると、十歩ほど先の輿が目に入った。宮廷の紋章が入った豪奢な輿は、担がれたまま、御簾を下ろして沈黙している。
身じろぎもできず、息をひそめるようにして見つめていると、ふいに内側から「下ろせ」と
「殿下、
「かまうな」
私はその姿を直視して、息をのんだ。
―――王配殿下、お若いとは聞いていたけれど。これでは、
―――お若いというよりもまだ子どもではないか。
せいぜい十五、六に見えた。
私と同じことを、警備隊の全員が感じたのだろう。皆がそわそわと視線を泳がせている。当の王配殿下は、肩甲骨のあたりまで伸ばした髪の毛をうっとうしげにひとつに括ると、睨むようにこちらを見据えた。髪と同じ、黒く濡れた目。紫の衣の裾が地面に触れて、侍従が慌てて整える。
「そのほうらが結界を張るのか。もっと、老人ばかりと思っていた」
きゅっと鋭利に吊り上がった目元に対して、その口調はいかにも子どもらしく、図らずも緊張がゆるむ。王配殿下のふるまいに、侍従が―――顔は見えないのだが―――おろおろと戸惑っているのが伝わってきた。
「のう、教えてはくれぬか。私はここで、何をしたらよいのだ。結界まで張らねばならぬ祭礼とは、どういうものなのだ。宮中のものは誰ひとりとして本当のことを教えてはくれぬ。私は嘘をつかれているのだけはわかるのだ。陛下に問うても、笑うておられるだけ」
「王配殿下、それ以上は、」
「私はあのものらに問うておるのだ」
王配殿下は、髪の毛のをつまんでぷらぷらと揺らしながら、口を挟んだ侍従を黙らせる。そして裸足のまま、ハシモトさんの前に立った。
「のう。祭礼とは何だ?」
ハシモトさんが、ごくりと息をのむのが分かる。そして意を決したように、「畏れながら、申し上げます」と声を張った。
「開海の祭礼は、大海の霊神との折衝の儀式でございます。大海の霊神すなわち、近海の
ハシモトさんは、ひといきに言った。王配殿下は、軽く頸を
「して、」
そして問答となる。
「折衝、と言うたが、こちらは何を差し出すのだ。半年の安寧の代わりに」
ハシモトさんは、いよいよ黙った。
「ん? 答えられぬのか」
王配殿下は、そんなハシモトさんの前にしゃがみこんだ。私たちはぎょっとする。見ているだけで心拍が跳ね上がるのに、目の前にしゃがまれたハシモトさんの心境たるや。視界の端で、彼の腕が小刻みに震えるのが見えた。
「―――殿下!」
いよいよ、侍従がたしなめるような声を上げる。はあ、と王配殿下はため息をついて立ち上がった。そして、大きな声を出すな、と口を尖らせる。
「どうせ、あすの夜中まで、結界を張る術師らと私、それからタケウチ、お前しかおらぬのだ。好きに喋らせんか」
「せめて、後ろのお
「そうか? 私は別に地べたでも―――」
「殿下」
「わかっておる、怖い顔をするな」
侍従は雑面をつけているから、顔は見えないはず。王配殿下なりの冗談だったらしい。張り詰めた空気がまたほんの少し緩んで、ハシモトさんがようよう息を
◆
侍従は王配殿下の足元に靴を置くと、裾を持ち上げ、神輿の後ろに据えられた
三段ほどの石段の上、おそらくはずっと古くから使われているのだろう、黒い木組みのお堂には、出入りするためのくぐり戸に真新しい絹布が下ろされている。扉はない。侍従が捲り上げた布をくぐり、王配殿下が内側に入ると、こちらからはその影のわずかな動きのみ、
「それで―――」続きを話してもらえるか、と、絹幕の内側から王配殿下が促す。我々が、半年の安寧の代わりに差し出すのは、何なのだ。シモダさんを除く四人は、揃って侍従を見上げた。侍従も困った顔をする。
「殿下、畏れながら」
しばしの沈黙ののち、仕方なく、と言った様子で、「いずれ、お知りになることでしょうから、タケウチの口から申し上げます」と侍従が内側に声をかけた。
「わたくしどもが、―――本邦が、半年間の安寧の代わりに海霊に献上仕りますのは、前半年の海への不可侵の約束と―――、」
前半年の海への不可侵の約束。
つまり裏を返せば、前半年は海に入った者をこの国から奪っても目を瞑るということ。
そして侍従は一瞬、そこで言葉を詰まらせ、
「殿下の、
薄い絹がかすかにゆらぐ。まだ十五、六にしか見えない王配殿下の、計り知れない動揺を察して、ひどく胸が痛んだ。
六月末日の海は凪。そよ風さえ無い海辺で、しかし休息堂の天幕がはためいた。王配殿下の動揺が、膨らんではしぼむ布の隙間から、私たちの肺をギュウと圧し潰すような空気とともに漏れ出でてくる。殿下の大きな感情の揺れが空気を波打たせ、はたはたと、天幕が激しく揺れる。
以下は、あくまでも御前警備の間でまことしやかに口承されてきた、根拠のなき"噂"である。私はハシモトさんから聞いた。古くは先帝のそのまた先の王配が、
王配を輩出する家は本邦に三家ある。
いずれも帝の血統に次いで古い貴族の本流だが、その血の貴さ・成り立ちの古さゆえに王配を輩出するのはなく、むしろ逆に「王配を輩出できるから」その格別の地位を保証されているのだ。
その家の本筋に生まれるものは異常なまでに異質感応が高く、そして、美しい御魂を吐き出す。吐き出すとその分の寿命を喪うが、飲み込めば戻る。飲み込むものが当人でなくとも、飲み込んだものに寿命が与えられる。そしてその御魂は、神性のきわめて高い大海の霊神にとっては、―――ありていに言って、
帝は、島国である本邦の安寧のために、海の神が好む特別な血の一族を婿に取る。婿に取ったものを大切に囲っては、吐き出す御魂を海の神に差し出す。それでもって安寧を図る。
昨年、先帝が崩御された際、その混乱に乗ずるように、異様な迅速さで婚姻可能年齢引き下げの法案が通った。それまで十八歳だった下限が、十六に引き下げられたのだ。そして世論の反発に従う形で、今また十八に戻される議論がなされている。
今、こうして考えてみれば。
今代の幼い王配殿下を婿に取るためだけに、国の法律を変えたのだろう。おそらくは彼しか、王配に足る御魂の持ち主がいなかったのだ。特別な血の流れる"王配"という存在は、本邦においてどんな法律さえも捻じ曲げる、きわめて重要なものなのだ。
つまり、この国において王配とは、―――
「そうか、」
長い長い沈黙を挟んで、王配殿下は絞り出すように言った。
「私はやはり、
―――この国において王配とは、人身御供に他ならない。
***
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