第3話 冬

 秋が遠く過ぎ去り、山の木々は枯れ木となり、命のざわめきもあまり聞こえなくなったある冬の日。


 両脇を田んぼに挟まれた一本道をアカギくんはぶらぶらと歩いて家に帰っていた。


 今日もきっと、家には三人の妹たちしかいないだろう。

 家に帰ったらまず妹たちにご飯を食べさせて、風呂に入れなければならない。


 アカギくんにとって、家は耐える場所だった。

 それでも、アカギくんにとって築数十年の少しの地震でも崩れてしまいそうなアパートの一室だけが帰る場所だった。


 カンカンカンカン。

 赤錆だらけでいつ抜け落ちてもおかしくない鉄階段を上り、2階の一番奥の扉の鍵を開けてアカギくんは帰宅した。


 扉をあけた瞬間、ほんの一瞬だけ、母親の香水の匂いがした気がした。

 もう1ヶ月は会っていない母親だが、今日は帰ってきたのだろうか。


「ただいまー」


 しかし、アカギくんの声に返事は帰ってこなかった。

 母親はおろか、この時間にはもう家にいるはずの妹たちの声も聞こえない。


 アカギくんは微かな不安を覚えながら居間に繋がる引き戸を開けると、テーブルの上に書き置きが残されていた。



「ねこちゃんがいなくなっちゃった!」



 一番上の妹の字だ。


 家の中に三人の妹たちの姿はないが、まだ微かに気配が感じられる。


 書き置きの横に置いてある、妹たちが夜ご飯として食べていただろうカップ麺もまだ温かかった。


 おそらく、家を出てからまだあまり時間が経っていないのだろう。


 時刻は既に夕方。街灯の少ないこの街では、日が落ちるとすぐに真っ暗になる。


 急いで探しに行かなきゃ。


 アカギくんは居間の畳の上にリュックサックを放り投げると、急いで靴を履き直し、今にも抜け落ちそうな鉄階段を駆け下りた。


 アパート前の道路の左右を確認する。

 どちらにも妹たちの姿はなかった。


 今しがた学校から帰ってくる際に通ってきた左側の道はまっすぐな上に左右が田んぼで見通しが良く、もしもそちらに行ったのならば姿を見かけたはずだ。


 右側の道の先を見つめる。


 道の左右に続く田んぼは10mほど先で終わり、灌漑用水を引いている川に架かる橋を渡った先には色褪せた大きな鳥居があり、山道に続いていた。


 葉のない裸の木々が背後の夕陽からの光と山々の影によって赤黒く照らされている。


 神隠しの起こる化け猫の山。


 数年前に山頂付近の神社の神職一家が揃って失踪してしまう事件のあった曰く付きの山で、事件以来地元の人間は誰も近づかないようになっていた。


 アカギくんはごくりと喉を鳴らし、両足の爪先でトントンと2度ずつ地面を蹴った。


 大きく深呼吸をすると、鋭く尖った冬の空気が気管にチクチクと刺さる。


 口の中で小さくよし、と呟くとアカギくんは山道に向かって駆け出して行った。



 ✴︎



 アカギくんが山頂付近の神社に着いた頃には、陽が完全に沈んでしまった。


 東の空にはゆっくりと登ってくる満月が見えるが、目はまだ夜闇に慣れていなかった。


 山道を必死になって登ってきたアカギくんの心臓は早鐘のように脈を打ち続けており、一度足を止めてしまうと疲労に押し潰されるように神社のお賽銭箱の前に座り込んだ。


 アカギくんの額に汗がにじむ。着ていたウィンドブレーカーを脱ぎ、ふぅ、と一息つくと、まるで焦燥感が肺から気体となって抜けて行ったかのように少しだけ冷静になった。


 喉が、渇いた。


 近くに水道がないかと思い、本殿の周囲をきょろきょろと探してみると、社務所の横にちょうどよい蛇口を見つけた。


 アカギくんは蛇口をひねり、出てくる水の匂いを確かめてからごくごくと水道水を飲んだ。


 妹たちや猫は大丈夫だろうか。

 怖がりの妹たちのことだから、夕方のこの参道をここまで登ってくることはないだろう。ここまで来て見つからないのだから、もう家に戻っているのかもしれない。


 喉を潤す水の感触を確かめながら、アカギくんは考えを巡らせて結論を出した。


 一度、家に戻ってみよう。


 そう決めて蛇口から顔を上げたとき、アカギくんが登ってきた参道の反対側の斜面を通る車道の上を、見慣れた白い自転車が走ってくるのが見えた。


 トーマくんだ。

 こんな時間にどうしてこんなところにいるんだろう。


 トーマくんの自転車は町を背にしてだんだんとアカギくんのほうに近づいてくる。

 アカギくんは声をかけようかともおもったが、こんな時間にこんな場所にいることを知られたら怒られるだろうと思い、声はかけずにただ目線だけをトーマくんの自転車に送った。


 神社へと続く細い道が車道と直角に交わって最も近くなる地点にトーマくんの自転車が来た瞬間、アカギくんはトーマくんの自転車のかごに小さくてふわふわした生き物が入っていることに気づいた。


 あれは......猫?


 その生き物の像が頭の中で結ばれると、アカギくんは雷に打たれたように神社から車道に向けて走り出した。


 毎日見慣れた三毛猫の模様、トーマくんの自転車に乗っていたのは間違いなくアカギくんの猫だった。



 ✴︎



 走り始めて10分くらいだろうか。

 トーマくんの自転車の後ろをなんとか見失わずについていくと、トーマくんは途中で脇道に逸れた。脇道の入り口には朽ちかけて苔むした看板があり、「ホテル ノイシュヴァンシュタイン この先30m」と剥がれかけの文字が書いてあった。


 アカギくんもその脇道に入り、まるで森の木々がその部分に立つのを遠慮したかのように真っ直ぐに続くコンクリート舗装された細い道を進むと、突然視界が開けてヨーロッパ風のレンガ造りの洋館が現れた。


 レンガの表面は苔と蔦に覆われ、窓はすべて裏から板で塞がれていて不気味な雰囲気ではあるものの、森の中に凛と立つ建物は月明かりに照らされて本物のお城のように感じられた。


 アカギくんがぼーっと建物を眺めていると、脇から猫を抱えたトーマくんが姿を表した。距離もあるし夜闇の中にいるので、トーマくんはまだこちらに気づいてはいない。


 どうしよう。

 とっさについてきてしまったが、トーマくんにどのように声を掛けるかを考えていなかった。


 よ!......なんていつものノリでいけるわけがないし、かといってついてきたというわけにもいかない。


 アカギくんがどうするかを決めかねて立ち尽くしていると、トーマくんの腕の中の猫がにゃあ、と鳴いて飛び出し、アカギくんの足元に駆け寄ってきた。


 ポチ、と名前を呼びながら撫でてやった。お前のせいで今日は大変だったんだぞ、と心のなかで少しだけ文句をいいながら。


「よ!こんなところにいたんだな」


 トーマくんが僕のそばまで歩いてきた。

 その表情は柔らかく、いつものトーマくんだった。


「まぁ入りなよ。こんなところじゃ寒いだろ?」


 トーマくんはいたずらっぽく笑うと、洋館に向けて歩き出し、洋館の入り口を開けた。アカギくんはポチを抱き上げると、トーマくんに続いて洋館の中に入っていった。



 ✴︎



 洋館の中は極めて複雑だった。


「ここはねー、バブルの時に作られたホテルなんだ!バブルってわかる?日本中がお金があれば何でもできるとバカみたいなお祭り騒ぎになって無駄なものをたくさん作って浮かれてた時代だよ。お金があるからって幸せになれるわけじゃないのにね」


 トーマくんは時々分からないことを言う。お金があれば、妹たちとコンビニのハンバーグ弁当を毎日食べられるし、友達とお菓子を買い食いすることだってできるのに、どうして幸せになれないんだろう。


 アカギくんは何も言わずにトーマくんの背中を追いかけた。


 トーマくんは勝手知ったる我が家であるかのように、懐中電灯を片手にあちらこちらのドアを開けて進んでいった。


 洋館の中は荒れ放題で、ところどころに落書きも見られた。

 どこまで奥に入るのだろうか、とトーマくんに尋ねてみようと思ったところで、トーマくんは一枚のドアの前で立ち止まり、人差し指を口元に当てた。



 コンコンコンコン、ただいまー!



 少ししてから、カチッという音がしてドアが開いた。


「おかえりなさい、トーマくん。そちらがアカギくんかな?」


「ただいま、ご主人!こちらがアカギくんです!」


 ご主人と呼ばれた長身の女性はポニーテールを揺らしながらアカギくんに笑顔を向けた。この三人の中ではたぶん最年長だろう。


「よろしくね、アカギくん」


「よろしく、お願いします」

 アカギくんはいまいち状況が飲み込めないまま、おずおずと挨拶をした。



 ✴︎



「でねー、その時アカギくんが――」


 トーマくんとご主人が楽しそうに会話しているのを、アカギくんは横で相槌を打ったりご主人が淹れてくれた紅茶を飲んだり出してもらったお菓子を食べたりしながら聞いていた。


 カリカリ、ポリポリ。


 紅茶からは嗅いだことのない甘い香りがして、お菓子は震えるほど美味しくて、アカギくんはついついたくさん食べてしまった。夕方からずっと寒い外で走っていた疲れが紅茶に溶けてなくなり、足元がふわふわとしてくるのを感じた。


 太ももに乗っているポチはすやすやと眠っている。

 そろそろ帰らなければ、そう思って立ち上がろうとするが、腕にも脚にもうまく力が入らない。


 視界が徐々にぼやけ、歪み始める。


 ぁ――


 身体がバランスを失ってテーブルに突っ伏すのを感じながら、アカギくんは抗えない眠りの底へ落ちていった。



 ✴︎



「ご主人、これからどうします?」


 ぐっすりと眠ってしまったアカギくんをベッドに移すと、トーマくんが口を開いた。


「この子の両親にはすでに十分な金とパスポートを与えて海外に行かせてある。この子にも、この子の妹たちにも十分に"カクテル"を食わせてある。しばらくはぐっすりとおねんねしてるだろうし、これでもうここから逃げたら遅効性の毒で死ぬだけだ。死にたくなければ、"カクテル"を一生食べ続けるしかない。」


「遅効性の毒とその治療薬を混ぜた"カクテル"なんて、よくまぁ作りましたね」


「これでも医師免許があるのでね。で、明日ここを発つよ。新しい"商品"が4つも手に入ったんだ。この町からはしばらく離れよう。」


「そうしましょう。オレはもう疲れましたよ。」


「ははは、しばらくは南の方でゆっくり休もう。先月にようやく売れた"商品"、外国人にかなりの高値で売れたんだ。無人島をひとつ買ってあるよ」


「マジですか!あの"猫"、数年前に仕入れてからずっと売れないから、どうなることかと思いましたよ」


「外国人の顧客に『ジャパニーズ神官だぜ』って言ったら大層喜んでね。私も安心したよ。そういえば、アカギくんの新しい名前、どうしようか」


「"ポチ"でいいんじゃないですか」


「悪くないね。明日から、君がまた調教するんだよ」


「へいへい、任せてください」


「じゃあ、そろそろ荷物をまとめて後片付けをしようか」


「"猫"の両親、あのままで大丈夫ですか?」


「へーきさ。私達が出発したら、この建物は燃えてなくなる。"事故"でね。イタズラで燃やされたラブホテルの廃墟の地下深くに死体が埋まってるなんて、警察も夢にも思わないだろうよ」


「なるほど。周到ですね」


「当たり前さ。さて、次の場所では君にどうやって"商品"の候補を見つけてもらおうかね」


「もう小学校の先生はこりごりですよ」


「なんだい、随分と楽しそうだったじゃないか、當間トーマ先生」


「やめてくださいよ。雇われるために校長を買収しておくのも大変だったんですよ」


「ご苦労だったね」



 ✴︎



 ご主人が支度のために部屋を出ると、當間は静かな寝息を立てているアカギくんの頭を愛おしそうに撫でた。


「これからはお望みのハンバーグ弁当もお菓子もたくさん買ってあげるからね」


 當間はアカギくんの耳元でそうささやくと、おでこに軽くキスをして明かりを落として部屋を出た。


 満月の夜の洋館の中、無垢な命がその暗がりの中で刹那の安寧に身を委ねていた。

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ぼくの名前は猫である てっち @tohru_n

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