温室

白川 小六

きみは温室の中にいる

 温室には、たくさんのハチドリがいて、彼らの大好きな蜜をたっぷりと蓄えた赤い花が咲き乱れている。

 南米の熱帯雨林を模した木々が密生し、ドームの天井に届きそうなヤシの樹冠からは、凝結した水蒸気がぬるいしずくとなって落ちてくる。オオハシや派手な色のオウムは梢を飛び回り、極彩色の蘭や大型のシダは地表を覆う。それに、様々な小型の哺乳動物達とカエルや蜥蜴とかげや魚達。宝石のような昆虫類だってちゃんといる。

 動植物のいくつかは合成されたものだが、きみには見分けもつかないし、そもそも本物かどうかなんて、きみは気にしない。

 吐く息がそのまま雲になりそうなほど湿度は高く、苔むした地面を裸足で歩いても、かかとは柔らかいままだ。

 滝のように豊かな黒髪だけを身に纏い、チョコレートの木と同じ色の肌をして、緑の中を駆けまわるきみは、今まで地上で描かれたどんな絵にも負けないくらい美しい。きみ自身も、きみの友達の鳥や獣達も、そんなことは夢にも思わないけれど。

 きみの焦げ茶の瞳は常にくるくると動き、この小さな世界の中で起こることを一つも見逃すまいと見張っている。


 温室の中央には泉があり、その脇にぽっかりと口を開けた洞窟には、きみ専用の寝床がある。アナグマ達が枯れたふかふかのシダを敷き詰めて作ってくれたものだ。黒い目をキラキラさせたアナグマ達は布団の役も買って出て、眠るきみの足元を温めてくれる。


 きみは朝起きるたび、透き通った泉で泳ぎ、それから岸辺に座って、好きなだけブラジルナッツやベリー類、バナナ、チェリモヤなんかを食べる。木の実や果物の中には総合栄養食の模造果実も混ざっているが、やっぱりきみは全く気にしない。

 食事中、決まって膝の上に乗ってくる草食化されたコドコドには、木に絡みついたマタタビの蔓から、実をちぎり取って食べさせる。コドコドは木登りが得意で、本当は自分でマタタビを採れるのに、甘えてきみの手から食べたがるんだ。


 朝ごはんを食べ終わると、膝の上のコドコドはさっき起きたばかりだというのに、喉を鳴らして昼寝を決め込む。きみは少しの間コドコドを起こさないようにじっとしているけれど、すぐに退屈して足を伸ばし、泉の水をパシャパシャとはねかす。コドコドはびっくりしてきみの膝から飛び降り、しぶきのかかった体をブルっと震わせ、恨みがましく一言ニャアと鳴いた後、念入りな毛繕いにとりかかる。

 きみが笑い声を上げると、頭上でオウム達が真似をする。まるであちこちの木の上にたくさんのきみがいるみたいに。きみは上を向いて逆にオウム達の一番激しい雄叫びを真似てやる。オウム達はトサカを立てて叫び始め、しばらくの間とても騒がしい。きみはまた笑って、それから、四方八方に広がる小道の一つを駆け出す。どの道を選んだっていい。どれを辿ってもゆるやかな螺旋を描きながら同じ場所に着くのだから。


 ほどなく、小道は温室と外界を隔てる分厚いガラスの壁に突き当たる。ガラスは白く曇っていて、結露した滴がいく筋も流れ、足元で煌く小川となる。きみはガラスを手で擦り、小さな覗き窓を作る。額を冷たいガラスに押し当てて覗くと、外には雪が降っている。雪は激しく吹雪いたり、チラチラと舞ったりする。温室は失敗したスノードームみたいだ。外側は雪だらけで、内側に全世界がある。

 雪の向こうの空は大抵暗くて灰色で、だけどほんの時たま雲の合間にちらりと青い空が見えることもある。運が良ければ、雲を貫く光の筋が雪原に届く様子や、おかしな濁った黄色や紫に染まる雲を見ることもできる。そして、本当にすごく運が良くて、それに、きみが眠いのと寒いのを堪えて、暗くなってからも窓に張り付いていれば、雲間に星座の一片や、月を見ることもあるだろう。

 でもきみは幼いし、そんなに我慢強くもないから、大抵はすぐに殺風景な外を見飽きて、また温室の中のお気に入りの場所へと駆け出していく。


 コモンマーモセットの家族は寒いのが苦手でガラスには近寄らず、きみが温室の内側に戻ってくるのを首を傾げて待ちかねている。きみはマーモセットを肩と頭にたくさん乗せて、蔓のブランコを高く高く漕ぎながら、不思議な歌を歌う。

 オウム達を驚かせようと、きみが作ったその歌は、たちまちオウム達に真似されて繰り返し繰り返し歌われるうちに、だんだんと節が変わり、奇妙な大音量を束ねたうねりとなってクライマックスを迎え、突然終わる。終わった後も長いこと耳が変で、ハチドリ達の羽音がまた聞こえるようになるまで結構な時間がかかる。

 きみはマーモセットを真似して、木をつたって次の遊び場所へと移動する。マーモセットと同じにはできず、時々どうしても地面を踏まなくちゃならないけれど、きみはそんな風にして、温泉を訪ねる。気持ちよさそうにお湯に浸かっているカピバラの一族が、きみに撫でてもらおうとぞろぞろと上がってきて、きみはとても忙しくなる。


 毎日が楽しく過ぎていく。温室の中には悲しみも苦しみも無い。そこにあるのはヒトという種全体がきみに向けた愛だけだ。きみはたった一人だけど、誰よりも誰よりも愛されている。

 やがて果実が熟すようにきみは大人になり、きみの中に眠っていた娘個体が出芽して、きみのお腹は膨らみ始める。きみは洞窟の寝床で寝てばかりになり、アナグマ達が運んでくれる果物を食べる時以外は、ずっときれいな色の夢を見ている。

 お腹は膨らみ続け、月は満ちて、ある日とうとう新しいきみが生まれる。赤ん坊のきみはアナグマに母乳をもらい、元気な泣き声をあげ、手足をばたつかせてどんどん大きくなる。一方で古い方のきみは二度と目を覚まさない。アナグマ達は古いきみを洞窟の奥の部屋に運んで土をかぶせ、きみは歴代のきみと同じように温室の植物達の貴重な養分となる。


 きみがそうやって何度も何度も世代を交代するうち、温室の壁と天井を形成するガラスドームは、地中から吸い上げたケイ酸塩を取り込んで、少しずつ少しずつ成長し、大きくなる。植物はますます生い茂り、動物も個体数を徐々に増やしていく。

 残念なことに古いきみから新しいきみへの記憶は引き継がれないから、きみは温室が——きみのその世界が——次第に大きくなっていることには気がつかない。ただ、オウム達が歌う不思議な歌をいつかの夢の中で聞いたような気がするだけだ。コドコドは……、コドコドは全てのきみを知っている。それからマーモセットとカピバラの家族も。


 温室の直径が元の一・四倍になると、やっと変化が訪れて、きみの中で出芽する娘個体は二つになる。きみは双子を産む。双子はどちらもきみだけど、片方は男の子だ。それからは何もかももっとずっと楽しくなる。二人のきみにはお互いのことが手に取るようにわかるから、言葉なんていらないが、もちろんきみ達は面白いゲームのようにして簡単な言葉を作ってかわし始める。新しい言葉が生まれるたび、オウム達が喜んでそれを繰り返す。

 最初は一箇所を除いて瓜二つだったきみときみが成熟すると、二人はもうそれほど似ていないことに気づく。きみはもう一方のきみを見て、初めて恥ずかしいような嬉しいような叫び出したくなるような苛立たしいような落ち着かない気分になる。二人のきみは寝床の上で一つになり、男の子のきみは男の子を、女の子のきみは女の子を一人ずつ産む。きみ達は生まれるたびにオウム達から言葉を習い、それを間違って使い、そうやって新しい言葉が増えていく。


 きみ達は、毎朝連れ立ってガラスの外を見にいく。窓の向こうの雪はもうそれほど深くない。ガラスのすぐ外側には、土の地面が細く見えている。

 やがて、雪の代わりに雨が降り出す。雨は降ったり止んだりを繰り返し、雲には今までよりずっと切れ間が多くなる。二人のきみは、やっと雲の向こうにある酷く眩しいものの顕な姿を見ることができる。きみ達はその眩しいものをきみ達の新しい言葉で「太陽」と名付ける。

「太陽」は日毎に鮮明さを増し、雲はもう空の半分しか覆わない。雪はすっかり溶けて辺りは水浸しになり、水は少しずつ引いて、剥き出しの大地が現れる。ガラスの壁は前ほど曇らなくなり、外の様子は刻々と変わるので、きみ達は毎日ガラスに両手と鼻を押しつけて、外ばかり眺めるようになる。


 そして、温室の中より外の方がずっと明るいと感じるある朝、二人のきみの目の前でガラスに切れ目が入り、音もなく外に向かって扉が開く。

 きみ達は感じたことのない風を感じ、嗅いだことのない匂いを嗅ぐ。

 雪解けの水はきっと何もかもを押し流してしまうから、きみ達の目にはかつて地上に起きた恐ろしいことの痕跡は何一つうつらない。きみ達の前には完璧に新しい大地が広がっている。きみ達はお互いにしっかりと手をつなぎ、恐る恐る外へと踏み出す。

 時間はいくらでもある。ゆっくりとやればいい。空っぽの新しい世界で、きみ達は何もかもを新しく始める。


(了)

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