第27話 大友さん

 暖かいな、と思った。

 はっと気づくと、僕はトイレの床にへたり込んでいた。僕の隣に、ナルが同じように座り込んでいる。見回すと、奥でアキが、桜ちゃんの上にかぶさってうずくまっていた。

 ドアの向こうに「門の花嫁」の姿はなかった。換気用の小さな窓から、明るい日差しがトイレの中に差し込んでいる。

「夕焼けじゃねーじゃん」

 ナルが気の抜けた声で言った。その瞬間、アキがガバッと起き上がった。

「おい! 寒くない! 寒くないよ!」

 桜ちゃんも顔を上げて、「ほんとだ」と呟いた。

「ここって元の世界なのか?」

 まだ信じられない、という顔をして、ナルが僕に言った。「そうだタツノ、携帯!」

 僕はポケットからキッズ携帯を出して画面を見た。電波が届いている。

「電波来てるよ!」

「マジかよ! なんで!?」

 そのとき、トイレのドアがコンコンと叩かれた。すりガラス越しに人影が現れた。

「わっ!」

「ひっ!」

 全員が飛び上がった。またコンコンと音がした。

「おーい。開けてよー」

 聞き覚えのある声がした。

「おねえちゃん!」と明るい声をあげて、桜ちゃんが立ち上がった。


 トイレの外にいたのは、やっぱり大友さんだった。

 顔を見た瞬間、頭のてっぺんから靴までじろじろ眺めてしまったが、怪我をしている様子はなかった。さっきまで一緒にいた彼女と、何も変わっていないように見える。

「お、大友さん、大丈夫?」

 おずおずと聞くと、大友さんは「全然大丈夫! 何ともないよ」と明るく答えた。

「それより外に出ようよ。埃臭いし、蒸し暑くなってきちゃった」

「ああ、うん……」

 キツネにつままれたような気分で階段を下りた。床についていたはずの、赤黒い帯のような汚れは消えていた。2階のガラス戸の向こうにはもう誰もいない。1階は暗闇でも異界でもなんでもなく、入ってきたときとまったく同じロビーだった。

 僕たちは来たときと同じように、ビルの裏口から外に出た。よく晴れた初夏の日差しが眩しく顔を照らす。2、3歩歩いたところで、ナルがハッと気づいて駆け戻り、裏口に鍵をかけた。

 通りは明るかった。藤崎町第一ビルは最初に見たときと同じく、古ぼけた外観を太陽の下に晒していた。

『……アジサイ通り商店街ラジオ、続いてのコーナーは本日のお得情報です! まず最初は「靴のナイトウ」からのお知らせ……』

 さっき待ち合わせた商店街から、商店街ラジオの平和な音声が流れてくる。スーツにワイシャツ姿の男の人が、額をぬぐいながら歩いていく。竹刀を背負ったジャージ姿の女の子たちが、にぎやかに話しながら雑貨屋の店頭を冷やかしている。

「おいマジか! 外じゃん! ここ外だよ!」

 ナルが叫んだ。スーパーのエプロンをつけたお姉さんが、自転車で僕たちの横を通りすぎながら、「この子たちどうしたのかしら」とでも言いたげな視線をこちらに向けていった。

 僕たちはしばらくビルの前につっ立って、辺りの光景をただ見ていた。何もかもが目に染みるほど懐かしく思えた。

 今日起こったことは、全部夢だったんじゃないだろうか……ついさっきまであのビルの中にいたはずなのに、早くもそんな気がし始めていた。

「なぁ大友さん。あのさ……」

 恐る恐るという感じで、アキが尋ねる声が聞こえた。

「大友さん、1階に行ったんだよな。その……どうだった?」

 大友さんは腰にくっついている桜ちゃんの頭をなでながら、にっこりと笑って答えた。

「うん、いっかいに行ったよ」

 そのとき、大友さんの「いっかい」の言い方は、「いかい」と極めて似ていて、僕には彼女が「1階」に行ったのか、「異界」に行ったのか、それともそれは同じ意味なのか、よくわからなくなってしまった。でも、彼女の様子があまりに朗らかだったので、「もう一回言って」と言いそびれてしまったのだ。ナルもアキも、桜ちゃんも、なんとなくその先を聞くのがためらわれる、という感じで、半分は困ったような、そしてもう半分は嬉しそうな顔をしていた。

「竜野くん」

 そのとき突然名前を呼ばれて、僕はビクッとなった。

「はい!」

「竜野くんの従兄のひと……亮ちゃんって言ってたっけ? その人の言う通りだったね」

 大友さんはクスクスと笑った。

「異界のことは、異界で聞けばよかったんだよ」

 そう言うと、今度はぱっと切り替えるようにナルの方を向いた。

「成沢くん、ちょっとお願いがあるんだけど」

「な、なに?」

「あの魔法陣の紙、私にくれない?」

「へ?」

 いいでしょ、と言うと、大友さんは見惚れるような笑顔を見せた。


 時計を確認すると、まだ3時にもなっていなかった。僕たちは顔を見合わせた。

「解散には早いよなぁ」と、ナルが言った。僕たちもうなずいた。ひとりぼっちになりたくない気分だった。

 僕たちはなんとなくナルの家に行った。お茶やお菓子を出してもらい、皆でゲームをしたりして過ごした。

 誰もあのビルで起こったことは話さなかった。普通あんな大事件を経験したら、そのことを皆で話したくて話したくてたまらなくなるはずなのに、今はそんな話をしてはいけない気がしたのだ。こんな明るい日の下では、あのときのことはもう考えたくなかった。思い出したら記憶してしまう。あのことを鮮明に記憶してしまったら、僕はもう暗い部屋では眠れなくなるだろう。

 とにかく普段通りに、明るく楽しく過ごしたかった。

 ナルは複数対戦ゲームでアキに集中砲火を浴びせ、アキは「倍返しだ!」と言いながらコントローラーを捨ててナルの脇腹をくすぐった。その隙に僕が2人のキャラクターを攻撃して勝利し、大友さんが「これが漁夫の利だね」と言って、桜ちゃんと一緒に笑った。

 オセロもやった。桜ちゃんは1年生なのになかなか強くて、僕は正直ちょっと冷や汗をかいた。大友さんはもっと強くて、僕とナルとアキは彼女の前に敗れ去った。

 そのうち時間が経って夕方になり、僕たちはそれぞれの家に帰ることになった。

「大友さん、家に帰って大丈夫なのか?」

 ナルが心配そうに尋ねると、大友さんはニコッと微笑んで「うん、大丈夫」と答えた。

「本当に大丈夫? だって……」

「へーきへーき! じゃ、また学校でね!」

 不安げに見上げる桜ちゃんとしっかり手をつないで、大友さんは帰っていった。

 もう太陽が西の方に沈みかけていた。僕たちはいつの間にか空を見上げていた。

「夕焼けって、そんなに赤くないな」

 アキがボソッと呟いた。ナルが「やめろや」と言った。

「あっ、僕もこっちだから!」

 急に大友さんたちが気になった僕は、ナルとアキと急いで別れると、ふたりを追いかけた。幸い、すぐに追いつくことができた。

「途中まで一緒に行こうよ。暗くなってから女子2人だけじゃ危ないし」

「ありがとう。でも平気だよ、ほんとに」

 大友さんは僕に笑いかけながら「竜野くん、本当にありがとう」と言った。

「へっ、な、何が?」

 そのときの大友さんがあまりに美人だったので、僕は思わずドキドキしてしまった。

「私、異界に行ってよかった」

 大友さんはそう言うと、斜め掛けにしたカバンをポンポンと叩いた。そこにはカナヅチと、ナルにもらった魔法陣の紙が入っているはずだった。

「な、なんで?」

「ふふふ」

 大友さんは少し首を傾げて言った。

「ひみつ」


 その時一瞬だけ、彼女の顔が全然知らないひとみたいに見えた。

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