バレンタインSS
休み時間。
先の授業が終わると同時に椎葉茜があたしのところにやってきた。机と机の間を縫うようにして、ちょろちょろと走ってくる。
「紫苑ちゃんはバレンタインどうするの? 誰かにあげる?」
そうしてひとつ前の席の主が立ったのと入れ替わるようにして、そのイスに腰を下ろした。
二月頭の教室は、生徒間の温度差が激しい。我が校の生徒はそのほとんどが進学するので、温度差の原因は大学入試の合格をもらっているかどうかのちがいだ。
あたしはもう本命の大学に合格しているのでのんびりしたもの。反対に茜はまだだ。四人姉弟の長女ということで、国公立縛りがあるらしい。にも拘らず、この緊張感のなさはどういうことだろう。
「あたし? そんなのいるわけないでしょ」
掌をひらひら振りながら、あたしは答える。
すると茜はこちらに向かってぐっと顔を寄せてきた。
「図書委員くんには?」
そして、周りに聞こえないように小声で囁く。
「……」
あたしは黙り込んだ。
実際のところ、考えていないわけではないのだ。お父さんには毎年あげている。この時期デパートの催事会場には有名店のチョコが集まってくるので、自分で食べる用に買うついでにお父さんにあげているだけだけど。でも、弟にバレンタインチョコをあげるのは何か変じゃないだろうか。世の姉たちはどうしているのだろう?
と、思ったら、ちょうどいいサンプルが目の前にいることに気づいた。
「あのさ、茜はどうしてるの?」
あたしはすっかりママ友ならぬ姉友と化した茜に聞いてみる。
「ん? あたし? もちろんあげてるよ」
「あぁ、やっぱそうなんだ」
弟妹思いの茜ならそうなるか。
「三人並ばせて、ひとりずつ、はい、はいって」
「……」
妹にまであげているようだ。あげるというよりは、配る。社会に出ると紙袋を手に提げ、職場の男性陣に配りまくるOLもいると聞く。茜のはそれに近い。
「紫苑ちゃんはあげないの?」
「いま考え中」
何日か前、バレンタインが近いと気づいてからずっと考えている。
「あげればいいじゃない。減るものじゃなし」
「いや、あげれば確実に減るから」
そもそも減る以前にないから調達してこないといけないし、そうしたらあたしの財布からお金が減る。なんだろう、この理不尽さ。相手が弟になると途端に何の得もないイベントに成り下がるんだけど。
「まーまー、そう言わずに。あげておいて損はないから」
茜はまるで自分の言うことを聞いておけば間違いはないと言わんばかりだ。
もしかして茜の世話焼きな性格は弟妹だけでなく、あたしにも向けられているのだろうか?
§§§
夜。
自分の部屋で何をするわけでもなくのんびりと無駄な過ごしていると、かすかに隣の部屋のドアが開く音が聞こえた。もちろん、静流の部屋だ。廊下へと出た足音があたしの部屋の前を通り、階段を下りて一階へと消えていく。
あたしはタイミングを見計らい、自分も部屋を出て階下へと下りた。
キッチンでは静流がコーヒーを淹れていた。勉強のおともにするつもりなのだろう。
「ああ、静流。ちょうどいいわ。あたしにもちょうだい」
我ながら白々しい。
「わかりました。少し待っててください」
当然、静流はそれには気づかず快くやってくれる。淹れたばかりのコーヒーにミルクを注ごうとしてた手を止め、食器棚からあたしのマグカップを取り出した。
我が家にあるコーヒーメーカーは一杯一杯抽出するタイプのものだ。サーバーと言ったほうがいいのかもしれない。静流はそこにマグカップをセットすると、ブラックコーヒーのボタンを押した。後は待つだけ。一分もかからない。頼むほうも気が楽だ。
あたしはリビングのソファに腰を下ろ、待った。
「どうぞ」
程なくして少々うるさい抽出音が止まり、静流がマグカップを持ってこちらにやってきた。反対の手には自分のカップが握られている。
「ん、ありがと」
あたしはカップを受け取った。
「もうすぐバレンタインだけど――あんたはどうなのよ。女の子からもらったりするの?」
そして、すかさず話題を振る。
すると静流はほんの一瞬だけ動きを止めた。わずかに口を開き、何か言葉が発されるかと思ったけど、そうはならなかった。
静流はあたしから見て斜め前にある二人掛けのソファに座った。
「僕がそんなにモテる男だと思いますか」
「ないわね」
あたしがそう答えると、静流は気を悪くした様子もなく小さく笑う。
「そういうことです。比較的バレンタイン死ねの側ですよ」
「そんなこと言って、瀧浪さんからもらうんでしょうが」
ふたりが出会ったのが年度のはじめ。つき合うようになったのが夏休み前で、今もそれはしっかり続いている。今年が初めてのバレンタインだ。
「たぶん。あの人、こういうイベントは好きそうですから」
静流は苦笑いをする。
別に嬉しくないわけではないのだろう。瀧浪さんのやることが重いというのもちがう。たぶんイベントに対する熱量に差があるのだ。
「あんた、それ、むしろ死ねって言われるほうよ」
「悪い気はしないですね」
と、静流は笑う。
そりゃあ瀧浪さんとつき合っているのだから、学校中の男子から嫉妬と羨望で死ねの大合唱だろう。それを悪い気がしないとはなかなか神経が太い。
瀧浪さんもこんなののどこがいいのだろう? と前は思ったものだ。でも、今なら何となくわかる。静流は空気を読むのに長けていて、波風立てないためなら平気で悪ものになる。でも、その一方で妙な図太さがあるのだ。瀧浪さんやあたし、果ては壬生さんを前にしても物怖じしない。いや、順番が逆か。壬生さんという超然とした人を相手にできるから、あたしたちくらいではわずかも怯まない。だから、こうして今も笑っているのだ。
こういうところも瀧浪さんが惹かれた理由なのかもしれない。
「じゃ、あたしからはいらないわね」
量より質。
明らかに並の女十人分のチョコをもらうことになる。
「あれ? くれる予定だったんですか?」
「毎年お父さんにあげてるからね。そのついでと思ってたのよ」
もっと言えば、お父さんもついでだ。ただあたしが珍しくて美味しいチョコを食べたいだけ。
「くれるならもらいますよ。ぜひ」
「え? あ、そ、そう……?」
なんか意外な反応で、あたしは目をぱちくりさせてしまう。
「みんなに自慢……はできませんが、僕の中でひとつのトロフィーにはなりますね」
「あー、うん、じゃあ今度買ってくるわ」
歯切れ悪く、そう返事をした。
§§§
その週の週末。
あたしは三宮まで出て、そこで百貨店巡りをしていた。もちろん、目当ては催事会場で催されているバレンタインの特設コーナーだ。今やバレンタインは一大イベントなので、もはやコーナーなどというささやかなものではないけれど。
催事会場は人であふれ返っていた。あたしより年下の女子中学生からもう社会人であろう女性、もっと上のおばさんまで。あれがいいこれがいい、買おうと思っていたやつがなくなってる、などなど……。実に騒がしくて楽しげだ。
だけど、あたしの足取りは鈍かった。よさそうなチョコを手に取ってみても、すぐまたもとに戻してしまう。ピンとこないわけではなく、考えに身が入らないのだ。
原因は先日の静流の行動にある。
静流は確かに意外と図太くて、物怖じしない性格だ。だけど、あんなふうに『もらえるものはもらっておく』といった考え方をするような強欲な人間だっただろうか。それがあたしの知らない静流の一面と言われてしまえばそれまでだけど。何せ姉弟としてひとつ屋根の下で暮らしはじめてまだ十ヶ月なのだから。でも、どうにもらしくない発言だったように思う。
「なんか、がっかりしたな……」
と、我知らず口をついて出てしまい、そこでようやくあたしは言葉通りがっかりしていることに気づいた。
もらえるものはもらっとくもそうだし、そうやってもらったものを自慢だとかトロフィーだとかいうのもそう。それじゃそのへんの男どもと一緒だ。
もういい。このことは忘れよう。どうせついでなのだ。あたしが食べたいものを選んで、同じものを静流とお父さんににも買う。それで終わりだ。
「あら、何ががっかりなの?」
不意に声がした。
その声の主は――、
「瀧浪さん!?」
「ええ」
いつの間にか横に立っていた彼女は自信ありげにうなずいた。
「こんなところで会うなんて奇遇ね。あなたもチョコを買いに?」
「ま、まぁ、そんなとこ」
いちおうそのつもりできたのは確かだし、ちゃんと買って帰るだろう。
「もしかして静流?」
「あたしにはあげるような男はいないからね。毎年お父さんにあげてて、ついでに静流にもと思って」
「へぇ、ちゃんとお姉さんしてるじゃない。関心ね」
そうなのだろうか?
「そっちも静流にあげるやつを買いにきたの?」
あたしは同じ話題を瀧浪さんに振る。
彼女もあたしと同じで、もう大学を決めている。後は消化試合みたいな学校生活を残すばかりだ。
「なんか意外。瀧浪さんなら手作りとかしそうなのに」
「それも考えなかったわけじゃないの。でも、どうやっても有名店のには勝てないから」
けっこう潔い。
「それなら渡し方のほうに凝りたいわ。……ねぇ、どんなふうに渡せば静流が喜ぶと思う? それとも驚かせたほうがいいのかしら?」
「……」
いや、だから、そういうところ。あたしは彼女に聞こえないように小さくため息を吐いた。
「なぁに、その顔?」
「え?」
「静流にあげたくないの? そう言えば、さっきがっかりしたって言ってたわね。何かあった?」
最初は瀧浪さんのバレンタインにかける情熱に呆れていたからそちらのことを言われたのかと思ったけど、どうやらそこではなかったようだ。
「ちょっと、ね……」
それからあたしたちは一度催事会場を出た。
少し離れたところから売り場を眺めるような場所までくると、あたしは先日の静流のことを話した。
「それって――」
瀧浪さんは少し考えると、そう口を開く。
「それってあなたが迷ってたからじゃない?」
「え……?」
思っても見ないことを言われた。
「あなたのことだから静流にあげようかどうしようか、ずっと迷ってたんでしょう?」
「そ、それは姉として……」
「わかってるわよ」
瀧浪さんはあたしの言い訳がましい言葉を一蹴する。
「あなたが迷ってるのを感じ取ったから、静流もはっきり欲しいと言ったんじゃないかしら」
「……」
そういうことか。あれは静流の物怖じしない性格の表れではなく、もうひとつのほう。空気を読む性格によるものだったのだ。
「あなただってそっちのほうが気が楽でしょう?」
「まぁね」
苦笑しか出ない。
あたしがよけなことさえ考えなければ、くれとはっきり言った静流の態度をいっそ清々しいと思っていただろう。
「情けない……」
そして、次にこぼれた言葉がこれだった。
「弟に気を遣わせるなんて」
「別に情けなくはないわよ。姉弟になってまだ一年もたってな――」
不意に瀧浪さんの言葉が途切れた。
何かと思って彼女を見れば、瀧浪さんは一点を見たまま動きを止めていた。あたしもその視線の先を目で追ってみる。バレンタインの特設会場だ。
そして、そこには――、
「ねぇ、あれって……」
「絶対に……よねぇ」
壬生さんだった。
なんと、あの壬生さんが売り場でチョコを手に取っていたのだ。あの切れ味鋭い怜悧な美貌が真顔でチョコを選んでいる姿は楽しげな周囲の客とはあまりにも対照的で、刀を見定めているような重厚な雰囲気すらあった。
でも、問題はそこではない。いったい誰のためのチョコを選んでいるか、だ。
あたしと瀧浪さんは互いに顔を見合わせてうなずくと、壬生さんに向かって歩き出した。
「こんにちは、壬生さん」
声をかけたのは瀧浪さんだった。
手にしていた商品から視線を外し、こちらに顔を向けた彼女は、瀧浪さんとあたしを順番に見た。
「お前たちもきてたの」
特に驚いた様子もなく言う。
「ええ。ところで、それってバレンタインのチョコよね? いったい誰にあげるのかしら?」
「もちろん静流よ」
瀧浪さんの静かな問いに、壬生さんはさも当然のようにそう答えた。……やっぱり。
「いや、壬生さんからもらってたなんて聞いてないんだけど」
これはあたし。
前に静流に聞いたとき、『僕がそんなにモテる男だと思いますか』と言っただけで、実際には具体的なことは何も言っていない。でも、仮に静流が毎年壬生さんからもらっていたとして、それを伏せるとは思えないのだ。
「あげてないわ。今年が初めて」
「ちょっと待って。何でよりにもよって今年から!?」
再び瀧浪さん。彼女と静流がつき合いはじめて、今回が初めてのバレンタインだ。なのに、なぜ同じタイミングで今まであげていなかった壬生さんが静流にチョコを渡そうとするのか。さすがに瀧浪さんも黙ってはいられないだろう。
しかし、壬生さんから返ってきたのは反論や弁解の類ではなく――、
「静流、母親から毎年もらってたのよ」
「「え……?」」
あたしと瀧浪さんは一瞬言葉を失う。
「あ……」
そして、遅れてあたしの中でひとつの疑問が氷解した。
それは先日、静流にバレンタインの話を振ったときのこと。あたしが誰かからもらうのかと聞いたとき、静流は何かを言いかけてやめた。あれはきっとお母さんのことを言おうとして言葉を飲み込んだのだ。
「親からはもうもらえないけど、私が買えば少なくとも数は減らない」
それが壬生さんが静流にチョコを上げようと思った理由。
「ああ、でも、お前たちもいるのだったわね。多少賑やかには見えるか」
彼女は挑発的にあたしたちを見る。
「わたしは静流の恋人なんだから。ただの賑やかしみたいに言わないでくれる」
「こっちだってあれの姉よ。赤の他人とは重みがちがうわ」
瀧浪さんとあたしは、各々意気込みをもって答える。
母ひとり子ひとりで生きてきて、たったひとりで子どもを育てた母親が毎年あげていたチョコに勝てるとは思わないけど、枯れ木も山の賑わい。三人分あればそれこそ少しは見栄えするのではないだろうか。
この後あたしたちは、それぞれこれはと思うチョコを探して売り場を巡った。
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【あとがき】
遅……。
放課後の図書室でお淑やかな彼女の譲れないラブコメ 九曜 @krulcifer
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