チャッカマンの末裔

真花

チャッカマンの末裔

 火が美しい。個体液体と異なるからか、与える変化の可能性からか、それよりもっと単純に造形からか。


 人類最古の職業は娼婦とか戦士とか言われているがこれは誤りだ。これらの仕事は人類が人類に成る前から存在するからだ。ある一つの点を持って、プレ人類は人類になった。それは、火を起こせるようになったときだ。自然界にある火を借りて来るのではなくて、必要なときに自らの力で、火を起こすことが出来る。自然現象を自在に生じさせる、その技術を獲得したときに、人類になったのだ。必然的に人類最古の職業は火起こし人、つまりチャッカマンである。

 ブブは体格にあまり優れないために、猟で足を引っ張るような青年だった。しかし、偶然手に入れた火で、調理した料理が驚く程美味しかったことで、いや、それ以上にその「火」と言うものがあまりに美しかったことで、それを自分で出せないかと考えるようになった。

「ブブがなんかやってるぜ」

「ほっといて遊ぼう」

 狩猟採集は一日数時間で済み、みんなあとは遊んでいた。だからブブが火を起こすために研究する余暇は十分にあった。文化的に、生活のための時間以外を昼寝や遊びに使わないのは無粋だったから、ブブが一人で何かをずっとやっているのは気味悪がられた。それでもブブは探究心を優先させた。

 だから最初の職業は本当は研究者なのかも知れない。自然の領分のものを人類に取り込むために理解してゆくと言う姿勢は今も変わらない。

「火を出したい」

 ブブは猟が終わって食事が済めば、火の研究に取り組む。

「火は熱かった」

「火は揺らめいていた」

「火はいずれ消えた」

「火は何かから何かに移すことが出来た」

「移すものがなくなったとき、消えた」

 最初は火の性質を思い返すところから始めた。火が手に入ることは極めて稀なので、感動して強く刻まれたものを丁寧に思い出すことしか出来ない。でも、深い感動とそのときに火に触れた経験は確かにブブの中にある。

「火に当てられたものも熱くなった」

「もっと当てたら火が移った」

「ほどよく当てた肉は美味かった」

「火は近くに行けば行く程熱かった」

 そこで、は、と思い至る。

「火と言うのは、熱いことが本質なのではないか。と言うことは、熱くすれば火が生まれるのではないか」

 最初の仮説が決まった。

 火で燃えたものである木を、毛皮で包んでみる。

 待てど暮らせど火は起きない。

 次に口から出る熱い方の息をかけてみる。

 頭はクラクラしたが、火は起きない。

 太陽に晒すくらいじゃ火は起きないことは最初から分かっている。

 走ったら熱くなるけど、それで火が起きるならとっくにみんな燃えている。

 もっと熱くする方法はないか。

 思い付かずに何日も費やした。

 ある日の狩り。

 走って牛を追っかけていたら、壮大に転んで肩を擦り剥いた。

「ブブ、大丈夫か?」

 獲物を仕留めたヤムが声を掛けて来る。

「痛いけど、大丈夫」

「川で洗った方がいい。獲物はみんなに任せて俺と行こう」

「すまない」

 川で傷口を洗う。

「熱っ!」

「擦ったんだ、仕方ない。我慢しろ」

 ブブの瞳が輝く。

「擦ると誰でも熱いのか?」

「そうに決まっているだろう。ほら、洗え」

 天啓に打たれたブブは恍惚とした表情で傷を洗うと、部落に戻ったらヤムに礼を言って、研究に向かった。

「擦れば熱い。擦ればいいんだ。でも自分の肉体で擦るのは自分が燃えちゃうから、燃えていた木と木で擦るのをやってみよう」

 最初はバイオリンを弾くような感じでやってみた。かなりの勢いをかけたら、擦った部分がほんのり熱い。

「やはり、擦ると熱くなる」

 ブブのこころは期待に燃える。しかし、火は起きない。熱くはなるのだけど起きない。

 色々な形で、両手に持って拝むように擦ったり、砥石で削るように擦ったり、している内にふと、棒でキリのように擦ることを思い付く。これはスピードがこれまでより断然早い。

「期待していいかも知れない」

 ショコショコショコショコ擦る。

 暫くしたら、煙が出始めた。

「やった、火は煙を吐くものだ。このまま続ければ、燃える!」

 ショコショコを続ける。煙はさらに出る。

「来い! 来い!」

 そしてついに火が点いた。プレ人類が人類になった瞬間だ。

 棒がそのまま燃える。でもまだ小さい火で、擦るのをやめて暫くしたら消えてしまった。

「出来た。火は起こせる」

 ブブはそれから改良を重ね、種火を燃え移らせるものを用意したり、擦るところに藁のようなものを入れたりして、数週間の内に安定的に火を起こせるようになった。

 ある調理の時間に、ブブは今日の獲物を前にした人々に向かって宣言する。

「みんな、火が使えるようになった。俺しか出せないけど、料理に使ってみないか?」

「本当なの? もしそうなら、味が全然違うから欲しいわ」

「持って来てみてよ」

 懐疑的な言葉がほとんどだった。ブブは自分の研究場所に行って火を起こすと、大きく育ててからみんなのところに持って来る。

「この通り、さあ、使って」

 歓声が上がる。

「ブブ、すごいね。見直したよ」

「これで美味いご飯が食べられる」

 人類最初の人工火での料理は牛の肉だった。これからはいつでも火が使えると言うことに人々は歓喜した。

 狩猟では足を引っ張っていたブブが確固たる地位を持つようになった。

 村長の提言で、ブブは狩りに行かなくてもいいと言うことになった。万が一狩りで死んだら、火を失うことになってしまうからだ。

 ブブはさらに暇になった。

 火の研究は続けていたが、それだけで埋まる程暇は浅くない。村長に相談したら、火を使って宴をやろうと言うことになった。その仕切りをしろと言う。企画から運営まで全部仕切るのだ。

 これがみんなのこころを打った。その盛り上がり方は尋常ではなく、特に、火と料理と音楽の組み合わせがウケた。その結果、ブブは司祭と言う、祭りと宴を仕切る役目をするようになる。

 しかし司祭も時期じゃなければ暇である。みんなと遊ぶのも悪くないのだが火の研究と起こせるようになったことの感動に比したらぬるい。

 司祭であり、チャッカマンであるブブは本人が考えていた以上に人々の尊敬を集めるようになった。他の誰もが出来ないことを当たり前のようにやる男は、只者ではないと。自然に、相談が来るようになった。ブブはそれに応えた。その当時にあって、科学的思考が出来たブブの相談への対応は、人気が出た。いつしか、司祭は相談者と言う地位も併せて持つようになった。これである程度時間は埋まった。妻帯して、子供も作りながらブブはまた別の自然現象の人類への取り込みを考えるようになった。やはり俺はそう言うことを中心にして生きよう。地位と仕事と、狩猟の免除を手に入れて、ブブはやっと有り余る時間を暇ではなく、研究する自由だと捉えるようになった。

 一度手に入れた地位と自由は失いたくない。ブブは火の起こし方を秘密にしたが、老境に立ったとき、ついに自分の息子にその技術を伝えた。息子はいずれ二代目の司祭となった。


 百万年後。令和の日本。タバコの煙を吐き出しながら、私は娘に言う。

「タバコを吸うってのは、とっても人間らしいことだと思うのよ」

「何言ってんの。百害あって一利なし」

「一利もなけりゃ吸ってないわよ。美味いの。まあ、あなたに吸えとは言わないけど。でも、私から取りあげないで欲しいの」

「気持ちは分からなくもないけど、何でそれが人間らしいの?」

「火を使うからよ」

 夫が死んで十年。私は真の意味での悠々自適な生活を謳歌していたのだけど、娘が心配だからそろそろ老人ホームに入れと言う。お金は彼が遺してくれたのと年金で潤沢だからホームを選ぶことは自由に出来る。でも。

「ママ、だからホームに入りたくないの?」

「あの人の思い出もそりゃ一ミリくらいはあるけど、火が使えないってのは納得出来ないわ」

「I Hはいいってよ?」

「料理は代替手段がいくらでもあるからいいわ。でも、タバコが吸えないのは受け入れられない」

「火を使うのだけは、どこもダメ」

「火ってきっと人間が人間である象徴よ。だからそれを取り上げるってのは、入居から先は、もう人間じゃありませんって言われるようなものだと思うの」

「大袈裟ね」

「タバコは火との付き合いの一つだけど、火を扱うのは人間の証明よ。文子、申し訳ないけど、あなたの気持ちは分かるけど、火が使えるホームを見付けるか、そうでなければ、私は家で生きて、死ぬわ」

「火って、そんなに大事なものなの?」

「あなたも本当に自分の人生から、火が奪われるかも知れないとなったら、分かる筈よ」

 私はコーヒーを口に含む。これだって火がないと生み出すことが出来ないものだ。

 奪われるかもと思ったら、火のことをよく考える。

 放火の罪が重いのは、その結果の重大さだけでなくて火と言うものとの付き合い方の裏切りだからなのではないか。

 魔女狩りでは火を点けたのに、キリストの磔刑に火を放らなかったのは何故か。火は同じ人間やそれ以上と見做される対象には放ることを躊躇われるのではないか。

 若い時にエタノールの入った霧吹きでアルコールランプを吹いたら火炎放射になって、ストレスがスッと消えたのは、火を自分のものにした感覚からなのではないか。

 火はきっと人類にとって特別なのだと思う。

 文子が私の顔をじっと覗き込む。

「ふぅん。ママがそう言うなら、そうなんだね。一緒に暮らすことは出来ない、それは理解してくれてる?」

「もちろんよ。老いたる者が若い人の人生に害を成すことだけはしちゃいけないわ。でも、一人で生活するのだから、ギリギリまでは努力するけど、いよいよ死んでしまったらその後の処理だけはよろしくね」

 文子はちょっと下を向く。老人ホームに入れると言うことはそう言うところの不安と手間を金で解決することだ。それは共通認識ではある。でも実際に言葉にすると、棘がある。

「分かった。私もママに最後まで人間でいて欲しい。けど、認知症になったら話は別だからね?」

「それは了承済みよ。認知になってある程度進んだら、もう私の人格は死んでるから、好きにして」

「この話題は嫌ね、暗い気持ちになる」

「でも、今のところは想定される全ての暗い未来は、起きてないわ」

「確かに」

「まだ、未来があるのよ、私にも。もちろんあなたにも」

 火葬と言うのも、だったらすごく人間らしい埋葬なのかも知れない。まだまだ先の予定だけど。

「ねえ、ママ、ちょっと散歩しない? せっかく銀座に来たんだからさ」

「そう言って何か買わせるつもりでしょ?」

「魂胆見えてたか」

「いいわよ、たまにはお買い物しましょう、でもちょっと待ってね、もう一本」

 私はライターに再び火を点ける。人類の最後の一人も、きっと火を手放さない筈だ。



(了)

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