1文字目 噂の彼女
「それ、
昼食の話題がてら、カフェで会った彼女の話をすると、
「
「何で知ってるの?」
「は? 同じ学部だろ?」
神田はさも当たり前のように答える。まるで、知らない僕の方がおかしいとでも言わんばかりだ。
「同じ学部って言ったって、他にも学科はあるし」
「同じ学科だよ」
「でも、多いだろ。全員の名前なんか学科の必修科目に出てても分からないよ」
反論するも、神田は呆れたような目を僕に向けて、はみ出てきたパストラミビーフを引き抜いた。僕は彼の視線から逃れるようにカルボナーラをフォークに巻きつける。
「人に興味のない奴だな。あいつ、学部内では結構有名人だぞ」
「嘘?」
「そりゃあ、あんだけ昔の道具持ち歩いてたら目立つだろ。時々、講義中も使っているっぽいし」
全く知らなかった。知っている神田の方ではなく、知らない僕の方がおかしいと言われるのも納得がいく。彼女なら、一瞬で人を惹きつけてもおかしくはない。少なくとも、あのカフェでの僕がそうだったのだから。しかし、疑問が残る。
「何で今まで気づかなかったんだろう」
「俺が聞きたいわ」
神田は残りのベーグルサンドを口の中へと強引に詰め込んだ。
「まあ、
「納得するついでにディスるのやめてくれない?」
言われた内容自体に否定はできないが、神田の含ませた嫌味が僕の眉間に皺を作った。カルボナーラが不味くなりそうだ。僕は美味しいうちに濃厚の塊を胃へと収める。
「そういえば、次のコマ、専攻別じゃん。然仁は専攻何選んだんだっけ?」
「心理学」
「別々か」
「神田と一緒だったら逆にびっくりするよ」
専攻選択のきっかけとも言えるお試し版の講義で、世の中に溢れ返っている心理テストなど、ほぼでたらめに過ぎないと言う教授の言葉を受け、神田は隣で顔を見れば直ぐに分かるくらいショックを受けていたのを思い出す。講義終わりにはショックが怒りに変わったのか、俺の夢を返せと喚いていた。
「科学なんて嫌いだね。人の心がそんなんで分かってたまるか」
「心理テストこそそうじゃないか」
「うるさい!」
理不尽だ。
「そろそろ次のコマ始まるし、もう行くよ。ここから少しあるし」
空になった皿を返却口に届け、神田と別れを告げた。外に出ると、アスファルトから照り返させる光が眩しくて目を細める。学部棟四階の一番端の部屋。部屋のプレートには「心理学演習室2」と擦れた印字が写っていた。ドアに内蔵されたカードリーダーに学生証をかざし、中に入る。
入った瞬間、好きな紙書籍の匂いがした。一瞬であのカフェでの光景が脳裏を過ぎった。匂いの先には彼女がいた。
その部屋にはまだ彼女しかいなかった。だからこそ、ちょうど顔を上げた彼女とバチリ、と目が合ってしまった。外しかけたイヤフォンが危うく手から滑り落ちそうになる。一人で慌てる僕に彼女は会釈をしてまた開かれたトランクへと顔を隠した。
こんなに早く再会できるとは思っていなかった。ましてや、同じゼミになるなんて。噂をすれば何とかとは言うが、この言葉も侮れないものだ。
自分がどれくらい緊張しているのかは、席に着こうとして出た手と足が同じであるのが視界に映った時点で、深く考えずとも察した。近過ぎず且つ遠過ぎない場所を見定め、ぎこちなく椅子を引いて腰を下ろす。部屋の中は、彼女の「ペン」を走らせる音と時計の秒針の音だけが聞こえる。声を掛けるかどうか悩んでいる間に、他の学生も次々と入ってきて、声を掛けるタイミングを逃した。声色は明るいが、目が笑っていない教授のガイダンスを聞きながらも、僕はタブレット越しに彼女から目を離すことができなかった。彼女はゼミ中も、神田が言った通り、「ペン」を「ノート」の上で軽やかに走らせていた。
チャイムの音と同時に教授はゼミの終わりを告げた。
教授の話をほとんど聞かずに終えてしまった。僕の中の真面目心が分かりやすく肩を落としていることが分かる。帰ったら資料を読み直さなければ。
「あの」
イヤフォンを着けようとした瞬間、あのカフェで聞いた声に振り返った。本日二度目の彼女との視線の衝突を起こす。堪らず心臓が跳ね上がった。
「……はい」
できる限りの平常心を装って返事をする。
「筆山想です。これからよろしくお願いします」
随分と丁寧にお辞儀をする彼女につられて僕もお辞儀をする。
「あ、
「あの、これからお時間ありますか」
再び心臓が跳ね上がる。
「う、うん。あるけど」
これはもしやと少しの期待が脳裏を過ぎる。
「良かった。来週のゼミの報告会に向けて少し話をしておきたくて」
一瞬にして、自分の期待しているものが崩れ去った。人生、恋愛小説みたいにそんな簡単ではない。分かってはいたが、少し落胆してしまう。
「ああ、大丈夫。……えっと、報告会って」
先程の右耳から左耳へと流れていったほとんど記憶に残っていない教授の言葉を脳をフル回転させて思い出そうとするが、案の定上手く思い出せるわけもなく言葉が詰まる。
「ペアで研究テーマを決めて、論文を漁ってくるっていう。一人なら問題なかったんですが、二人でなら、お互いに話し合っておかなきゃって思って。連絡先も知らないし、今話せるなら話した方がいいかなって」
「ああ、そうだった」
ほとんど初耳だ。
「そうだよね。じゃあ、どこで話そうか」
「ええと、この時間帯は、食堂も談話室も混んでますしね」
人生、恋愛小説みたいに簡単ではない。しかし、時には、恋愛小説のような偶然が重なることもある。偶然、彼女と同じゼミになり、そして、共に課題をこなすパートナーになった。この先、不運な日が数日続いても、きっと今日の代償だろう。
彼女は思いついたように目を見開き、声を漏らした。
「じゃあ、あのカフェでいいですか?」
全身に電流が走った。そろそろ心臓が跳ね過ぎて口から出てきそうだ。
今日をもって、明日以降僕は結構な不運に襲われる覚悟をした。
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