テガキの彼女
屈橋 毬花
0文字目 プロローグ
二XXX年。全てが電子媒体によっての情報となり、まず、出産をして買う物がタブレットとブルーライト遮断用眼鏡というのが主流となった社会。
学校でもタブレットによる授業は当たり前で、日本史の教材アプリではこれまでの情報流通手段が事細かに説明されいる。それには遠い昔、石に文字を刻み、次に竹に墨で文字を書き、次に紙と言われる木が原料のシートに鉛筆という道具で文字を書き、そして現在は電子媒体によって文字を映し出し、情報流通を行っていると端的に記されていた。設計図や絵も同様に最終的には、電子媒体で全てが行われている。
文字を自分の手で書くことなどない。指をスライドさせれば、あるいはキーボードを打てば文字は出てくる。もはや、文字を打つという行為と書くという行為が同義とされているのだ。全ては、自らの手許の小さな金属の塊で解決する。
だからだろう。僕は、彼女から目を離すことができなくなっていた。
最上階を見るのに首を痛めることは見なくても分かる高層ビルが連なり、四方八方から情報が垂れ流し放題の街中から、僕は逃げるように一つの古びたドアを開ける。ドアを開けた拍子にカランという質素なベルの音が僕を出迎えてくれた。
仄暗い照明の明かりに照らされた空間の中、落ち着いたジャズが耳を癒し、珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。何度来てもうっとりとしてしまう。大学に進学してから見つけたお気に入りのカフェだ。稼いだバイト代は結構な割合でここに溶かされていると言っても過言ではないだろう。
もう必要のなくなったイヤフォンを耳から抜き取り、お気に入りの席に腰を下ろす。統一感のないテーブルとイスが並べられるこの空間で、ここだけがロッキングチェアとサイドテーブルの組み合わせなのだ。背後は落ち着いたグリーンの壁紙。左側と目の前は、オブジェが飾られた自分と同じ程の背丈ほどの棚が置かれており、心地の良い軽い閉鎖空間を生み出している。煩い外の世界から一時的に遮断されたようなこの空間が何とも気が休まる。
僕はサイドテーブルに置かれた端末で、いつも頼む珈琲とクッキーを頼み、眼鏡を外し、デジタルとの暫しの別れを告げ、棚に置かれた紙書籍を一冊手に取る。紙の本を読める機会など日常生活の中でそうそうない。気に入った場所で、身に覚えのないノスタルジーを感じながら、僕は読み途中のページをぱらぱらと捲った。指の腹に触れる紙の感触が心地いい。家にいてもこの感覚が味わえればいいのだが、紙書籍など高価過ぎて何か月分のバイト代が飛ぶことになるか。いつかは手に入れたいと思いつつも、それまではとここに足を運ぶのである。
不意に、カランと鳴るベルの音が僕を本の世界から引っ張り出した。どのくらい時間が経ったかは分からないが、いつの間にかクッキーが無くなっていた。珈琲もあとわずかである。もう少し楽しみたい僕は、今度はウィンナー珈琲を頼もうと端末に手を伸ばした。
「すみません、お隣の席、いいですか?」
頭上からの声に顔を上げると、そこにはショートヘアのよく似合う黒髪の少女が立っていた。僕と同い年くらいだろうか。
「ああ、どうぞ」
彼女は会釈をして、隣のイスに腰掛ける。その席は、一人で珈琲を嗜むには大き過ぎるテーブルが佇んでいた。しかし、その印象も直ぐに崩れていく。彼女は腰を掛けるなり、手に持っていた革製のミニトランクを机の上に置き、鍵を開けた。開かれた中からは、紙書籍と似た匂いがした。
気になって、彼女に気付かれないようにして見ると、テーブルには教材でしか見たことのないような道具が並べられていた。昔、学校で習ったことがある。「ノート」にあれは、「ペン」だろうか。一本だけではない。十数本がテーブルの上に並べられる。そして、色とりどりの液体が入れられた小瓶らが彼女の前に整列する。一通り並べ終えたのか、彼女は背筋を伸ばし、一度深呼吸をした。そして、イヤフォンをつけて、タブレットで何やら再生させた。そのまま、「ノート」の白紙のページを開き、「ペン」をその上に滑らせていく。カリカリと心地のいい音が耳をくすぐった。ジャズと彼女が「ノート」に「ペン」を滑らせる音を聞きながら、僕は再び本の世界へと飲み込まれていった。
頼んでいたウィンナー珈琲もあと数口で終わりが見えそうな頃、彼女はテーブルに並べていた道具を収納し始めていた。「ペン」一本だけが残され、他の道具が全てトランクに収まった後、彼女はトランクのポケットから、少し分厚く頑丈そうなクリーム色で正方形の紙を取り出した。そこに何やらまた「ペン」先を滑らせる。何気なく横目で見てみるが、先程と変わらず、何が書いているのかは分からなかった。しかし、彼女がカフェを去った後、テーブルの上を片付けにきたオーナーが、残ったそのクリーム色の紙を手に取った時の何とも言えない朗らかな表情が僕の目に焼き付いた。
彼女は一体何をしたのか。
彼女は一体何者なのだろうか。
僕は、もう一度彼女に会えることを密かに期待しながら、残りのウィンナー珈琲を飲み干した。
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