後編
5.ハーバー・ボッシュ法を実現するメリット
ハーバー・ボッシュ法は一義的にはアンモニアを生成するための手段なのですが、それを化学プラントとして実現し稼働する過程で得られるメリットは非常に大きく、それが戦国時代にもたらされれば歴史的特異点になることは確実で、創作においてはこれだけで短編が作れたり長編のみどころとして描けたりするんじゃないかなと言う感じですね。
作者が思いつくメリットとしては次のとおりですが、他にもなにかあるかもしれません。
・有用な副産物が多い
ハーバーボッシュ法ではアンモニアの他にも生成過程の副産物としてコークスや硫黄・硫酸、コールタールなどが得られ、排熱を使ってお湯を沸かすこともできます。
特に石炭を乾留してできるコークスは、石炭よりも高温で燃焼して発生する有毒ガスが少ないため燃料として優秀で、現在でも製鉄や金属精錬に欠かせないものとなっています。
・反応による化学合成の技術を確立できる
ハーバーボッシュ法は高温高圧下で触媒を用いる平衡反応を利用した化学合成の手法が広く網羅されていて、ガスと触媒を研究すれば幅広い物質の化学合成に利用することができます。
・高温高圧を扱う機械装置の製造・運用に関する研究を積み重ねられる
圧力容器、バルブと配管、レシプロコンプレッサ、温度計・圧力計を組み合わせてコンプレッサの入力(クランク軸の回転)と出力(ガスの圧縮)を逆転すれば蒸気機関になり、ピストンの中で燃料を爆発させれば内燃機関になります。
また、ガスの圧縮と膨張を密閉したサイクルで行い熱交換するとヒートポンプになります。
ハーバー・ボッシュ法のプラントを実現する過程でえられた研究成果を用いれば、これらの歴史的に重要な発明と実用化を短期間で行うことができるでしょう。
・金属加工の技術が大幅に向上する
前述した技術要素の実現するために試行錯誤を積み重ねることと、燃料にコークスを利用できるようになることで金属加工の技術レベルを体系的に順序立てて向上することができるので、実用段階のプラントが完成する頃には物理的に困難な鉄の切削と溶接を除いた基本的な金属加工のほとんどができるようになるのではないかと思います。
6.技術的課題
今まであたかも容易に実現できるかのように書いてきましたが、もちろんそう上手くいく訳はなく、現実においては産業革命を経た技術水準でも実現にかなりの苦労をされたようで、創作などに取り入れる際に仕組みや作り方を羅列して
「○○が一晩でやってくれました」
「さすが○○!」
「え? 俺またなんかやっちゃいました?」
みたいな登場のさせ方をすれば読者さんからのツッコミが殺到することは間違いありません。
そこで、ちゃんと読者さんが納得してくれるように技術的に困難な点(ツッコミどころ)を洗い出してフォローしたいと思います。
6-1.圧力容器、配管の制作
戦国時代の金属加工の技術で圧力容器に求められるサイズ、気密性、強度を満たすものを作ることが、まずは大きな課題となるかなと思います。
材質は青銅、もしくは鉄(粗鋼)で、加工手段は鋳造か自由鍛造(火造り)になります。
鋳造は砂などで作った型に溶かした金属を流し込んで冷やし固めて形を作る方法で、量産には向きますが薄いものを作るのが難しく強度は低くなります。
自由鍛造は熱して柔らかくした金属の塊をハンマーで叩いて形を作る方法で、刀を作るのにおなじみの方法ですね。こちらは強度の高いものが作れる代わりに熟練技術が必要で手間がかかり、複雑な形状の物や大きな物は作れません。
作者のアイデアは二つを組み合わせたもので、まずは鋳造で小さく肉厚で大まかな容器の形を作り、それを自由鍛造で引き延ばして最終的な容器の形状を作るというものです。
容器の形状としてはボウルのようなフランジ(鍔)を持つ半球状の部品を二つ作り、フランジ部分にガスケット(パッキン)をはさんでボルトで接合した球体の容器で、吸気口と排気口として片方ずつの容器の底に穴をあけて管を鍛接したものなら作れるかなと思います。
このアイデアの良いところは容器の大きさに合わせた球状の窪みを持つ金床を用意すれば比較的容易に同じものを作れることと球体なので強度を確保しやすいということですね。
配管も同様に筒状に鋳造したものを鍛造で引き伸ばしてフランジを鍛接すれば作ることができます。
工業系に詳しい人ならここで「戦国時代にはボルトもガスケットもないけど、そこはどうすんの?」と疑問に思うはずですので、後の項で解決したいと思います
6-2.ガス漏れの防止
高温高圧のガスを扱う中で問題になるのが1にも2にもガス漏れです。よくスチームパンクの映像作品で配管などからブシューと蒸気が漏れている描写がありますが、あれは圧力に耐えられずガス漏れを起こしているのですね。
ガスの圧力は一つの空間の全体に同じだけ掛かるので、圧力が高くなると必然的に配管や圧力容器の接合部など耐圧性が低く隙間のできやすい部分からガス漏れが発生することなります。というわけで接合部の強度と耐圧性を十分に取り、隙間ができにくいように工夫する必要があるわけです。
一般的に行われているのは配管や前項で書いたとおり、容器の接合部にフランジを設け、ガスケットを挟んでボルトで接合する方法です。
ガスケットは配管などの接合部に挟んで変形させることで隙間を埋めてガス漏れや液漏れを防ぐもので、簡単に言えば水道のパッキンと同様のものです。接合部が動く場所に使うのがパッキン、固定した接合部に使うのがガスケットです。
素材は現在ではゴムや繊維の複合材料、高温高圧で扱うものには銅などの柔らかい金属を板状にしたものを使います。
戦国時代で作るなら比較的低い圧力では和紙にコールタールなどの粘性の高い液体を染み込ませて積層したもの、高圧では現在と同様に銅か錫や鉛など柔らかい金属を使うのがいいんじゃないかと思います。
6-3.ネジの加工
圧力容器や配管の接合にボルトを使うほか、バルブやコンプレッサにネジ切り加工をする必要があります。
ご存知の方も多いと思いますがネジの加工ってすごく厄介なんですね。本当か嘘かはわかりませんが、火縄銃を日本で初めて複製しようとした鍛冶師さんが尾栓のボルトの作り方がわからず、西洋の技術者に娘さんを差し出して聞き出したという逸話があったりします。
現在ではネジには国際工業規格が規定されていてタップとダイスという専用の道具を使ってネジ切りを行うのですが、当然戦国時代には存在しませんし作ることもできません。
世界に目を向けると、歴史的にもネジが広く作られるようになったのは16世紀以降で、簡易的な旋盤を使った手作業で作られ、お互いに組になるボルトとナットの対でしか噛み合わないというものでした。
作者もできればネジを使いたくなかったのですが、そういうわけにも行かず、どうにかネジを作る方法を考えなくてはいけなくなってしまいました。
そうして色々考えた結果、素材は切削加工や精密な鋳造が容易な青銅製で、径10〜20mm程度、ネジ山もピッチも1ミリ程度とかなり大きく粗いものなら作れるかなという感じですね。
まずはボルトですが、木を削って雄ネジの原型を作り、それを型に鋳造してできた青銅製のボルトのネジ山を更に削って精度を高ることで完成です。
ナットや雌ネジの方はどうしてもタップを作る必要があります。軸と平行に走る溝を持つ雄ネジの原型を使って鉄製の雄ネジを作り、そのネジ山を削って精度を高め、溝のフチにネジ山が当たる刃の部分を仕上げれば、青銅のネジ切りくらいならできるタップが出来上がります。これをボルトの径より少し小さい穴にねじ込めば雌ネジが切れるという仕組みです。
ネジの加工は本作の趣旨とは違いますし、実際に作れるかどうかは試さないとわからないので細かくツッコミを入れられると困ってしまうのですが、創作として読者さんをある程度納得させられる程度のリアリティは持たせたつもりです。
6−4.バルブ、コンプレッサの制作
バルブやコンプレッサは摺動部に高温高圧のガスを通す必要があり、いかにガス漏れを防ぐかが課題となります。『技術的要素と考察』の項でも書いたとおり、課題を解決するために具体的にどんなものを作るかを書くのは難しく、試行錯誤や研究の積み重ねが技術レベル向上に寄与しますので、課題と解決の手がかりになる情報をサラリとまとめるに留めておきます。
本作の提案するボールバルブは配管を接続する本体の中にガスを通す穴の空いたボールを収めたもので、ボディから外部に出したハンドル軸からボールを回してバルブの開閉を行うというものですので、本体の内壁とボールの隙間ができるだけ小さくなめらかに精度よく仕上げ、本体から外部に貫通するハンドル軸からガスがもれないようにパッキンを工夫しなければなりません。
レシプロコンプレッサについてはシリンダとピストンの摺動部からのガス漏れを防ぐのが第一の課題で、現実にはピストンの外周に二条の溝を彫ってそこに金属製のリングを取り付け、二つのリングのあいだをオイルで満たすことでガス漏れを防ぎつつピストンをなめらかに動作させるようになっています。
第二の課題は吸排気口の逆止弁を構成し強度と気密性を確保することですね。
弁の開閉に必要なコイルばねは炭素鋼を針金状にして熱した状態で整形し、そのまま焼入れをすれば作ることができます。
7.プラントの実現
プラントの実現は一朝一夕にできるものではなく、試行錯誤を繰り返しながら段階的に必要な技術を確立し、最終的に多くの知見を得て実用段階に至るものだと思います。
本作では試作段階、試験段階、運用段階の三段階に分けてプラントを改良しつつ、その過程で課題となる要素、副次的に得られる周辺技術をまとめてみました。
7−1.試作段階
何もない状態からハーバー・ボッシュプラントを作り出す段階です。
期間は2年以内、温度と圧力はかなり低く(と言っても十分危険なレベルですが)効率的な化学反応は行えないでしょう。コンプレッサは低圧だし微妙な調整が必要になるので人力が良いと思います。反応状況を見るため各プロセスで行うガス洗浄を開放容器(ただの桶)で行い、水上置換でガスを集めて次のプロセスへ移るという方法でプラントを稼働させます。
課題としては各資材の安定した入手、プラントの各要素の制作と改良、反応がきちんと行える条件の確認、安全で効率的なプラント稼働の手順化です。
副次的に得られる周辺の技術はコークスを使った製鉄や金属加工技術、アンモニアを効率的に肥料化する堆肥化施設の整備、あとは排熱の利用です。硫黄分を含むお湯を大量に作れるので副業で温泉などを経営しても創作的に面白いかもしれません。温泉回は大事ですから。
期間:1〜2年
温度・圧力:200℃ 15気圧
圧力容器・配管の素材:青銅
コンプレッサ動力:人力 プラント方式:開放サイクル・断続運転
生産性:低い
課題:
・金属材料、触媒、石炭の入手ルートの確立
・圧力容器、配管、バルブ、コンプレッサの製造・改良
・各プロセスごとの反応状況の確認
・プラント稼働の手順化
周辺技術:
・コークスを使った製鉄、金属加工技術
・アンモニアの効率的な堆肥化、堆肥化施設の整備
・排熱利用
7−2.試験段階
試作段階でプラントの各要素の改良が進んで安定的にアンモニアが生成できるようになれば、次は試験段階です。ここで研究実験と改良を繰り返し実用的な生産性で稼働できるプラントを実現させます。
期間は3年程度、この間に鋼鉄の加工技術を向上させてプラントを鉄製に置き換え、プロセスの温度と圧力を上げていきます。
プラントは全プロセスを気密状態で稼働する密閉サイクルで行えるように改良し、各プロセスを個別に行う断続運転から全プロセスを同時に連続して行えるよう圧力容器やコンプレッサの容量を最適化します。コンプレッサも人力から水力に切り替えていきます。
周辺技術として、この段階で製鉄所を操業し、簡易的な工作機械を作れるようになればロマンがあっていいですね。
堆肥化施設で硝石ができ始めている頃なので取り出して火薬を生成することができます。
期間:2〜3年
温度・圧力:250℃ 40気圧
圧力容器・配管の素材:青銅→鉄
コンプレッサ動力:人力→水力 プラント方式:密閉サイクル・断続運転
生産性:ほどほど
課題:
・鋼鉄の加工技術の向上
・密閉サイクルでのプラントの稼働、プロセスの高温高圧化
・各プロセスの圧力容器とコンプレッサの容量の最適化
周辺技術:
・製鉄所の操業
・簡易的な旋盤など工作機械の開発
・火薬の生成
7−3.実用段階
試験段階の成功を経て、このハーバー・ボッシュプラントもとうとう実用段階に入りました。これから水力を使って連続的にプラントを稼働させて効率よくアンモニアを生成することができます。ここからさらに持続的に改良し、安全性と生産性の向上を図ることになるでしょう。
この頃には大量の合成肥料を供給できるようになり農作物の収穫量は大幅に増加、温泉は美少女たちで大繁盛し、森林伐採することもなく大量の鋼鉄と火薬を備蓄していることでしょう。
そして今までに培った技術で鋼鉄の大量生産ができるようになり、蒸気機関を開発するための基礎技術も取得しました。プラントの構成と触媒、原料を変えればアンモニア以外の化学物質も生成できるようになります。
期間:1年〜
温度・圧力:300℃ 90気圧
圧力容器・配管の素材:鉄
コンプレッサ動力:水力 プラント方式:閉塞サイクル・連続運転
生産性:高い
課題:
・安全で効率的なプラントの稼働、経済性の向上
・プラントの継続的な改良
・精度の良い温度計圧力計の開発
周辺技術:
・鋼鉄の大量生産
・蒸気機関の開発
・アンモニア以外の化学物質の生成
8.おわりに
なんとも都合よくロマンのあふれる話になりましたが、産業革命の時代ではこのように一つの技術から連鎖的に他の技術が発展していくことは特に珍しいことではありません。
以上、創作上でではありますが、戦国時代にハーバー・ボッシュ法が実現できることがわかりました。
現実ではこんなに上手く行くはずはなく、かなりの苦労と期間が掛かることになるでしょうが、それでも全く不可能な話ではないと思います。
本作は皆様の創作の参考になるように執筆しましたので、ここで登場した情報やアイデアは自由に使っていただいて構いません。皆様の作品にもハーバー・ボッシュ法を登場させてみてはいかがでしょうか?
戦国時代にハーバー・ボッシュ法が実現できるか考察してみた 藤屋順一 @TouyaJunichi
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