2文字目 あのカフェで
彼女と肩を並べて向かうカフェまでの道中、僕はイヤフォンを着けずに歩いた。嫌でも耳に入ってくるはずのノイズが、全く気にならなかった。ただ、あの古びたドアに手を掛けるまでの間、彼女と何を話そうと使い慣れていないコミュニケーション脳をフルに回転させていた。
僕はちらりと横にいる彼女に目をやる。彼女は特に戸惑いを顔に浮かべることもなく、真っ直ぐに前を見ていた。会話なく歩くこの状況、彼女は平気なのかもしれないが、僕はそんな精神力持ち合わせてはいない。
「あのさ、一応確認なんだけど、今向かってるカフェって、〈紙と月〉で合ってる?」
「はい、合ってます」
「そっか。……よく覚えてたね」
「何をですか?」
「僕のこと」
正直に出た言葉が火薬となって、僕の顔面を燃やす。
「印象的だったので」
爆薬並みの彼女の言葉が、僕の顔だけでなく、全身を燃え上がらせた。
「あのカフェで同世代の人と会えるのは稀だし、今時紙書籍を読んでいる人も見ないし。それに、凄く満足気というか充実した顔をしていたので」
「そんな顔してたの……」
そろそろ灰になりそうだ。
僕はまたちらりと彼女を見る。悪戯に笑みを浮かべているのだと思っていたら、僕に負けないくらい顔を真っ赤に茹で上がらせていた。
「どうしたの? 暑い? どっかで休む?」
彼女は首を横に振った。
「大丈夫です! ……すみません、今更ながら、私、兼城さんがあのカフェで自分と会ったことを覚えている前提で話をしていたんだと思って」
心中、お察しする。
「いや、結局覚えてたし、何なら忘れるわけないし」
彼女をフォローするついでに墓穴を掘っている気もしなくはないが、彼女はそれどころではないので、そのまま落ち着かせる。落ち着かせている間に、カフェに着いた。
仄暗い店内に流れるジャズが、無意識に感じていたストレスを溶かしていく。席は、あの時彼女が座っていた場所に二人向かい合って腰を下ろした。さっと注文を済ませると、彼女はトランクから「ノート」と「ペン」を取り出した。トランクを閉めた瞬間に微かに珈琲の香りの中にふわりと馴染む何度嗅いでも飽きない匂いが僕の鼻腔をくすぐった。
「じゃあ、早速始めましょうか」
彼女は何の迷いもなく「ペン」を「ノート」の上に滑らせ、〈研究テーマ〉と綴る。どれだけ使い続ければ、そんな簡単に扱えるのか今の僕には想像がつかない。
「兼城さんは、何か研究したいテーマってありますか」
「いや、特には……」
心理学自体に興味はあるが、もっと掘り下げて考えてみると、心理学の何に興味を持っているかは漠然としている。どの心理学の講義を受けても、全て面白い。ただその先の燃えるような探究心は僕の中にはまだない。
「筆山さんは、何か興味あるの?」
「はい」
即答だった。僕の目を真っ直ぐ捉える彼女の目は、仄暗い店内でも分かるほど光を放っているように見えた。先程までの大人しそうな印象に一瞬亀裂が走る。
「私、手書き文字が与える感情喚起について研究したいんです」
「手書き? それは、手書きフォントってこと?」
彼女は首を横に振り、僕に「ノート」に記された文字を指差して見せた。
「フォントじゃないです。人が〈打った〉文字じゃなくて、〈書いた〉文字に関する研究をしたいんです」
今の社会で、「文字を打つこと」が「文字を書くこと」と同義であるのを考えれば、彼女が「書く」と言っているのは、過去の本当の意味のことを指しているのだろう。
「筆山さんらしいね」
僕の言葉に彼女は少し安堵したような表情を浮かべ、先程口にした研究テーマを「ノート」に記す。僕は彼女の「ノート」に記された文字を眺めた。手書きフォントは明朝体やゴシック体に比べて数は少ないが、デザイン書体の中では少ないとは思わない程度の割合を占めている。これまで多くの手書きフォントを目にしてきたが、そのどれにも当てはまらない形がそこには滲んでいた。まるで、彼女そのものを表しているようにも思える。
「僕はその研究テーマで全然かまわないよ」
「ありがとうございます」
彼女は嬉しそうにテーブルに置いていた赤い「ペン」で、記した研究テーマに下線を引いた。無邪気な女の子を見ているようだと珈琲で喉を潤しながら彼女を眺めた。
「やっぱり、その研究をしたい理由って、筆山さんの趣味というか、こだわりと関係しているの?」
彼女のキャラメルアイスラテをストローで吸う動きが止まる。吸うのはやめたが、ストローを口から離さず、目を左右に動かしている。
「こだわり、そうですね」
「いつから、その、ノートとかペンとか使ってたの?」
「物心ついた頃には、もう、触っていました」
「えっ」
想像以上に使用歴が長かった。高校生あたりから紙書籍に興味を持ち始めた僕とは費やす時間もお金も比べ物にはならなさそうだ。
「何かきっかけがあったの?」
「きっかけというか、家柄的にそういう環境があって……話が長くなるので、簡単にはそんな感じです」
彼女は何かを察したのか、話をそこでぷつりと切り、再びキャラメルアイスラテを吸い始めた。僕はタブレットで時間を確認する。
「筆山さん、まだ時間大丈夫?」
「はい、時間は全く問題ないです」
その回答に安堵する。
「その、家の話、気になるから聞きたいんだけど」
彼女自ら切った話にもう一度触れるなんて、自分にしてはかなり大胆な行動に出たと思った。彼女のその「手書き」について純粋に知りたくなったこの衝動が、僕の変な臆病心に
一瞬、迷惑かとも思ったが、彼女は目を大きく見開いて瞳を光らせていた。いや、潤ませていた。
僕と彼女は二杯目の珈琲とケーキを注文した。
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