海霊祭事
糸川まる
第1話
夜空が委縮する。
海が高く高く立って、波と波の間に音もなく頭が浮く、音もなく頭があちらこちらに浮き、ばらばらに並んで、次第に集まり、肩が、腕が、腰がみなもを割り、そうして死者の群れが浮上する。死者の行列を従えて、それは現れる。
戯れに、人に似せた姿であらわれるそれが、大きな口を開けて笑う。人に似せているつもりだが、わずかも似ていない。全体に白く濁り、半透明で、目も鼻もない。空洞の口だけが、頭らしきものの真ん中に浮かんでいる。それが従わせる死者の群れのなかに、よく見る顔を見つける。春先に自死した女優だ。ぐらり、と女優の首が崩れて、頭がどぼんと海に落ちる。頭を喪って一瞬、どろりと断面からねばっこい水が噴き出し、そして水が丸く頭を形作ったと思ったら、それからすぐに顔が戻る。戻っては、崩れる。上等な赤いドレスがゆらゆら揺れる。見れば、死者の群れはそこここを損傷している。そりゃ、そうだ。彼らはひとしく、硬い海面に全身を投げ込んで死んでいるんだから。足がもげている人、手の千切れている人、ただその胴体だけは美しく残っている。たましいは、胴体の真ん中に宿るからだ。キノシタさんが声にならない悲鳴を上げて、海へ向かって走る。ハシモトさんが全身でそれを止める。海に魅入られる血筋だと、稀にそういうことがあるという。恐ろしさに震えが止まらなくなり、結界がぶれる。「震えてる場合じゃないよ」と、シモスワさんが軽く私の顔を叩いた。「三人いれば結界は十分張れる」どうどう、と波が岸壁に砕け、砕けては立ち上がり、砕けては立ち上がる。私たちが後生大切に守る衝立の内側にも、しぶきが吹きかかる。
―――げぼり、と、嘔吐にも似た音が衝立の内側から響いて、私たちはほんのわずか、安堵の息を漏らした。
◆
―――貴官を本年の
三年連続ともなると、ため息も出ない。
辞令の紙を睨みながら自席に戻れば、同期入庁で事務助手のオオサキがこそこそと声をかけてきた。
「今の呼び出し、もしかして今年も海開き担当?」
「その言い方、よしてよ」
「まあまあ。いいじゃん、開海式御前警備、出世は確実だっていうし、三年連続は期待されてるってことだろ」
オオサキは人懐っこい太まゆをハの字に傾けて笑いながら、短く刈り上げた髪の毛をざりざりと掻いた。俺も
異質感応とは、すなわち国民の約百人に一人の割合で出現する、人間や動物以外のものへ干渉する特異な能力である。感応する対象は霊的存在が多い。また、干渉のしかたも人によって大きく異なる。草木などの言葉を解さないものに対しコミュニケーションを可能にするもの、実体を持たないものに対し物理的な接触を可能にするもの、生命を持たないものを"殺せる"もの、私のように霊的存在から自身や周囲を"
公的機関や専門職によっては、異質感応が採用の必須条件になるものも多く、当庁においては、神や神に類するものへの高い感応特性を持つことが
薄々察するところでは、オオサキはおそらく技能職志望だったのだろう。出身学校や普段の仕事ぶりを見ても、他庁であれば技能職領域で採用されていておかしくないはず。彼がここで技能職職員に採用されず事務助手で採用されたのは、ひとえに異質感応の低さによるのだと思う。異質感応は、後天的にどうにかなるものではない。
「オオサキは開海式に出たことがないから、どれだけしんどいかわかんないんだよ」
上席がいないのをいいことに、私たちは小声でおしゃべりを継続する。
「え? 事務職員も駆り出されるぞ? 持ち回りだが。俺も去年出たし」
「それは
「帝かあ……、まあでも、本邦の最重要祭事だもんなあ」
海を
本邦では、漁船から網を下ろしての近海漁業や
故に開海式典は、本年の近海水産業の開始の許可を乞い、航行安全の確約を勝ち取るための、島国である本邦にとって極めて重要な行事なのである。
―――いったい、なにものに乞うているのかは、国民の知るところではない。
私の憂鬱な顔を見て、まあ徹夜で感応を振るうのは確かにしんどそうだけど……、と彼は少し考え込む。
「新しい
オオサキはなおも続けて言った。
開海式典は、王配殿下のご公務である。そういえば、オオサキの言う通り、新帝の即位式後も王配殿下のことは一切、報道されていないことに気づいた。
「言われてみれば、先帝の喪中で
そこまで喋って、扉の向こうに上席が戻ってくる音をとらえ、私は口をつぐんだ。オオサキも倣って自席に戻る。果たして、二秒後に上席は重い鉄扉を押し開けて入室してくる。今年も御前警備がんばれよ、という雑な激励にも、私は一礼して返した。そしてもくもくと業務に戻る。
「王配殿下には、初めての式典ってことか。なんとまあ。あーあ、憂鬱だ」
複合機の吐き出す紙を眺めながら、ごくごく小さな声で呟いた。
◆
「クサカベさん、今年もよろしく」
「ああ、ハシモトさん。よろしくお願いします」
六月末日、その日は朝から土砂降りだった。あらかじめ命じられた通り、暑苦しい一等制服で登庁する。私のような下っ端
御前警備にあたる職員は、昨年と変わらずわずか五人。三年目ともなると大方予想がつくが、一昨年、昨年とほとんど同じ顔触れだった。当庁の職員のなかから、御前警備に適した異質感応特性を持つものを集めるわけだから、そうなるだろう。広くもない待機室は、湿気とほこりっぽさと、それから警備隊を命じられた職員たちの陰鬱なため息で満ちている。
「
「キノシタさんは、去年のあれで結局休職から戻れず」
「ああ、復帰、できませんでしたか……」
「それで新入りが門前
おととしも昨年も一緒だった一番年長のハシモトさんは、そう言って端のほうに座っている若い職員を呼んだ。
「入庁二年目のシモダです、よろしくお願いします……あのう、御前警備って結局、何をするんでしょうか」
シモダさんは頭を下げながら、やや緊張した面持ちで問う。「僕のまわり、御前警備のこと知っている人誰もいなくて」と困ったように続ける顔には、不安がにじんでいる。私とハシモトさんは、思わず顔を見合わせた。何、と言えばよいのだろう。少し考えて答える。
「御前警備の仕事は、公務に当たられる王配殿下の周囲を、結界で防護すること」
そしてハシモトさんはそれを継いで、柔らかく補足した。
「海辺には、海の神様だけじゃなくて
シモダさんは、わかったようなわからないような、それでも自分の役目を把握してやや安堵したような、なんとも言えない顔で頷いた。私語もそこそこに、私たちは待機室の椅子に腰を沈める。することもなく目を閉じた。私は目より耳がいい。目を閉じていたほうが、むしろ感覚が鋭くなって落ち着く。
暫くして、車が到着したと守衛に呼ばれて、私たちは立ち上がった。庁舎の正門前に、
大丈夫。あす、朝が来るころには全部終わっている。無事に。なにごともなく。
バスに乗り込むと、宮廷の担当者が、私たちの氏名と顔写真、身分証を確認しながら、一人ずつ、目隠しを装着していく。彼らの動作は手慣れているが、宮廷の人間は皆、ひとしく侍従を模した雑面を顔にまとっているから、去年の担当者と同じ人間かはわからない。カチ、と頭の後ろで留め具がはめられ、これより王配殿下のお目通りまで装着したままでお過ごしいただきます、と女の声で告げられる。右隣に座るシモダさんだけが、不安げになにごとかを呟いた。エンジンの音にかき消され、誰もそれには応えない。
***
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