白く小さなムラサキの花

衞藤萬里

白く小さなムラサキの花

 盛りをすぎても、おとろえをみせない陽射しだった。

 冷えたビールがなくなって、次は氷を浮かべた梅酒を呑みたい――と、妻の理栄子と、俺たちの遅い盆休みに合わせて実家にやってきた妹が云い出したので、俺は縁側からサンダルをつっかけ、おふくろと納屋へ取りに行くことにした。座敷では、ふたりが話に夢中になっている。

 納屋に入るのも何年ぶりだろう。棚から広口のガラス容器を降して、おふくろが納屋に鍵をかけるのを待つ間、俺は煙草に火をつけた。ふと脚下に眼がいった。

 軒下のプランターで、ムラサキの一群が白く小さな花をつけていた。絶滅危惧種で、栽培用でも育てるのは難しいと聞いたことがあるが、物心つくころからずっとそこで咲いている。

 最初に名前を憶えた時、花が白いくせにムラサキとは看板に偽りありだと思ったが、根から紫色の染料がとれることが由来と後から知った。昔の人も、センスにひねりが珍重されていたのだろうか?

 ――などとぼんやり考えていた俺の眼の前に、ぬうっと掌が出現した。指が催促するので、ポケットから煙草の箱を差し出すと、いっしょに入っているライターとともに一本抜き取った。取り上げた煙草に火をつけると、おふくろは俺なんかよりはるかに年季の入った吸い方で、煙を胸の奥にまで行きわたらせた。何十年たっても、この人は酒も煙草もやめられない。

「あの日もこんな天気だったね」

 煙を細く吐き、不意におふくろがそう云った。

「あの日?」

「やっぱり夏の終わりで、よく晴れてて、蒸し暑くって……憶えてない?あの日、最後に話をしたのはお前だったろ?ここで」

 ようやく何のことかわかった。もう二十年以上も前のことだ。


 俺の親父は、とにかくわけのわからない男だった。俺が生まれる前から、そして俺や妹が生まれた後ですら何年かに一度、突然いなくなる。それは何ヶ月にもおよび、最長では一年半帰ってこなかったこともあったそうだ。

 その理由は想像の範疇をこえる。

 曰く――演歌歌手になろうと思った。

 曰く――南の島で自給自足の生活をしてみようと思った。

 曰く――マタギになりたかった。

 などなど……聞かされているだけでそれだけだから、きっと他にもいろいろとやらかしているのだろう。

 実際に何とかって演歌歌手に弟子入りをして、何ヶ月か付き人みたいな真似もしたりとか、沖縄本島より台湾に近い南の無人島で、壊れかけた漁師小屋みたいな所に無断で住んでいたこともあったらしい。その時は海上保安庁だかに拘束されて、思想調査までされた挙句、説教されて送り返されたそうだ。

 とにかくトラブルの絶えない男で、そんな風に思い立ったことに我慢ができない性質だったようだが、やるだけやって熱が冷めたら、もしくは頓挫してしまったら、のこのことおふくろの元に戻ってくるのが常だったそうだ。しかし不思議に金銭関係のもめごとのない男で、そっちでおふくろが特に苦労をしたとことはなかったらしい。正直云って、そんな親父にどんな魅力があったのか謎だが、あれはあれで天性のヒモだったんじゃないかと思わないこともない。

 親父も親父だが、おふくろもおふくろだ。割烹着が似合うような楚々としたタイプではない。背も高く、幅もあり、無口でいかつい。酒も煙草ものみ、仕事も家事も何でもこなす。かつての社会主義国家の宣伝ポスターに登場する、重量感のある女工か農婦ってタイプだ。

 親父が最後にいなくなったのは、俺が八歳、妹が三歳のころだった。もう記憶がはっきりしていた歳だと思うのだが、そのころのことはよく憶えていない。

 ――あの日、最後に話をしたのはお前だったろ?

 そう訊ねられた俺だが、あいにくまったく記憶にない。

 日曜日の午後、なぜか庭にいた親父と俺が納屋の前で何やら話しをしている場面を、おふくろは昼寝する妹を寝かせつけながら、網戸ごしに見ていたらしい。うたた寝をしていたおふくろが眼をさますと、いつの間にか俺がすぐそばで寝ており、親父の姿はどこにもなかった。

 そのまま夜になっても姿を見せず、これはまた例のあれだなと思ったおふくろが箪笥の中を見てみると、案の定二十万円ほどの現金が消えていた。

 そしてそれっきり、今日まで親父は帰ってきていない。


 そんなことがあったのかなと、正直なところそう思う。しかし親父と何を話したのかなんて、憶い出せない。そう答えると、おふくろは鼻を鳴らし、煙草の灰を落とした。

「せめて最期に何をしたかったのだけでも,知りたかったんだけどねぇ……」

 別に無念そうでもなく、淡々とそう云った。

「気になるのか?」

「いろいろ云う人もいたけど、まぁやっぱり……ねぇ。あの人みたいなのは、もう病気みたいなもんだから」

 そう云うとおふくろは苦笑いをした。自分の中に持っているおふくろ像とほんのちょっとだけ違って、意外に若いのに驚いた。おふくろは昔っから岩盤みたいな女で、笑わないし無駄なことを云わないし、ずっと老成しているように感じていたのに。

「二十年もたつしね、こりゃもうさすがに、どこかでのたれ死んでるのかねぇ……?」

 ひときわ高く煙を吐き出すと、いつにないしんみりとした調子でそう云った。俺は何となく言葉を失って、そんなおふくろの横顔を見つめていた。

「あんたももう三十すぎたんだから、あんなばか親父みたいなまねはしないでよ」

 煙草を脚で踏み消すと、最期にいつものようにそんな説教じみた一言を放って、梅酒の容器をかかえてさっさと家の中に入ってしまった。

 俺は短くなった煙草を落とすと、無意識のうちにもう一本くわえていた。ぼんやりとライターの火を近づけた時、騒々しく縁側が開いた。

「お父さーん!お父さーん!」

 昼寝から眼を覚ました長男が、仮面ライダーの本を振り回しながら大声で叫んでいる。五歳になって、騒々しさは比例して増していく。

「コレ、描いてー!描いて、描いてー!」

 長男はどうも俺が絵がうまいと勘ちがいしている節があり、すぐにお気に入りの仮面ライダーやら特撮ヒーローやらの絵を要求する。ちなみに理栄子には頼まない。

「お父さーん、早くー!描いてよ!」

「おう」

 答えて、思わず苦笑いしながら煙草をしまう。

 ムラサキの白い花が視界に入り、その瞬間――不意に夏の日差しがふたつの時間をひとつに重ねて、俺の視界は大きな人影にしめられていた。

 ――あぁ親父だ、となぜか直感した。


* * *


「お父さん、コレ描いて、コレ」

 俺の言葉には、変声期にはまだはるかに遠い響きがあった。

「何だよこりゃ、一体何がおもしろいんだ?」

 親父はめんどくさそうに、俺が差し出したマンガをぱらぱらとめくる。くわえ煙草で流し読みする親父と俺の脚下には、白く小さな花。しかし表情はわからない。

 やがてマンガを閉じた親父は、俺にぽんと返す。

「お前、こんなマンガが好きなのか?」

「うん」

「そうか。でもな、全然たいしたことないぞ。こんなマンガだったら、俺だって簡単に描ける」

「だったら描いてよ」

 子ども向けのマンガなのだから、大人はおもしろくないのは当然だ。自分の好きなマンガをばかにされて、俺は少し腹をたてて子どもらしい無茶なことを云った。

「俺がマンガ?」

「そうだよ、描けるんだろ?」

「……あぁそうだな。マンガかぁ……おい、俺がマンガ描いたら、お前読むか?」

「うん、読むよ」

「そうか……」

 親父はそう云うと、俺の頭をぽんぽんとした。妙に楽しそうな仕草だった。それから親父が家に入れと云うので、俺はおふくろのそばでマンガを読みつつ、そのまま眠ってしまった。そして俺が眠っているその間に、親父は消えた。


* * *


 憶い出した。そして呆れた。

 ……俺にマンガを描いてやるためだったのか?まさか子どもの云ったことを真に受けて、マンガ家になるためにいなくなったのか?そんな理由でいなくなったのか?そして二度ともどらなかった?

 なんてバカバカしい。呆れかえった話だ。

 もちろんそんな理由とは限らない。俺のことなんて関係なかったのかもしれない。もっと別のやむを得ない理由があったのかもしれない。単純に、おふくろや俺たちを捨てただけなのかもしれない。それを確かめることなんてできやしないけれど、あの親父のことだ。ありえるような気もするし、ありえないような気もする。

 二十年以上もマンガ家を目指してがんばっているわけはないだろうから、もうとっくに、それこそおふくろの云うとおり死んでいるか、もしくはどこかで平穏に暮らしているかだろう。もし帰ってきたらぜひ訊いてみたいが、おそらく二度と会うことはない。それは覚悟と云うより、もう既成の事実みたいなものだった。

 それに俺たちにとって、親父なんて最初からいなかったも同然だし、今さらひょっこり現れても困る。逢いたいとか逢いたくないとかじゃなくって、どんな顔をしてよいのかまるでわからないからだ。

 だけど……想う。

 なんてばかなんだ、あんたは……と。常識はずれでばからしくて間のぬけた話で、何て云うか……実にあの人らしいと、俺はつくづくそう想った。


 息子がまた呼ぶ。俺はすぐに行くと答える。

 この場所で息子が叫ばなければ、おそらくあの日のできごとを、自分は憶い出すことはなかったろう。これは遠い遠い記憶だ。

 一瞬俺は、自分は泣くかな……と思った。しかしかすかに胸の一部を刺激したその想いとは別に、俺の瞳は乾いたままだったし、不思議なほどに心は平穏だった。

 あと何年かで、俺は俺が最期に会ったころの親父と同じ年齢となる。その時息子が何歳になっているだろうかと考えかけて、やめた。多分きっといっしょにいるだろうから、その時に想おう。

 脚下の白くて小さなムラサキの花が、かすかに風に揺れた。今までにない夏の終わりを強烈に感じ、あの日そうであったように、俺は小さな子どもが父親を見上げるみたいに、自分よりもずっと高い場所を見つめた。視界に入るのはどこまでも青い、あの日のような夏の終わりの空だった。


(了)

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白く小さなムラサキの花 衞藤萬里 @ethoubannri

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