南天レオくん、釣りをする。

遠影此方

第1話 魚心に釣り心

うんとこしょ。どっこいしょ。

やっぱり魚は釣れません。

「当然ですよね。引っ張っても、ついて来てくれるとは限りません。」

ここは波止場。

あの街からバイクで三十分で着く海の岸辺です。もちろんぼくはバイクの免許なんて持っていませんから、誰かに連れてきてもらうまで、この存在さえ知ることは有りませんでした。知らなかったのはどちらでしょうか。波止場なのか。海そのものなのか。もしかしたら、両方なのかもしれません。カモメが飛んできて、ぼくの麦わら帽子を時折物珍しそうに見つめてきます。青いリボンが不思議なのでしょうか。

「ふふん。残念でしたね。これはお姉ちゃんから、ぼくへのプレゼントなのです。」

波止場では人通りも少ないらしいので、ライオン尻尾も好きに伸ばしていいらしいです。田舎町って素敵ですね。あの街も素敵ですけど、なんだか伸び伸びできるというか。たまに戻ってきたいくらいの長閑さです。

ぼくはシリウスお爺さんから譲り受けた釣り道具を持って、意気揚々とこの波止場にやってきたのでありますが、それは釣りの練習をするように、とシリウスお爺さんにお仕事を依頼されたからです。お魚が釣れたら忘れずに写真に撮って残して、シリウスお爺さんのスマホに画像を添付して、メールで送信するようにと、仰せつかったのです。

だから、シリウスお爺さんを喜ばせたいがためにこうやって小一時間ほど踏ん張っているのです。しかし、お魚さんはぼくの垂らした釣り餌にかからないばかりか、本当にいるのかわからないくらいに、その存在を匂わせてもくれないのです。ぼくはシリウスお爺さんの釣りの秘訣その一、叶えたいことは黙って叶える、に従って、じっと身じろぎ一つしないで我慢の子でした。ライオン尻尾の端っこの毛一本にまで注意を怠りません。海はその水面を上に横にと揺れ動き、ぼくのこの集中を逆撫でします。太陽の光がキラキラと反射して、セミの鳴き声が頭の中で大合唱です。

「おい、レオ。集中するのは良いけれど、ちょっと気を詰めすぎじゃねーの」

その時でした。ぼくの頬にいきなり冷たい何物かが当てられて、氷じゃないかと驚かされたのは。

「冷たい!」

「もちろんだ。冷たくないと、今は意味がないからな」

押し当てられたのは、ペットボトルに入った飲料水でした。乳酸菌が入っているらしいそれは、見た感じは牛乳に似たような色をしています。牛乳の匂いも味もせず、どちらかと言えばヨーグルトに近い味らしいです。ヨーグルトを彷彿とさせる名前がついています。

都会では色無しのヨーグルトっぽい飲料が売っていて、怪訝に思いました。なんで透明にしなくちゃいけないのでしょう。そのことをペットボトルを押し当てた犯人に話すと、犯人は休日だからと伸ばした無精髭を触って答えます。

「透明じゃないと、叱られることでもあったんじゃないか。今思えばおかしかったんだよ。奇妙だった。あんなに小さいことに怯えていたなんてさ。色がどうとか関係ないのにさ。」

彼の名前はシュウヘイと言います。

ぼくを釣りに連れ出した共犯者の一人です。どうしてか尋ねても、名字は教えてくれません。サッカーとやらが得意らしいです。ボールを蹴ったり追いかけたりする遊びであり、チームワークが何よりも大事な遊びだそうです。彼の少し長い黒髪には若白髪が数本紛れています。虹彩は深いブラウンです。

「それよりも、どうだ。レオ。収穫はあったか。」

「まだです。うんともすんとも。箸にも棒にもかからない。」

「そうか。それは忍耐だな。」

「忍耐あるのみです。」

「シリウス爺さんは、別に魚を釣り上げてこいとは言ってはいないぞ。」

シュウヘイの言う、その言葉にいつもハッとさせられますが、しかしすぐに気を取り直します。

「これはぼくの目標なのです。」

「シリウス爺さんからのクエスト内容とは違うのか。」

「違いますよ。ぼくだけの小目標というやつです。」

そのときです。足音がもう一つ、ぼくとシュウヘイの近くにやってくるのです。

「俺には大目標に見えるぜ。だって釣りは今日初体験なんだろう?」

にしし。そう言って笑うのはケンゴです。ぼくはなんとなく振り返って、背後の彼の姿を見ます。

「『俺の背後に立つな』って目をしているな。流石ライオン尻尾だ。野生のカンか。」

「ごめんなさい。後ろに立たれると、怖いです。」

「死角、いや、盲点だからか?」

死角と言ったケンゴにシュウヘイは少し目配せして、ケンゴはすぐに言い換えました。

盲点。誰もが持っている。一人では決して見えない視点。ぼくが、以前のあの街では決して持たせてもらえなかった観測点。

「良いですよ。死角でも。ぼくは命に関わりましたから。」

シュウヘイは僕の返答にため息を吐きます。ケンゴはほっとしたような息を吐きました。短い黒髪が帽子にすっぽり隠れて見えません。紫の虹彩が帽子の影から見えます。

「そういえば、目の色はそう簡単には変わらないらしいな。」

安心したらしいケンゴは、シュウヘイに向けてか、ぼくに向けてか、そんな話題を振ります。ぼくはまた手にした釣り用具に向き直り、釣りを再開します。

「目の色か。」

シュウヘイはそう返します。

「そう。人間の目の色というか、観点というか。ハナエが言うなら、パースペクティブって言う奴か?」

「先入観。あいつはそう言ったと思う。」

「いやー、英語が出てきちまったよ。頭の良さが滲み出たなあ。」

ケンゴはにしし、と笑います。

「次のテストは赤点回避だといいな。お前の赤ペン先生になるのは毎度のことだから慣れている。」

「シュウヘイ。いきなり、現実を突きつけるなよな。折角の小旅行なんだから。」

「小旅行。」

ふと、そんな言葉が声に出ます。

そんなこと思ってもみなかったからです。旅行。いつもいる場所や住み慣れた場所から離れて、懐かしいところや、期待に胸膨らませながら飛び込む見知らぬ地に飛び込む冒険行為です。シリウスお爺さんはハワイに行ってしまいました。親戚の方とお話があるらしいのです。ぼくのこれが小旅行ならば、彼のそれは大旅行でしょうか。楽しそうに話していても、そこから流れる言葉は、何だか緊張感が漂っていました。ぼくは心配になって泣き出してしまいました。親戚の方とする話には間違いなく、この街に、いえ、この日本に彼がこれからも残るか否かの局面も含まれているように感じたのです。大丈夫だ、とシリウスお爺さんは、ぼくの頭を撫でてくれました。お土産を持って絶対に帰ってくるぞと、そう答えてくれたのです。シリウスお爺さんがなぜハワイのアロハシャツを着ていたのか。ぼくはその理由をなんとなく、その大旅行に向けた覚悟にあったかのように、合点がいったのです。そして、シリウスお爺さんはぼくに宿題と、釣りの秘訣と、釣り用具を手渡して、海の向こうへ飛び立って行きました。太陽ともスイングバイをして、戻ってくるとも。ぼくはシリウスお爺さんの言葉を信じることにしました。

「本当は義理孫の姿を見せたくてしきりだったと思うぞ。あの爺さん、気づいていないだろうが相当の子煩悩だ。」

ケンゴはそう言います。

「義理孫。」

「ギリギリ孫って意味だ。自分の懐を目一杯広げて、お前を難なく迎え入れたんだろうよ。」

「おいおい。義理人情の孫とは言えないのか。」

シュウヘイは呆れてそう言います。

「子子孫孫とも言うだろう?」

「ししそんそん?」

「獅子孫孫。ライオンマゴマゴ。」

「いらんことを言うな。」

ライオンマゴマゴ。まるで魔法の呪文みたいです。

「名言だと思うんだけどなあ。ライオンマゴマゴ。」

「好きですよ。ライオンマゴマゴ。」

「レオ。お前、ケンゴのギャグがわかるのか。」

シュウヘイは驚いたような声を出します。

「マゴマゴ!」

「マゴマゴ!!」

ケンゴは嬉しそうにマゴマゴと叫んだので、ぼくはそれに続きます。

「マ、マゴマゴ。」

シュウヘイはちょっとノリが悪そうでした。


「ノリ」というか言葉はユウコさんから学んだ言葉でした。『いい。レオくん。オタク言葉ってのはね。友達を増やすことにも使えるけど、不用意に使うと「ノケモノ」にされちゃうのよ。』何故かユウコさんはぼくに力説して、何故かお姉ちゃんに睨まれていました。秋葉原という魔境には行ってはいけない。その日の夜に、お姉ちゃんと約束を交わしました。指切りゲンマンをしました。嘘をついたら針千本は怖いので、ライオン尻尾の毛百本一度に抜くにしました。聞くからに痛そうでした。


『君が行きたいって言ったら、私は多分止められない。姉ライオンとしてまだまだ甘いのね。』お姉ちゃんはそう言って、ふんと、気炎を鼻から吹きました。最近のお姉ちゃんは蒸気機関車のようです。なんだか大仕事を目の前にしているようでした。


「にしても。不思議だよなあ。あいつの実家がこんな近くにあるなんてさ。」

「そうだな。弟が増えたことを、一体どう説明するんだろうな。」

「俺はわからないわ。上手く言いくるめられる気がしない。」

「ケンゴの家族はみんな強情だからな。俺はかなわん。」

「シュウヘイの家族はちょっとそっけないんじゃないか。息が詰まりそうだ。」

「でも、俺の姉ちゃんはおしとやかだなあ。」

「俺の兄ちゃんは、甲斐性だ。」


シュウヘイとケンゴの家族の話を聞いていると、ぼくも、ぼくの家族のことを思い出します。森の奥に置いてきてしまった雇用主さんのことを、思い出してしまいます。大獅子さん。ぼくの王様。ぼくは王様の言いつけを破ってしまいました。お姉ちゃんはそのことを話すと、早く言え、と怒りました。もっと良い方法ができたかもしれないじゃん、と悔しそうでした。


『君は謝る必要なんてないのよ。ギャフンと言わせるべきはあの王様なの。理由は伏せるけど、お説教の一つでもやらなくちゃ、気が治まらないわ。だから、約束通り森の中へは行くわ。もちろん、レオくんも一緒よ。私の勇姿、見てもらいたいからね。』


お姉ちゃんはそう言ってくれました。ぼくは最近泣き虫になりました。蝉がどうしてあんなに煩く鳴くのか。そのわけがちょっとだけ分かったような気がします。


「おいレオ!釣竿!」

「へ?」

シュウヘイがぼくの釣り具を指差してそう叫びました。ぼうっとしていたぼくは急に現実に連れ戻されて、そして驚きました。釣り竿がいきなり重くなって、ぼくは身を乗り出していたせいで、海に落ちそうになっていたのです。

「言わんこっちゃねえ!」

ケンゴがぼくの腹を両腕で抱え込みます。そうして波止場の方に、引き寄せるのです。

「リール!引け、いや、回せ!」

「はい!」


シリウスお爺さん直伝の秘訣その二の発揮です。

一度捕まえたら離さない、諦めない。


シュウヘイの言葉に弾かれるようにして、ぼくはリールを回します。


「馬鹿!逆だ!」

「はい!」


逆回しにします。馬鹿と言われたイライラから、回す手に力が篭ります。


「お前結構重いのな!だがもうちょいじゃねーか!気張れ!」


ケンゴがぼくを抱えながらそう呻きます。


その時でした。

波しぶきを上げて、鏡面を突き破るようにして、ぼくの浮餌にかかったそれは、シュウヘイやケンゴや、とうとうぼくの目の前にも、その姿を現したのです。


「釣れた!」


夕暮れになり、波止場に歩いてくる人影があります。人影は三人です。


「どう。レオくん。収穫はあった?」

お姉ちゃんはそう意地悪そうに聞いてきます。シリウスお爺さんにはもう成果として送信してしまいましたから、もう隠し立てはできそうにありませんでした。

ぼくは、クーラーケースの中に入れたその成果物をお姉ちゃんと、ハナエさんと、ユウコさんに見せることになりました。


三人はそれを見ると笑い出しました。それだけでなく、釣られるようにして、それまでぼくと同じように沈痛な顔つきをしながら、慰めてもくれた二人も笑い出したのです。


「みんな、ひどいですよ!」


「ごめん。レオくん。これは最高だよ!」


「初めてにしては、出来すぎているくらい上出来だね」


「お腹がよじれる!」


「ごめん!レオ!無理だった。」


「ほっとすると笑いって出るもんなんだよ!」


シリウスお爺さんも携帯の電子メールの返信に笑顔の絵文字をつけていた。もしかして、親戚の方と笑っているのではないだろうか。

ぼくは恥ずかしくなって、その成果物をクーラーケースごと波止場から、蹴り飛ばし、海の中に落としたのです。


だって、お魚じゃなくて、黒いゴムの長靴だったのです。しかも片方だけ。


「あーっ!もったいない!」

「皆さんが笑うからいけないんです!お仕置きです!」


その時でした。

胸につけた、ライオンの紋章が輝いて、何故かぼくの姿は変身を遂げました。


ライオン紋の王子様になったのです。


「どうして。」


それに、頭の上に、麦わら帽子以外に何か乗っている感触がします。ぼくは青いリボンの麦わら帽子を取り除けました。


みんなは、それを見てあんぐりと口を開けていました。


なんだか少し重い、それでも小さな感触が、ぼくの頭の上にあります。


写真に撮られるフラッシュの一瞬で、ぼくは目を瞑りました。すると、変身は解けてしまいました。


ユウコさんが写真に撮って、寄ってくるとそれを見せてくれたのです。


夕焼けに映ったそれは、小さな、夕焼けと見紛うくらいの赤く、金色に輝く王冠でした。


「王様がくれたのよ。」


お姉ちゃんがそうぼくに言いました。


ぼくは最近、泣き虫です。


とっても、とっても、泣き虫です。

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