3文字目 筆山想という女

 お互い珈琲で喉を潤した後、彼女は少し考えてから僕を真っ直ぐ見た。僕は彼女の視線に背筋が伸びる。

「兼城さんは、〈テガキ〉という職業を知っていますか」

 聞いたことがない。僕は正直に首を横に振った。彼女はテーブルに置いたままの「ノート」と「ペン」を指差した。

「こういう道具を用いて、電子媒体を介さずに文字を書く者、それを繋いでいく者のことを〈テガキ〉と呼んでいます。今は、広告や商品パッケージなどの書体デザインを任されることもありますが、基本は、書きたいことを依頼者本人が書けるよう指導を行っています」

 彼女、筆山想は〈テガキ〉の家系の長女として生まれた。電子媒体に溢れる家の中で、両親が一日の大半を占めるほどに触れていたテガキの道具に、自然と興味を持つようになった。両親の仕事する姿を、隣で目を大きく見開きながら静かに見ているのが筆山の一日の過ごし方であった。父親は新調して使わなくなった「ペン」や買ったものの眠っているばかりの「ノート」など、テガキの道具をありったけミニトランクに詰めて、興味を示していた筆山に贈った。両親は仕事の合間に、使い方を教えた。幼い筆山は、両親が教えてくれたことを忘れないように、何度もトランクの中から道具を出しては、繰り返し口にしながら、一つ一つの道具に触れていった。繰り返し道具に触れる度、今まで見ているばかりで使ったことのなかった道具に興奮した。タブレットでは味わったことのない感覚が堪らなく好きになっていった。ご飯を食べるときも眠るときも出掛けるときも、幼い筆山はミニトランクがトランクサイズに見える小さな身体で父親がくれた道具が詰まったトランクを肌身離さず持っていた。

ずっとこの道具に触れていたい。

その想いをきっかけに、それが叶うテガキという職業に、筆山は惹かれていき、目指すようになった。

筆山にとって当たり前であったテガキという職業が特殊であるということは、小学校の頃の所謂「将来の夢」を発表したときに知ることになった。

 ――将来の夢は、テガキになることです。

 両親の姿を思い浮かべながら、筆山は堂々と胸を張って発表した。

 発表中、クラスメイトは首を傾げ、発表し終わり席に着くとき、先生が「珍しい職業だね」とコメントした。

 授業終わり、クラスメイトの男子が筆山に近づいてきて吐き捨てた。

「もう必要ないことをして何になるんだよ」

「古臭い」

「時代遅れ」

「ダッセエ」

 気付いたら机が幾つも倒れていて、髪はボサボサで顔も腕も脚も引っ搔き傷だらけで、筆山は男子の上に跨っていた。

 テガキのことを、「凄い」と言ってくれる人もいた。だが、「必要のないもの」「無駄なもの」という声は中学でも高校でも消えることはなかった。

 テガキは無駄なものではない。テガキにはテガキにしかできないことがある。

 それが何なのか伝えたい。電子媒体でしかほとんどの情報が介されない今の社会だからこそ、テガキを、そして、手書きのことを知ってほしい。

 筆山自身が成長していくと同時にテガキに対する想いも強くなっていった。

「筆山さんは、本当に大事に思っているんだね。その、テガキっていうのが」

「――はい。テガキという職もその職に就く父と母も私の誇りです」

 筆山は、僕の目を真っ直ぐ見て、はっきりと口にした。

「……凄いね」

 簡単な言葉しか出てこなかった。だが、純粋にそう思った。筆山が考えた研究テーマを思い出す。

手書き文字が与える感情喚起について。

「筆山さんが話してくれた研究テーマって、テガキと関係しているんだね」

「すみません。私情で研究テーマを決めてしまって」

「私情だなんて、そんなこと思わないよ」

どれだけテガキと向き合っているのか。趣味とかこだわりの次元をとうに超えている。最初、筆山に対して、趣味だこだわりだと言ってしまったことが恥ずかしく思えてきた。テガキに対して真っ直ぐな彼女が、僕には、素直に格好よく見えた。

「……僕も自分の手で書いてみたいな」

 筆山が惹かれた手書きの感覚というものが、どんなものなのか気になった。

「本当ですか?」

 筆山を見ると、目を無邪気な少女の如く輝かせていた。彼女を目の前に、好奇心というもので触れていいものかと戸惑ったが、僕は一度頷く。僕が頷いたのを見ると、嬉しそうに筆山はトランクの中からリング状の金具に紙が綴られた「ノート」とまた新しく複数の「ペン」を取り出し、僕の目の前へと滑らせた。

「教えます!」

 嬉々とした眼差しと声色。研究テーマを答えたときに感じた違和感に似ている。さっきまでとはまた違う雰囲気を筆山は纏っているようだった。

「でも、悪いよ」

 まさか今ここで本当に叶うなんて思っていなかっただけに、変に断ってしまう。しかし、筆山は口許を緩ませながら、首を横に振った。

「安心してください。これでも私、まだ日は浅いですがテガキの資格は持っているんですよ」

「す、凄いね」

「お時間は問題ないですか?」

「う、うん」

「良かった!」

 亀裂が入っていた筆山の大人しそうという第一印象が遂に崩れていった。

 筆山想という女について、少しずつ分かってきた気がする。

 彼女を目の前に僕は断ることはできない。いや、もうしようと思わない。

「よろしくお願いします」

 僕と筆山は、三杯目の珈琲を頼んだ。

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