4文字目 手で書く
心臓がバクバクとうるさい。「ペン」を握った手にじわりと汗を掻いているのを感じて、筆山に申し訳ない。言われた通り「ノート」に添えた左手の湿気で紙がふやけないか心配になる。一方で、筆山は相変わらず嬉々としていた。
「書いてみたい文字はありますか?」
「えっと、特には……」
「じゃあ、最初ですし、自分の名前を書いてみましょうか。漢字、平仮名、片仮名、ローマ字。あ、そうだ、その前にペンの持ち方からですね」
筆山は席を立ち、僕の横に少し膝を曲げて立った。心なしか距離が近いように感じる。女性経験が大してあるわけでもない僕には少し刺激が強く、更に掌に汗を感じた。
「いいですか。ペンは人差し指と親指で持ちます。そして、中指と人差し指の付け根辺りで支える。薬指と小指は中指と同じように軽く曲げて」
僕は筆山の手許と自分の手許を交互に見ながら少しずつ調整していく。不安で動きが鈍くなると、「合ってますよ」と筆山は僕を安心させてくれた。
「ノートに書くときは、ペン先をノートの書きたいところに置いて。小指側の手の側面も乗せます。違和感のない形でリラックスして」
ペン先を「ノート」の上に置くと、「ノート」上にじわりと「インク」が広がった。
「書かないときは、ペン先を離していいですよ」
「あ、うん」
「いい感じ。あ、そうだ」
筆山はまた何かを思い出したように、テーブルの上の複数の「ペン」を全部取り、僕の目の前に持ってきた。
「これ、それぞれ全く違うんですよ」
筆山は立ったまま、僕の手許の「ノート」に手に持った「ペン」の本数分〈紙と月〉と書いた。
細く固い質感、少し擦れたような質感、水っぽい質感……具体的にどう違うかと言われたらどう表現したらいいものか分からないが、確かにそれぞれ違うことは分かった。
「それぞれ、具体的には何がどう違うの?」
「一番上から、シャーペン、フェルトペン、筆ペン、ボールペン、万年筆ですね」
「ペン」は「ペン」でも名前まで全部違う。最後なんか「ペン」とさえ言っていない。
シャーペンは、シャープペンシルの略称であり、「インク」を用いず、黒鉛を主とした細い芯を使っている。芯は本体とは分離しており、内部に芯を補充することで繰り返し使える。また、この芯は「インク」よりも比較的簡単に消せるのが特徴。フェルトペンは、名前の通り、フェルトや合成繊維或いは合成樹脂を使ったペン先を用いており、ペン軸の容器からインクを吸い出し書くもので、他の「インク」を用いる「ペン」と比べ、速乾性に優れているのが特徴。筆ペンは、墨汁を使用し書かれる「筆」をより使いやすくしたもの。細い合成樹脂を束ねた筆先がペン軸に内蔵されたインクを吸うことで文字を書くことができ、昔ながらの日本、和といった印象を想起させる文字が一番書ける。ボールペンは、ペン先に小さな金属製のボールが内蔵されており、それが回転することによって、「インク」が出る仕組みになっている。弱い力でスムーズに文字を書けるのが特徴。万年筆は、金属製のペン先でありながら、適度な柔らかさがあり強弱をつけやすい。洗浄やインクの補充などのメンテナンスが必須ではあるが、半永久的と言っても過言ではないほど長い期間使い続けられ、個人の癖にフィットしていくのが特徴。
「簡単に説明するとそれぞれそんな感じですね」
これだけの量の知識を何も見ず、さも当たり前のように並べ、挙句の果てには「簡単に」と言う筆山に脱帽する。
「す、すみません。一気にこんな。混乱させるようなこと」
さっきまでの嬉々とした無邪気な少女筆山が一気に萎み、顔を赤くする。視界に映る手許まで赤い。
「たくさん教えてくれて、ありがたいというか、逆に申し訳ないくらい。えっと、じゃあ、これ、使おうかな」
僕は万年筆を手に取る。タブレットで自分の名前を打ち込み、筆山に見せた。
「これって、どうやって書くの?」
筆山は、タブレットに表示された「兼城然仁」を「ノート」に薄いグレーの「インク」が使われた中字のフェルトペンで書き写した。
兼城然仁。
かねきなりひと。
カネキナリヒト。
Kaneki Narihito。
縦横崩れのない文字。手書きフォントのように綺麗でいて、手書きフォントとはまた違う雰囲気が滲む文字。自分自身の名前が書かれただけであるはずなのに、異様にドキドキしてしまっている自分がいた。
しかし、どこからどう書くのか全く分からない。文字が点と線と曲線の組み合わせであるなんて、今まで感じたことも考えたこともなかった。
「一緒に書いてみましょう。まずは私がさっき書いたものをなぞりながら。まずはここから、こう」
筆山は僕に合わせてゆっくりと書き方を教えてくれた。次第に緊張が緩むにつれて、触れている道具の感覚を鮮明に脳が認識していくのが分かった。手に触れる「ノート」の質感。万年筆のペン先と紙が擦れてカリカリという独特の心地の良い感触。力の入れ具合とペン先を滑らせるスピードで変わる「インク」の滲み具合。楽しい。心地が良い。
「はい、全部書けた! 兼城さん凄いです。全部綺麗に書けてますよ」
「ノート」全体を見る。不格好ながら、それでも僕自身が乗せた「インク」が確かに文字になっていた。
「筆山さんの文字をなぞっただけだけどね」
そうであると分かっていても、今まで感じたことのない胸の高鳴りを感じた。
楽しい。――いや、楽しいだけではない。じんわりと身体が温まるような感覚。
「筆山さんと会えてよかった」
「……えっ」
一瞬の沈黙の後、自分が何を口にしやがったのか分かった。
「いや、ごめんっ。違くて、いや、違くはないんだけど、その、たぶん、筆山さんと報告会とかペアになってなかったら、こういうことも知らずに過ごしてたんだろうなって」
もう自分が何を言っているのか分からない。しかし、相変わらず恥ずかしいことを言っていることは分かる。顔が熱くて堪らない。
「て、手書きって凄く楽しいね……!」
恥ずかし過ぎて筆山の顔は見れなかった。彼女の反応を伺っていると、鼻を啜る音が聞こえて顔を上げた。涙目の筆山と目が合う。
「え! ごめん!」
女の子を泣かせてしまったという衝撃が僕の脳内を飛び回る。
「いやっ、その、久しぶりに同い年の人にそんなこと言われたから嬉しくて」
耳を赤くさせ、声を震わせながら筆山は呟いた。
「ありがとうございます」
「いや、僕の方こそっ。ありがとう……」
「あの……すみません。閉店のお時間になりましたので……」
オーナーの申し訳なさそうな声に時間を確認すると、もう夜の九時と表示されていた。
外は暗いはずなのに、街は夜も映像情報に溢れ、足許までほんのりと明るく照らされている。どんな時間であろうが、外に静けさというものは存在しないのだと飽きもせずに感じる。しかし、今日ばかりはこのノイズに救われた。
「すみません、送ってもらって」
「あ、流石にこの時間に女の子一人で帰らすのは……僕の我儘で遅くなったのもあるし」
「そんな、私の方こそ……」
男女二人きりで夜道を歩くなんてこと、約二十年生きてきてそんな記憶は今までに一度ない。母親とでさえ二人きりで歩いたことなどない。時折訪れる沈黙が、街中のノイズによって緩和されている気がした。この時ばかりは大嫌いなノイズに頭が上がらない。
筆山の住むマンションに着くと、筆山は丁寧にお辞儀をした。僕もつられてお辞儀をする。
「今日は本当にありがとうございました」
「いや、僕の方こそ……」
少し気まずい沈黙。
「あの、また教えてもらってもいい? 手書きのこと」
筆山と歩いている間、頭の中で何度も反復させた言葉を半ば勢いに任せて口に出す。
「もちろん」
まともに彼女の目を見れない僕に、筆山は一枚の小さな正方形の紙を差し出した。
「では、また。ありがとうございました。おやすみなさい」
筆山はもう一度お辞儀をして、エントランスの中へと入っていった。僕は彼女の姿が見えなくなるのを確認して踵を返す。筆山から貰った紙を裏返すと文字が書かれていた。
〈ありがとうございました。また。筆山〉
見慣れている言葉のはずなのに、筆山から直接言われるのはまた違った何とも言えない優しさを感じた。
「いいな」
貰った紙は折り曲がらないように、家に帰るまで大事に手で持って帰った。
テガキの彼女 屈橋 毬花 @no_look_girl
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