透明な僕とお前
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第1話
「裕貴、本当に行けるの?」
母親の言葉が耳の奥で反芻しているのを感じながら重い鞄を背負い直し、炎天下のアスファルトの上を歩く。この道を歩くのは実に一年ぶりである。高揚感こそ無いものの、特段期待をしている訳でも無いので不安は無い。
というのも僕、水野裕貴はつい最近まで引き篭もりであった。
元々華びやかな高校生活を夢見ていた訳ではなかったが、まさか入学して数ヶ月で、それも人気者の桐野紗良という女の隣の席になっただけでいじめられるとは思わなかった。
しかもそれは、リーダー格の不良もどきが彼女に好意を抱いているが為に生まれた“嫉妬”とかいう理不尽極まりなく、くだらない理由である事を知った時は流石に怒りを感じざるを得なかった。
いじめといっても暴力のような表立ったものはなく、物を盗まれたり足を引っかけられたりといった幼稚なものだったが、元から学校への興味が薄かった僕が家に引き篭もるには十分すぎる理由であった。
そんな僕が現在学校へ汗を垂らしながら向かっている訳は、先日、そのリーダー格の不良が問題を起こして退学したという朗報が流れてきたからだ。
そして、まあこれは別に理由という程のものじゃないけど、引き籠ってから毎日のように制服を悲し気な目で見る母を見ていられなくなったから。
実際、「学校に行くよ」と昨日僕が言ったときに母は、一瞬不安を含んだ表情をしつつも、目も口元も綻ばせて嬉しそうな顔で僕の頭を撫でた。
誤解が無いように言っておくが、断じて僕はマザコンという類のものではない。
真っ当に育った人間であれば、誰だって母親の喜ぶ姿は嬉しいものだろう。
そう誰に言うでもなく自分に言い聞かせている内に校舎についた。
生徒たちが挨拶や雑談を交わす中、出来る限り目立たないように靴を履き替えて教室に向かう。
僕の通う学校は進級してもクラス替えは無いが、いじめっ子がいないならば問題はない。見て見ぬ振りをした奴らはいるけども。
すぐ卑屈になる自分に溜息とも深呼吸とも分からない息を一つ吐いてドアを開ける。
と同時に飛び出してきた女にぶつかりそうになった。
「わ、危なっ……ってあれ、水野じゃん、久しぶり」
そう言って僕に軽く手を振りながら走っていく破天荒な女を尻目に、
(案外普通に接してくるものなんだな)
と、意外な反応に少し狼狽えつつ机に向かうと、同時に隣の席の女が目に入った。
思わず目を瞬く。
隣の席の女は、僕のいじめの原因となった、友達が沢山いて笑顔が絶えない人気者の桐野紗良、のはずだった。
だが、今僕の隣にいるのは、いつも緩やかに口角を上げていた口元を一文字に結び、どこか苦し気な表情で下を向いている地味な女だった。
それでも整った横顔や、長い艶のある髪は紛れもなくあの人気者のものだけれど。
少し彼女を見つめた後、直感した。いじめられていたから知っている。
彼女だけ皆から見えていないようなこの感じ。
彼女はきっといじめられているのだ。それも、恐らく無視といった類の。
思い返せば、さっきぶつかりそうになった女もひっつき虫の様に彼女といつも一緒に行動していた筈だった。彼女の周りにはいつも誰かがいた。
だが今、彼女は独りである。
人気者がいじめられている理由は、僕には分からなかった。本当に突拍子もないことで他人を攻撃するのが人間である。いや、最早理由なんてどうでもよかった。
性格の悪い僕は、彼女がいじめられている事実をただ純粋に嬉しいと思った。
恐らく彼女は、僕がいじめられていたことを知らない。
あの不良もどきは、彼女に好意を抱いてるからか、彼女の前でだけは問題を起こさなかった。それでも僕は心のどこかで、八つ当たりだと分かっていてもいじめのきっかけとなった彼女を怨んでいた、のかもしれない。
いや、それとも単に人気者が自分と同じステージにいるのが嬉しいだけなのか。
自分でも理解し難い高揚感に浸った僕は、勢いに任せて彼女に声をかけた。
「桐野さん」
「え?」
少し間が空いたあとに驚いた様に彼女がこちらを見る。
「え……? な、何?」
「無視されてたりする? 皆に」
自分でもあまりに直球で不躾な質問だと思ったが、この時の僕に遠慮という言葉は存在していなかった。彼女は面食らった顔をして、少し考え込むような顔を見せた。
「無視……? あー……うん、そう、そうなの」
騒がしい教室に彼女の細い声が溢れる。
そこで僕はようやく自分の行動の異常さに気づき、全身を這うように増す気まずさを感じて、彼女に一言謝ってから静かに椅子に座った。
いくらなんでも調子に乗りすぎた。
今がどうであれ、僕は元いじめられっ子で彼女は元人気者なのだ。
沈黙が痛い。
どう誤魔化そうかと思考を巡らせていると、今度は彼女の方から「水野くん」と呼ばれた。
「何……?」
訊ねながら恐る恐る横を見ると、そこには先程までの地味な女はおらず、笑顔を浮かべ、大きな瞳を輝かせた、以前の人気者の彼女がいた。
その変わりように呆然として見ていると、彼女は満面の笑顔のまま「友達になろう!」と言って僕の手を握った。
呆けた顔で握られた手を見、彼女の顔を見、すぐさま首を横に振った。
これが僕と彼女の奇妙な生活の始まりだった。
「水野くん帰ろ」
彼女は放課後から僕の後ろについて回ってきた。
しっかりと断ったのにも拘わらず。
「あの、なんでついてくるのかな」
「なんかビビッときたんだよね。この人と仲良くなりたいって私の直感が言ってた」
「僕は仲良くなる気ないです」
「え〜」
無視して歩き始めた僕の後ろを、鞄に付けたクマのキーホルダーを揺らしながら彼女は楽し気についてくる。
早足で撒こうとしたが、交差点で足止めされ、仕方なく彼女の方を向いた。
「言っとくけど、僕と一緒にいても面白い事無いから」
「いや、水野くんは面白いよ」
「何それ」
「別に直感が外れてたとしてもいいよ。喋ってみたいだけだから」
何を言っても彼女は一人で満足したような顔で笑った。
先に白旗をあげた僕は、彼女の他愛ない話を黙って聞きながら帰路についたのだった。
それから似たような日々が二週間程続いた。
僕が絆されたわけじゃなく、彼女が勝手についてくるだけである。
相変わらず彼女は皆に無視されているけれど、彼女自身気にしている様子も無かったので、それ以上を敢えて聞くような真似はしなかった。
そして、彼女も教室で僕に話しかけてくることは殆ど無かった。
いつもの帰り道。
交差点で止まった時に足元にある花にふと気づく。
「あれ、ここで事故あったんだ」
「え、今気づいたの? 割と最近の事故なのに」
呆れたような目で彼女が僕を見るので、胸を張ってみせる。
「生粋の引きこもりだったからね」
「誇らしげにするのやめれるかな? ちゃんと今の内に周りにある色んな物を目に焼き付けておかなきゃだめだよ」
「急に年寄り臭いこと言うんだね」
「大事なことだよ。新たな発見も沢山できるし」
少しの間一緒にいて分かった事だが、時々彼女はこういう事を言う。
何て言うんだろう、丁寧に生きているという感じ。
指を立てて自慢げに説いてくる彼女の鞄についたクマのキーホルダーを指で弾く。
「何すんの」
「これ可愛いの?」
「クマ吾郎の可愛さに気づけないのやばいね、やっぱり周り見てないからだ」
「名前から全然可愛くないじゃん」
彼女と可愛い可愛くないと騒ぐ自分の口元に自然と笑みが浮かんでいるのは、気のせいだと思いたい。
次の日学校に行くと、彼女が教室の入り口で固まってるのが見えた。
視線の先を見ると彼女の机を今にもどこかに運ぼうとするクラスメイトの姿があった。
思わず僕は歩み寄り、机を持つ手を無理やり外した。
クラスメイトは驚いた顔をして僕を見た。
誰だって驚くだろう、元いじめられっこが急に自分に楯突いたのだから。
僕も、内心では自分に驚いていた。
以前はこんなことをするような人間じゃなかった。
半ば無意識に動いていた体が、おかしい。
そのまま会話を交わす事なく急ぐようにして場を離れたクラスメイトとすれ違うように彼女は来て「ありがとう」と言って僕に微笑んだ。
その彼女の言葉に安心した僕は、きっと、大分おかしい。
その日は彼女がファミレスに行きたいとごねたので、渋々ついていくことにした。
だが、その割に僕がポテトを注文しても彼女は頼む気配が全くない。
「食べないの?」
「ダイエット中なんです、水野くんはモテない男だね」
「なんで誘ったわけ?。てかお前ほぼ骨じゃん」
「失礼すぎ! あとお前呼び無理、紗良って呼んでよ」
「ハードル高すぎるし、友達しか名前呼びしたくないのでお断りします」
「私が友達じゃないっていうの?」
そう言って泣き真似をする彼女を冷めた目で見て、ポテトを頬ばる。
「名前呼びに意味ある?」
「あるよ、あと今日の占いで名前呼びで運勢上がるって言ってた」
「スピリチュアルとか占いは信じてないんで無効」
「つまんない男」
口を押えながらククッと彼女は笑った。その様子が本当に楽しそうで、思わず彼女をまじまじと見る。
「お前は変わってるな」
呟くように言うと、彼女は首を傾げて「そうかな」と言った。
「私からしたら水野くんの方が変わってるけど」
「いやいや。お前は外見はそれなりだけど、中身はパッパラパーだし」
「それ可愛いってこと? てかひどい、ずっと優等生キャラでやってきたのに」
「皆の目は節穴だから」
そうからかうと、何故か彼女は嬉しそうな顔をして微笑んだ。
「水野くん海好き?」
ある日の帰り道に突然、彼女が満面の笑顔で尋ねてきた。
こういうときの彼女は嫌な予感しかしない。
「好きに見える?」
「うん」
「嘘つけ」
「行かないからな」というと彼女は案の定嫌だ嫌だと騒ぎだした。
海は僕らの学校の近くから出ているバスで、20分ほど揺られていれば着く。
勿論引き籠りには無縁の場所だし、行きたいと思ったこともない。
「行こうよ、一生に一度のお願い」
「信憑性が無い例文すぎる」
「本当なのに」
彼女は口を尖らせて僕の鞄にしがみついた。
「重い」
「じゃあさ。海と水野くんの家だったら、どっちがいい?」
「は」
飛躍した話に思わず振り返ると、にこにこと笑顔を浮かべている彼女がいた。
……僕が断れないのを分かったうえで言っているんだろう。憎たらしい。
だが、ここで家を選択してしまえば本当に家に来兼ねない。
「……いつ」
「あ、し、た」
嬉しそうにしている彼女を睨み、盛大に溜息を吐いた。
学校自体休もうかと思ったが、心の底にこびりついていた微量の優しさが足を動かした。
彼女は授業中もずっとワクワクしていて、もうクラスメイトに無視されていることなんてどうでもよくなってしまったみたいだった。
もし今の彼女が、僕がいじめられていた事を知ったらどうするだろう。
怒るだろうか、泣くだろうか、自分のせいだと塞ぎこむだろうか――
想像して、ふんと鼻を鳴らし机に突っ伏す。
そんな顔は人気者には似つかわしくないだろう。
例え元だったとしても。
「来ないんじゃないかって思った」
バスの後部座席で揺られながら、彼女が足をパタパタさせる。
僕らのほかに乗客はいなかった。
「休みたかったけどな」
「でも来てくれたんだ」
そう言われると何も言えなくなり、彼女から顔を背け窓越しの景色に目をやる。
今日は少し雲が多く、影が多い。
日差しがそんなに強くなくてよかったと思う。
「あとちょっとで着くよ」
彼女の声に無言でうなずく。
いつもの帰り道とは違う、こういう閉塞的な空間に二人きりでいるのはむず痒かった。
別に彼女に特別な感情を抱いているわけではない。
ただ、僕が血の通った人間であるだけだ。
「ありがとうございました」
彼女が一言礼を言ってバスを降りる。
僕も軽く会釈すると、運転手も同じように返した。
下車すると、潮の香りがふわりと漂う。
曇りのせいか灰白色に見える海面に、白い
彼女が嬉々として海の方に駆け寄るのを眺めながら靴と靴下を脱いで、ゆっくりと後をついていった。
「海っていいねえ」
いつの間にか彼女も靴を脱いでおり、波の水に足を浸しては笑い声をあげていた。
今日は気温も高くないからきっと冷たいだろうに。
「水野くん入らないの?」
「絶対入らない」
「せっかく来たのに勿体ないね」
そう言って彼女は海面をじっと見つめた。
彼女も僕も喋らないから、波が打ち寄せる音が大きく響く。
潮風が髪を持ち上げて揺らした。
海を見ていると、急に視界が暗くなる。
彼女が後ろに歩いて行ったかと思えば、僕の両目を手の平で塞いでいた。
柔らかい手は、海に浸かったからか冷えていた。
「何」
素っ気なく聞くと、彼女の声が近くで鳴った。
距離が近い。
「私、海にずっと来たかったんだ」
「……良かったな」
「あと水野くんにも会えてよかった」
彼女の言葉に、言いかけていたことが喉に詰まる。
彼女の髪の香料と潮の香りが混ざり合い、鼻を打った。
「海でアンニュイな気分にでもなったのか?」
場の空気をどうにかしたくて適当を言うと、彼女は「ううん」と笑った。
「水野くんが学校に来なくなる前に仲良くなれてたらなって思っただけ」
勘弁してくれと心の中で笑う。
僕は自分がいじめられていなければ、彼女がいじめられていなければ、関わるつもりなどなかったのだ。
今だってこうして海に来ているなんて、過去の僕が知ったら卒倒する。
「今だって仲良くなんかないだろ」
染みついた軽口を叩くと、視界が晴れた。
この会話に目を塞ぐ必要はあったのだろうか。
彼女を振り返ると、いつもの笑顔で僕を見つめた。
「私の事呼んでみて」
僕も少し間を空けた後、口角を少し上げて答えた。
「お前」
「今日は一緒に帰れないの、ごめんね」
珍しくそう謝ってくる彼女を、しっしっと手で払う。
「たまには静かに帰れていいよ」
「そんなこと言って寂しくて仕方ないんだなシャイボーイめ」
「誰かシャイボーイだ」
軽口を叩きつつ「じゃあね」と帰っていった彼女の少し後に校舎を出てゆっくりと帰り道を歩く。
彼女がいない帰り道に少し違和感を感じてしまう。
思ったより彼女に毒されてるのかもしれないと苦笑した。
もう彼女と出会って一か月以上が経つ。
いつもの交差点。
運の悪い事に目の前で信号が赤になり立ち止まる。
何気なくふと足元の献花を眺めると、献花と共に新しく手紙が供えられていた。
飛ばされないように炭酸飲料のペットボトルで端を抑えられた手紙。
目を逸らそうとしたのに、思わず凝視してしまった。
見覚えのある不細工なクマの便箋に書かれている名前。
桐野紗良ちゃんへ
思考が停止する。
信号が青になっても、その場から動けない。
余りにも非現実な現実に、心臓が煩い程に鼓動する。
そんなわけないだろう。
何かのドッキリに違いない、クラスメイトの嫌がらせとか、あの退学した不良の仕業とか――
“彼女だけ見えていないような”
あの時感じたけれど見逃した違和感が輪郭を帯びる。
彼女がいじめられる?
僕のいじめの元凶となった程人気な彼女が?
もし
机をどかそうとしたクラスメイト。
もう来る事のないクラスメイトの机を片付けようとしていたとしたら?
彼女は何も僕の前で食べないし飲まなかった。
もう彼女には出来なかったとしたら?
彼女は僕にクラスでは話しかけなかった。
僕にしか見えてなかったから?
ふざけるな。
そんな三文小説みたいな話があってたまるか。
僕は確かに彼女と話して、笑って、触れたんだ。
思い出すのは冷たい彼女の、手のひら―――
いつだって彼女は朗らかに笑っていた。
全ての違和感がどうでも良くなってしまう位に明るい笑顔で。
翌日、登校日に声をかけてきた女に初めて自分から話しかけた。
隣の席に彼女はいなかったけれど、それでも一縷の望みを抱いていた。
「あのさ、桐野紗良って……」
少し声が震えて、手に冷や汗が滲む。
「え? ああ、水野知らないのか。紗良ね、車に轢かれたんだよ」
非情にも彼女は、髪色と同じ茶色い眉を少し顰めながらも淡々と答えた。
「あそこ車の通り多いからね」という彼女の声音に嘘は見えず、ただ茫然とすることしかできなかった。
そのあと誰に聞いても、皆口を揃えてこう言った。
桐野紗良は、死んだ。
周りに興味のない僕は、彼女が死んでいる事を知らなかった。
だから彼女が見えて、話せたのかもしれない。
皮肉なことだ。
あの時下を向いていた彼女は無視されている事にではなく、自分が死んでもいつもと何ら変わらない日常を送るクラスメイトに悲しんでいたのだろうか。
彼女は確かに人気者だった。
でも実際は、皆彼女の表面しか見ていなかったのかもしれない。
僕が「周りの目は節穴だ」と言った時の嬉しそうな笑顔が脳裏にこびりつく。
静かな帰り道。
交差点で、持っていたシオンを添える。
「お前が嫌いだよ、紗良」
変わってしまった僕は、静かに呟く。
どこからか吹いた風が慰めるように僕の頬をなでた。
透明な僕とお前 saw @washi94
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