私の白

ものほし晴@藤のよう

私の白

 塩の壺に思いきり手を差し入れて一掴み、引き抜いたあとに残った、くぼみの底のような場所に私は暮らしています。

 空の青や雲の灰色が谷に蓋するほかには目の届く限り、白しかありません。私はその谷底を、ぱきり、ぱきりと歩いています。底を硬く頑丈にした真っ白なブーツで、大昔の人々が捨てて行ったという、貝を踏んでいるのです。真っ白な貝を踏んで粉々に砕いていくのが、私の仕事です。ぱきり、ぱきり、ぱきり、貝の砕けていく音と、足元に広がる白。これが私の世界です。

 その日、私の世界にざっくざっくざっくざっくと、異質なものがやって来ました。音のしたほうを見やると、夜の闇のように黒い人が立っていました。目が慣れると、それは黒ではなく、昔よく見た、いろんな色だということがわかってきます。

「……白をお求めなら港です」

 私は言いつけられたとおりに声を出しました。数年に一度くらい、この谷に迷い込む人があるのです。

「いえ、僕は、あなたのお仕事を見学に来たんです」

 聞こえてきたのは貝を砕く音よりずっとお腹のまんなかに響く声でした。男の人です。言いつけられた言葉しか用意が無かったので、私は立ち尽くすほかありません。なにか気の利いた事を言えばいいのでしょうが、思いつかず、声も出なかったので、私はそのまま、いつものように貝を踏み歩き始めます。男の人が私の後を追うのがわかりました。

 ぱきり、ぱきり、ぱきり、ざっくざっく、ぱきり、ぱきり、ぱきり「いてっ」ぱきり……。

 私は振り向きました。男の人は片足をあげて靴の裏を覗き込んでいます。私が立ち止まったのに気づいて、

「すみません、靴に貝が刺さっただけです。あなたは平気なんですか?」

 と言いました。私がなおも何も言えずにいると、

「そりゃ仕事だものな、その靴は特別製なんだ」

 そう言って納得して、また歩き始めました。私もまた、貝を砕き始めます。


 太陽が山に隠れて、その影が私の行く手を覆い尽くすころ、私の仕事は終わります。男の人は、私と同じ方向へ帰るようでした。

「仕事の邪魔をしちゃあいけないと思って言いませんでしたが、僕は絵描きなんです。良い白を作る現場が大層美しいと聞いて、交易船に乗せてもらいました」

 ここで作られた白を運ぶために、年に数回船が来るのは知っていました。私もそれに乗ってこの島に来たからです。

 私の住む石造りの作業場は、私が足で砕いた貝の欠片をさらに砕いて、粉にする場所です。女の人たちが石のすり鉢でごりごりごりごりと砕いていきます。ずっと昔からこのやりかたで、白を作っていると聞きました。私がここに来るより前に一度、なにか大きな音の出るもので貝をすりつぶして粉にしたことがあるそうですが、せっかくの白がくすんでしまい、このやりかたに戻ったんだと、いつも料理を作ってくれるおかみさんが言っていました。

「次の船が来るまで、お世話になります」

 画家の人は、しばらくここで白ができるのを見学するのだ、と言いました。

「それにしても、どこもかしこも真っ白だ」


 その晩、一日で体中を染めてしまう白い粉をお湯で落とした後、自分の部屋に戻る途中で、画家の人がおかみさんに怒られているのを見ました。

「あれだけカキ壺に入るなと言ったでしょう。あれはあのくらいの娘が踏むんじゃないとだめなんです。うんと重いといけない。白の質を落としたら、うちは何百年という信用を失うんですからね」


 おかみさんに怒られたからか、次の日画家の人は私の仕事場へ来ませんでした。私はいつものように、ぱきり、ぱきりと貝を踏んで一日を終えました。

「昨日はすみませんでした」

 夕食の席で画家の人が私のそばへやってきて、そう言いました。

 私はやっぱり言葉が出ず、小さく頷く事しかできません。

 その時気付いたのですが、画家の人は分厚い紙の束を携えていて、はみ出した紙に描かれていた人物が、おかみさんにそっくりで、私の目は釘付けになりました。

「そっくり。おかみさんだ」

 今まであれだけ言葉が出なかったのに、言葉が口をついて出て行きます。

「ほかにも何か描きましたか?」

 画家の人は紙の束を開き、ぱらぱらとめくって見せました。港、私たちの住む作業場、私の仕事場を囲む山々、すり鉢を使う女の人たち、どれも私の見ているのと同じ姿で、すこしだけ茶がかった紙に、鉛筆の黒い線で縁取られています。絵ということは、手を使って描かれたということで、手というものは、こんなふうに線を引くことができるものなのかと、私は興奮しながら絵を眺めてゆきました。その夜私は咳が止まらずになかなか寝付けなかったけれど、毛布にくるまりながら、何度も画家の人の絵を思い浮かべて楽しみました。私たちの作る白は使われていなかったな、と思った次の瞬間には、深い眠りに落ちていました。


 私たちがみんなお休みの日。画家の人が、私にモデルを頼みたい、と申し出てくれました。

「依頼されている絵があるのですが、あなたがモデルにぴったりなんです」

 私は喜んで引き受けることにしました。作業場の一角、細長い窓から少しだけ光が差し込む、なんてことのない場所で、私はおかみさんから借りた空の籠を抱えて立ちました。

 画家の人は私の前に腰かけて、鉛筆をかざしたり目を細めたり、紙に大きく腕を動かしたかと思えば指先で小さく鉛筆を操りました。

 私はその姿が新鮮で、しばらく面白がって見ていましたが、ふっと、私が見られているのだという当然の事実に気付いてしまい、緊張が肩や頬を硬くさせていきました。

「疲れましたか?」

 画家の人は尋ねましたが、私はぶんぶんと頭を横に振り、それを見た画家の人は少し目を細めて笑い、また紙に目を落とし腕を動かすのでした。

 私の身体も服も、お湯で落とし切らないくらい白が染み込んでいるので、私に鉛筆の黒の線で描きとれるほどの輪郭があるのかどうか、心配になりました。画家の人にそれを尋ねると、「ここのような薄暗い室内では、あなたのかたちが、くっきりと見えますよ」と答えるのでした。続けて、私の仕事場のような真っ白で明るい場所ほど、私の姿は掴みにくく、最初に出会った時も、近付くまでは人がいると思っていなかった、と言いました。


 私たちの作った白を買い、次に島に来た船で、画家の人は帰って行きました。私はその日もいつも通り、ぱきり、ぱきりと貝を踏んで砕いて行きました。ぱきり、ぱきり、ゴホッ、ゴホゴホッ、ぱきり、ぱきり。最近では私の世界に、私の咳の音が混じります。肺が軋み、背中が痛みましたが、以前から言われていた通りでした。

 時が経つにつれ私の咳はどんどんひどくなり、仕事に行けない日もありました。島には新しい女の子がやってきて、私は私の仕事をその女の子に教え始めました。私が島に来たころに使っていたブーツは、女の子にぴったりでした。女の子の肌はいま、焼き立てのパンのように輝いています。この肌もやがて、ここで生まれる白に染まってゆくのだと、私は思いました。ぱきり、ぱきり、ぱきぱきぱき、ゴホッ、ゴホッ、ぱきり、ぱきり、ぱきぱきぱき……。

 それからしばらくして、とうとう自力で起き上がれなくなった私は一日の多くを床につき、いつか画家の人が描いた絵を思い浮かべて過ごしました。彼の動かす腕のスピードを思い出し、黒の線が生まれていく瞬間を妄想するのです。でも、そこにあるのはすこし茶がかった紙と、鉛筆の黒い線だけ。白はありません。私は私がモデルになったという絵を見ることができませんでしたが、それよりも、なによりも、画家の人が私たちの作った白をどのように使うのか知れなかったことを残念に思いました。


 衰弱した私を見て、画家の人はとても驚いた様子でした。青ざめて、私の床に駆け寄ると跪き言いました。

「どうしてこんなことに。医者は何て言ってるんです」

「お医者さんはいないんです」

 私は答えます。

「そんな。早く診せないと」

「その必要はないんです。私の終わりの時なので」

 そこまで言って咳が止まらなくなり、痛む背中を丸めていると、背中に暖かい掌が触れました。彼がさすってくれているのでしょう。

「終わりだって?そんなはずあるか。元気ならあと三倍は生きられる」

 彼はとても穏やかに話す人だと思っていたけれど、こんな風に強く言葉を投げる事もあるのだと、そのとき知りました。

「そういう約束なんだよ」

 そう言って、私の部屋に全身白く染まった女の子が入ってきました。私から引き継いだ、貝を砕く仕事を終えて帰ってきたのです。私の部屋は彼女と共同でした。

「あたしたち、村の口減らしなんだもの。死ぬまでここで働く約束なんだよ」

 彼女はそう言って自分の湯浴みの道具を持ち、ひとつ言い残して部屋を出て行ってしまいます。

「貝踏みは一番早く死ぬんだって」


 谷に吹き込む潮風に煽られて貝の一番細かい粉が舞い、私たちはそれを毎日吸い込むので、どんどん肺が悪くなっていくのだと、私がこの島に来た時に、今の私と同じように弱り果てた女の人に聞きました。

「ばかな。この島を出た方がいい」

 彼は眉をぎゅっと顰めて言いますが、行く当てもない私にはどうしようもありません。

 沈黙が続きました。そこで私は長らく考えていたことを彼に言ってみることにしたのです。

「私はもう一人では歩けないので島を出ることはできないけど、私たちの作った白が、あなたの絵の中のどこに眠っているのかを、一度でもいいから、見てみたいです」

 彼は私の目をまっすぐに見て、下唇を噛み黙っていました。そして俯き、しばらく何かを考えているようでしたが、お大事に、と言って立ち上がり、私の部屋を出て行きました。

 それから次の船が来るまでの間、彼は毎日私の部屋へとやってきて、その日描いたものを見せてくれました。彼は鳥や猫をそれは生き生きと描くのでした。私はそれが楽しみで、毎日もう船なんか来なくていいのに、と思いながら眠りにつきました。

 それでも、船のやってくる日は来てしまいます。


 その晩、明日の朝出航する船の事を思うと寂しくて、肺ではない胸がぎゅっと苦しくなり、私はなかなか寝付く事が出来ませんでした。

 同室の女の子も眠れないようで、床についてはいるけれど、眠っていないのが気配で感じ取れました。いつも眠る前消すろうそくも、灯がついたままです。ゆらゆらとした灯を眺めていると、女の子が突然立ち上がり、私の方へやってきました。そして、驚く事に、私を毛布でぐるぐる巻きにしてきたのです。想像もしていない出来事に、私は声が出ませんでした。

「ねえさん、あたしはここで死ぬ気はないから」

 女の子はそう囁くと、ぐるぐる巻きになった私を置いて、ろうそくを持ち、どこかへ行ってしまいました。

 身動きがとれないでいると、暗闇に人の気配を感じました。

「僕です。少し堪えてください」

 お腹のまんなかによく響く、彼の声です。彼は私を毛布ごと抱きかかえると、部屋を静かに抜け出しました。

「はやく」

 女の子の声がして、彼は足を速めます。私にはほとんど見えませんでしたが、女の子が扉を開けて押さえているのだと思いました。

「ありがとう」

 彼は女の子に声を掛け、

「さよなら」

 女の子は私たちに言いました。私は心の中で、女の子に、作業場に、おかみさんに、白いブーツに、あの白い谷に、さよならと言いました。

「絵が完成したんです。それを伝えに、ここへ来たんだ」

 彼の腕の中で、私はいつの間にか眠ってしまいました。




 彼の住む街は、私には賑やかすぎました。彼におぶってもらいながら見た街並み、人、商店の看板、見たことのない果物、たくさんの色が私に襲い掛かります。街に来てからも、私の身体はあまり良くなりませんでした。彼がお金をかき集めて呼んでくれたお医者さんも、「自然の多いところで療養するしかないですな」と言って帰って行きました。色に疲れてしまうので、私は一日の多くを目をつぶって横になっていました。それでも、目を開けたとき、彼が絵を描いているところを見ることができて幸せでした。


 私の調子が少し良くなり、支えられて歩くことができた日、完成した彼の絵を見に行くことになりました。それはお金持ちの人が依頼した絵で、お金持ちの人の大きなお屋敷の中にありました。お金持ちの人は快く私たちをお屋敷の中へ招いてくれました。色に溢れたお屋敷で、青や赤のほか、きんきらに光る装飾がなされ、私は色を浴びるのに疲れて目をぎゅっと瞑って彼の腕にしがみつきながらお屋敷の中をゆっくりと歩きます。

「つきました」

 彼が立ち止まり、私が目を開くと、一枚の絵が目の前にありました。

 私はずっと、それは白い絵なのだろうと想像していて、目の前の絵を見ておやと思いました。薄暗い部屋、籠を持ってぎこちなく笑みを浮かべる女の姿。私のかたち。でも、どこも白くなんてなかったのです。服も着たことのない赤いドレスで、空だったはずの籠の中には溢れんばかりに果物が詰まっています。私は、白は他の色と混ざり合っているのかもしれないな、と思いました。

「ごめんなさい、私は絵に詳しくなくて。どこに白が使われているか、教えてくれますか?」

 彼は私に優しく微笑みかけると、すっと手をあげて、絵を指差しました。

「ほら、ここです」

 そう言った彼の指のさき、まるで眠っている子猫を起こさないように絵の中を指差したその先を、私は見ました。私に微笑みかけている私。その目の輝きを見ました。ふたつの瞳にそれぞれひとつずつ、ちいさな光。

 ああ、会いたかった。

 私の白。

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