短編集

硝子の海底

ひとつ、凍った木。


 一緒に、蛍を見に行こう。


 あの約束からもう三年が経った。

 学校の近くには蛍の名所と呼ばれる神社があるけれど、私はこの三年間一度も行っていないし、あいつは一度だって私を誘ってくれなかった。

 いっそ、あれは子供の戯れで果たされることはないのだと、あいつの口から聞くことができたなら。

 楽になんてなれないまま、私は三度目の夏に臨んだ。




「御影」


 耳慣れた声に振り返ると、幼馴染の藤原がこちらに向かっていた。


「どうしたの?」


「今日、夏祭りだろ。大学は別々になるだろうから、今年は最後の花火だ。だから、その……」


「……一緒に見たいって?」


「今年くらい、俺と一緒に行ってくれてもいいだろ」



 わかっている。冬には受験が控えていて、次の夏は違う場所で迎えることになる。

 それでも。


「……ごめんね。やっぱり私、花火には行けないよ」


「どうして」


「だって、花火を見に行ったら、蛍も見えちゃうじゃない」



 蛍は、約束だから。



「早い時間にお参りだけ行くから。藤原は花火、楽しんでね。なんたって、ここで見られる最後の花火なんだから」



 私にとって、蛍は花火よりもずっと尊く、意味のあるものだった。



「お前、まだ引きずってんのかよ」


 まさに、苦虫を嚙み潰したような顔の幼馴染に、思わず笑みがこぼれる。



「引きずってるんじゃない、大事にしてるの」


 思った以上にとげのある言葉を吐く自分の声に驚いた。存外私も、気にしているのかもしれない。



「みをつくし恋ふるしるしにほたるまつ

 契りきなとぞそでをぬらしつ」


「え?」


「辛いからって、忘れたいわけじゃないってこと」



 そう言って、私は教室を後にした。



 引きずってる、だって。つくづく男は馬鹿だと思う。


 大切な人を忘れることができないのは、その人が自分の心の中に部屋を作っていたからだ。たくさんの想いを費やして、大きな部屋を作り、我が物顔で居座るからだ。もちろん、それが嫌なわけじゃないし、こちらはそれを受け入れる。あわよくばひとつの部屋で、ひとつの時間を過ごす。

 それで、その人がいなくなったら。

 大きな部屋にぽつんと一人、何をすればいいのか。その人と過ごした日々を思い出して、記憶をなぞって、それ以外に、何ができると言うのだろう。


 大切な人を忘れたくないのは、その部屋で孤独になるのが怖いからだ。だから大切に、胸にしまって、いつでも取り出せるようにしておく。




 今年も私は、蛍を見ない。

 あいつが目を覚まして、一緒に蛍を見に行こうと誘うまで。


 蛍は約束で、私の願いだから。







 蛍を見ないまま、あいつが眠って三度目の冬が訪れた。私は何年だって、待つことができた。蛍がいたから。きっと目覚めると分かっているから、三年なんて短いもので。



 下校中に会ったあいつの母親と、他愛もない話をしながら歩く。


「御影さん、大学はどこにするの?」


「あんまり離れるといけないから、県内で進学しようかなって考えてます」


「それでやりたいこと、できるの?」


「もちろんですよ」


「そう……なら、いいんだけど」



 三年前の冬。樹霜がスノードームみたいに光る朝。

 あいつは長い眠りについた。


 いつ目覚めるかわからないと聞いたとき、何も言えなくて。

 昨日電話で話した声だけが、繰り返し鼓膜を蝕んでいたのを覚えている。



「目、早く覚めるといいですね!」



 別れ際、努めて明るく笑った。


 次の日、あいつの心臓は凍った。





 指先で触れた頬は、あの日の空気みたいに冷たかった。

 あーあ、結局約束破っちゃったのね、薄情者。自然と笑みがこぼれた。涙を流してはいけない。彼の頬が凍ってしまう。


 あの日、泣き喚いて言えなかった言葉を、今日はちゃんと持ってきた。

「おやすみ、いい夢を見るのよ、薄情者」



 その日私は、東京への進学を決めた。あいつはきっと自分が枷になってるとかなんとか、馬鹿なことを考えたに違いない。


 地元の蛍には二度と会えない。三途の川に蛍はいるだろうか。私は何度も我慢したのに一人で先に行って見るなんて、ずるいにもほどがある。


 待ってなさい。ちゃんと夢を叶えて、その勘違いを正しに行ってやる。




 そしたら一緒に、蛍を見に行きましょう。

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短編集 硝子の海底 @_sakihaya

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