後編
「君のG線上のアリアは美しい」
ベンはいつもそう言って、感嘆のため息をもらした。ベンはドイツの建築家だと言っていた。
ベンとは生き残った人たちと交流するサイトで知り合った。僕がバイオリニストだと言ったら、「ぜひ、弾いてほしい」と頼まれたのだ。
だから、週に1回ぐらい、スカイプでバイオリンを弾いてあげた。
ベンは時には涙を流しながら、力いっぱい拍手してくれた。
毎回、G線上のアリアをリクエストされた。なんでも、奥さんと初めて行ったコンサートで聞いた思い出の曲なんだそうだ。
5年後に外に出たら、きっと多くの建物は住めなくなっているだろう。だから、自分がデザインした新しい建物を建てるんだ。そのために、デッサンを描き溜めているのだと話していた。
「君の家も僕がデザインしてあげるよ、ジュン」
ベンは朗らかに言った。
でも、3か月ぐらい経つと、ベンは無口になって、やつれていった。
「僕には君ぐらいの歳の娘がいたんだ」
ある日、ポツリと言った。
「そう。娘さんは?」
「亡くなった。あのウィルスにやられてね。妻も亡くなったよ」
「そう……」
「一人で広い家に暮らしていても、つまらないんだ。最初は、建築史をゆっくり学べるし、いろんなデザインにチャレンジする時間を持てるって思ってた。だけど」
ベンは悲痛な面持ちでため息をつく。
「なんで、僕は選ばれたんだろう……」
ある日突然、ベンとは連絡が取れなくなった。ベンからも電話がかかってこないし、こっちからコールしてもつながらない。
マイケルに話すと、悲しそうな表情になった。
「この生活に耐えられなくなった人が、あちこちで脱落してるそうだ」
「脱落って?」
僕の問いにマイケルは答えなかった。
「まあ、どんなことがあっても、僕らはレッスンを続けよう。じゃあ、バイオリン協奏曲の第1楽章から始めようか」
***************
バイオリンを持って外に出ると、すでに暗くなっていた。どこかでフクロウが鳴いている。
僕は、昔演奏会の時に着ていたスーツを着ようとしたが、背が伸びて入らなくなっていた。仕方なく、白いシャツと黒いチノパンでごまかすことにする。
草むらには、僕の姿が映るようにタブレットをスタンバイしてある。月明かりで、そこそこ明るい。
スカイプをつけると、「やあ、みんな。そろそろ開演時間だ。準備はいいかな?」とマイケルが声をかけた。
マイケルは髭をそり、髪を整え、タキシードに身を包んでいた。どこかの広場に出ているらしい。マイケルの後ろに見えるのは自由の女神だろう。
「アメリカはそろそろ夜明けだ。みんなのところは?」
「私のところはお昼よ」
チェロを構えたレイチェルが答えた。レイチェルは真っ赤なドレスを着ている。
「僕のところは夜だよ」
「こっちは真夜中」
「うちも朝よ。霧がすごいの」
みんな、口々に答える。
「いいね。これから、世界中に響くように僕らの音楽を奏でるんだ」
マイケルは譜面台をタクトでコンコンと叩いた。
「さあ、僕らの演奏を世界中の人が待っている。この演奏は、今この瞬間、世界中に生配信されるからね。今日、ここから、我々の新たな世界は始まるんだ。いいね?」
僕はバイオリンをかまえた。大きく振り上げたタクトが振り下ろされるのと同時に、弓を滑らせる。
G線上のアリア。
僕は第一バイオリンだ。
***************
「純、お前が選ばれたんだ」
パパは涙を堪えながら言った。
「お前のバイオリンは後世に残すべきだって、世界オーケストラ協会が全会一致で決めたらしい。すごいことだよ、ホント。パパは誇らしいよ」
「そしたら、うちはみんな生き残れるってこと?」
「いや、お前だけだ」
ママは耐えきれずに、パパの背後でワッと泣き出した。
パパとママは僕が感染しないよう、部屋の外から話しかける。
「どういうこと?」
「生き残れるのは、選び抜かれた1000人だけなんだ。その1000人の家族は含まれてないんだ」
「いやだよ、そんなの。僕も残る。ここに残る」
「いや、ダメだ。お前は生きなきゃいけない」
「だって、パパもママも一緒じゃないんでしょ? 僕一人で生きてる意味なんてないよ」
「意味は、あるよ」
パパの眼から、涙がとめどなく流れ落ちる。
「お前が生きていたら……それだけで……パパとママは、この世に生まれてきた、意味がある。純が……パパとママが、この世に生きた、証、なんだ」
言葉を詰まらせながら、パパは言う。
ママは床に泣き崩れた。
「純……お願い。パパとママの分も生きてっ……お願いだから」
僕は泣いて泣いて泣いて、パパとママと一緒にいたいとねだった。
でも、翌日、政府から迎えの車が来て、防護服を着た人たちに、僕は無理やり車に乗せられた。その人たちは、僕の荷物とバイオリンケースを黙々と運んで、トランクに入れる。
「毎日、スカイプで連絡するからね」
ママは泣きながら僕の手を握ろうとした。
「ダメです。感染するかもしれないから、触らないで」
防護服を着た人は、冷たく遮る。
「せめて、せめて、最後に1回だけ。純を抱きしめさせて!」
ママは防護服の人にすがりついて頼んだ。
「もう防護服がないんですよ。あきらめてください」
「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから」
「ママ!」
車のドアは無情にも閉められた。
「純!」
パパとママは窓に手をついた。
僕もガラス越しに二人の手に、自分の手を合わせた。
「元気でな。バイオリン、毎日聞かせてくれよ」
パパは涙でぐしゃぐしゃになりながら、懸命に笑おうとしていた。ママはもう、吠えるように泣いていて、何もしゃべれない。
僕はワンワン泣くだけで、「さよなら」も「元気でね」も言えなかった。
それが、パパとママを見た最後の日だ。
施設に移ってからも、スカイプでやりとりしていたけれど、二人はいつしかウィルスに感染してしまって――。
1年後、僕はホントに一人ぼっちになった。
***************
僕らは、数えきれないほど、絶望してきた。
これ以上ないほどの苦しみも、悲しみも、全部全部、味わってきた。
涙なんて、何百回流したのか分からない。
涙が枯れるなんて、ウソだ。何も感じなくなるなんて、ウソだ。
幾千の夜を泣いて過ごしても、あの幸せな日々は忘れられない。
もう戻らないって分かっていても、まるで昨日のことのように、僕の中では繰り返し繰り返し、再生される。
バイオリンの音色が、夜空に高く高く吸い込まれていく。
気が付くと、草むらで無数のライトが点滅している。
――ホタルだ。
ホタルは点滅しながら、一斉に舞い上がった。
バイオリンの音色に合わせて、踊るように、歌うように、夜空の星に溶け合うように、無数のホタルは野原を飛び交う。
そのうちの2匹が僕のまわりを飛び回る。僕のバイオリンを聞くのを待っていたかのように。
――ああ。そうだ。最後の夜。パパとママに弾いたのも、この曲だった……。
何人の人が生き残ったんだろう。1000人よりも多いのか、少ないのか――。
画面の向こうで、みんな泣いているんだろうか。
笑顔になった人はいるだろうか。
みんな、どんな想いで、この空を見上げているんだろう。
世界にひとかけらの希望が残っているなら、僕はそのためにバイオリンを奏でよう。
僕は、バイオリンを弾く。
昨日までのことを忘れないために。
明日から顔を上げて、生きていくために。
ホタルの輪舞曲(ロンド) 凪 @nagi77
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