第28話 1階

 僕が家の玄関を開けると、キッチンからいい匂いが漂っていた。

「おかえりー。遅かったね」

 母さんが夕飯の支度をしていた。コンロにかかっている鍋から、湯気が立ち上っている。

「ごめん。連絡するの忘れちゃって」

「一樹にしちゃ珍しいじゃない。気をつけてよ」

「うん」

 僕は手を洗うと、もう手伝うことがなさそうだなと思いながらも、流し台の横に立っていた。母さんが見えるところにいたかった。

「なーに? そんなところで」

「なんとなく」

「成沢くん家に行ったんだっけ。楽しかった?」

「うん」

「春菜ちゃんもいたんでしょ。大友さん」

「うん。妹の桜ちゃんと一緒だった」

「元気そうだった?」

「う、うん」

 大友さんたちが、お母さんから虐待を受けていたこと、母さんに相談した方がいいだろうか……。僕はその夜、母さんの顔を見るたびに何度も自問自答した。何度も口から出かかったけど、やっぱり勝手に報告することはできなかった。

 もしも帰り際の大友さんが悲しそうだったり、辛そうな顔をしていたなら、僕は迷わず母さんに助けを求めただろう。でも、大友さんは笑っていた。へーきへーきと言って、笑顔で手を振って別れた。

 やっぱり、彼女には彼女の考えがあるのかもしれない……。

 本人に会って確認しよう。僕はそう決めた。大友さんは携帯やスマホを持っていないし、家の電話番号なんかも知らないから、会って直接聞くしかない。彼女と桜ちゃんのことを周囲の大人に話してもいいかどうか、きちんと聞いてみよう。

 そう決めた僕は、母さんに何も話さなかった。それでも気になってはいたので、夕食のときにこんな質問をしてみた。

「母さん、大友さんのお母さんと仲良かったの?」

 母さんは口をモゴモゴさせながら、ちょっと考え込んだ。

「うーん、すごく仲良かったわけではないんだけど……ただ、ほっとけない感じかな。何ていうか、子供っぽい人でさ」

「ふーん」

 子供っぽいってどんな感じだろう。嫌なことがあるとすぐ叩く、とかかな。それじゃ子供というより幼児だ。

 夕食が終わると、僕は部屋にこもって亮ちゃんに電話をかけた。亮ちゃんにだけは、どうしても話しておくことがあった。

『おっ、どうだった!? 100フィートの塔、上って下りたか!?』

 案の定、亮ちゃんはすごく嬉しそうに電話に出た。

「うん」

 今日のことを何て伝えたらいいだろう、と悩みながら、僕はそう答えた。

「あのさ亮ちゃん、亮ちゃんだから話すんだけどさ……変なことはあったよ」

 そう打ち明けると、電話の向こうが急に色めき立った。見えていなくても、これは雰囲気でわかる。

『マジで!? どんな!?』

「ごめん。実はあんまり話したくないんだ」

 こんなこと言って、亮ちゃん怒るかな……と一瞬思ったけれど、亮ちゃんは『そっか』と返事をしただけだった。

「亮ちゃん。もし100フィートの空っぽの塔を見つけてもさ、絶対試したら駄目だよ。異界って全然いいところじゃなさそうだし」

『そっかぁ。一樹がそう言うならしょうがねーなぁ~』

 信じているのか信じていないのかよくわからない口調だったけれど、とにかく亮ちゃんはこれ以上、僕に異界探検のことを尋ねなかった。僕たちは月の裏側に何があるのかを話し合い、他愛もない冗談を言い合って電話を切った。


 その夜、僕はひさしぶりに、母さんの部屋に予備の布団を持ち込んだ。本当は手をつないで寝たいくらいだったけれど、さすがに気恥ずかしくてやめた。

「どういう風の吹き回しよ」

 そう言いながらも、母さんはなんだか嬉しそうだった。

「たまにはそんな気分なんだよ」

「そうだね。たまにはいいね」

 母さんの顔を見ながら、もしも母さんに冷たくされたらすごく辛いだろうな、と僕は思った。大友さんがすぐに周りの大人に相談できなかった気持ちがわかる気がした。

 大友さんと桜ちゃんはきっと、お母さんと引き離されてしまうのが怖かったんだと思う。どんな痛い目に遭わされても、お母さんのことをすぐには嫌いになれない気持ちが、僕にも何となくだけど想像できる。

 でもその果てに、異界に逃げ込もうとした大友さんのことを考えると、僕は心がバラバラになってしまうような気がした。

 僕は『アドゥネイア呪文集』に異界から戻ってくる方法が書かれていなかったことを思い出す。あれはわからなかったからとか、書くのを忘れたからじゃなくて、必要がないから書かれていなかったんじゃないだろうか。「元の世界に戻りたくない」と願った人しか、異界に行くことはできないのだから。

(でも、だったら……どうして大友さんは元の世界に戻ってきたんだろう)

 僕がそこまで考えたとき、母さんが部屋の電気を消した。僕は暗闇を見なくて済むよう、すぐに目を閉じた。

 体は疲れていたらしく、睡魔がすぐにやってきた。

 幸運なことに、夢は見なかった。


 次の日は日曜日だった。昨日と同じようによく晴れていた。

 いてもたってもいられなくなって、僕はひとりで大友さんの家に向かった。

 家の場所は母さんに聞いた。運よく、母さんは今日は午前休で、家の場所を教えてくれる暇があった。入院している患者さんがいるから、総合病院は年中無休だ。

 僕は母さんに、大友さんの家を教えてもらう言い訳をするために、昨日屋上で撮った集合写真をプリントアウトしておいた。手ぶらだと何となく行きにくいし、大友さんのお母さんにも、多少は不審がられずに済むだろう。

「まだお母さんの実家に住んでるはずだから、どこの家かはわかるよ」

「ありがとう。早めに昨日撮った写真を渡したくてさ」

 母さんは意味深に「ふーん」と言いながら僕の顔を見た。

「春菜ちゃん、ちょっと一樹にはもったいないんじゃないの?」

「うるさいな。変なこと言わないでよ」

「冗談冗談。迷惑かけないようにしなさいよ」

「わかってる。都合悪そうだったらすぐ帰るから」

 大友さんの家は、住宅街の奥にある古い一軒家だった。二世帯住宅らしく、1階と2階にそれぞれ玄関があって、表から2階に直接行けるよう下から階段が伸びている。母さんによれば、大友さんはこの家で、桜ちゃんとお母さんと3人で暮らしているらしい。

 門扉のチャイムを鳴らすと、少しして2階の窓が開いた。

「あっ、竜野くん」

 大友さんが僕に手を振る。

「どうしたのー?」

「ごめん、ちょっといい? 昨日の写真渡したくて」

「わざわざ来てくれたの? とにかく上がってよ」

 大友さんに案内されて、僕は2階の玄関から家の中に入った。大友さんのお母さんが子供の頃から住んでいた家らしく、日に焼けた壁紙のあちこちに小さな破れがあった。それを隠すように、小さな子が描いたらしい絵が何枚も飾られている。桜ちゃんや、昔の大友さんが描いたものだろうか、と僕は思った。

「桜ちゃんは?」

「昨日疲れたみたいで、まだ寝てる」

 大友さんは苦笑した。

「そっか。無理もないよね」

 僕は通されたリビングを軽く見回した。今のところ、家の中に大人がいるような気配はなかった。

 ふと、エアコンが稼働していないことに気付いた。ランプがついていないし、吹き出し口も閉じている。それにしては家中が妙に涼しかった。

「えっと、お母さんは? 仕事?」

 また「デートだよ」と言われるかな、と思ったが、大友さんはニッと笑った。

「1階にいるよ」

 たったそれだけの言葉なのに、僕はなぜかひどく不穏な気配を感じた。全身がぞわっとして、腕を見ると鳥肌が立っていた。

(私、異界に行ってよかった)

(ふふふ、ひみつ)

 大友さんの声が、僕の脳裏に蘇った。


 そのとき、僕たちの足の下から、何か重いものを引きずるような、ズルッという音が聞こえた。


〈了〉

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異界探検 尾八原ジュージ @zi-yon

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