ホタルの輪舞曲(ロンド)
凪
前編
ガチャ。
鍵が開く音がして、僕は驚いて振り向いた。
その扉の鍵が開いたのは、5年ぶりだ。
恐る恐るドアノブに手をかけて、回してみる――開いた。
ドアをゆっくりと押し開く。とたんに強烈な日差しが僕を包み込む。まぶしすぎて目を開けられない。
鼻をつくのは何の匂いだろう――そう、草の香りだ。土の香り。そして、甘い花の香りも。
僕はゆっくりと目を開けた。徐々に目が慣れていく。
そこに広がるのは、腰まで伸びた草が生い茂る野原と、木々が鬱蒼と茂る森。足元には花が咲き乱れ、鳥のさえずりも聞こえる。
見上げると、青い空。5年ぶりに見た青空だ。
僕はそっと足を踏み出す。
地面を踏んで歩くのも5年ぶり。しばらく、野原を歩き回りながら、全身に伝わってくる感触を確かめていた。
今まで、ずっと屋上のドームから、ガラス越しに眺めてきた外の世界。日差しのまぶしさも、むせるような草いきれも、もう忘れてしまっていた。
***************
ふと、家から着信音が聞こえてくるのに気づいた。
――そうか。みんな、5年ぶりに外に出られたんだ。
パソコンでスカイプをつなぐと、レイチェルがボロボロ涙を流していた。
「ねえ、ジュン。鍵が開いたの。外に出られたの」
「うん。僕も、今、外に出てみた」
「でもね、街は変わっちゃってて……。誰もいないみたい。家の前の道を歩いても、誰もいないの。壊れた車や自転車があちこちに転がってて……」
レイチェルはワッと泣き伏した。
「怖い……こんなの怖いよ」
「大丈夫だよ。きっと、誰かが迎えに来てくれるよ。大人たちが僕らをほっておくことはないって」
「そうかな」
「そうだよ、きっと」
僕はそうやって自分に言い聞かせていた。
***************
5年前、未知のウィルスがあっという間に世界中に広がった。
最初は、中国で騒がれていた。やがて日本で感染者が見つかって、日本もパニックに巻き込まれた。イタリアやアメリカではものすごいスピードで感染者が増えて行って、街がロックダウンされた。
最初はお年寄りがバタバタ倒れて行って、若者は大丈夫だと言われていたけど、感染力は一向に弱まらない。
日本でも一日の死亡者数が増えていって、数千人レベルで亡くなっていった。
40代や50代も病に倒れて、若者も次々と病院に運び込まれて……。僕が習っていたバイオリンの先生も亡くなった。
WHOが「ワクチンの開発が間に合わない。このウィルスは食い止められない」と発表したのはいつだったか。
世界中の首脳や科学者が集まって、いろんなデータをかき集めて、試算して。ウィルスが根絶するまで5年はかかるってことになったんだ。
そして、世界中の食料を集めたら、5年で1000人分は持つってことになって。
世界中で1000人を選んで、隔離した施設に移すことになった。医学博士や科学者、エンジニア、医者や料理人など、いろんな職業の人が選ばれた。
僕も、その一人に選ばれて、この施設に来た。
食事は毎週、ドローンが届けてくれる。三つ星のシェフや腕利きの料理人が作った、絶品メニューだ。
でも、僕が食べたいのは、ママの料理なんだ。
スカイプでそうこぼしたら、しばらくはママの料理を届けてもらえた。
スカイプで、パパとママと会話をしながらご飯を食べたんだ。それも1年だけだったけど。
掃除はロボットがしてくれるし、僕がするのは洗濯物を干すのと、食べ終わったお皿の後片付けぐらい。
バイオリンのレッスンをする以外は、トレーニングルームで体を鍛えたり、ゲームで遊んだり、本を読んだり。スカイプで同世代の子とおしゃべりしたりした。オンライン授業も受けたよ。
世の中の状況は、ネットで分かる。
最初の1年で、世界では30億人が亡くなったって言っていた。どこの国のニュースでも、こわばった顔のキャスターが毎日死亡者数を伝えていて。だけど、ニュースの数も、段々少なくなっていった。
「これが、私が最後に伝えるニュースです」
そう伝えていたイギリスのおじさんの表情が忘れられない。
何もかもあきらめているような、だけどどこか誇らしげな、堂々とした表情で。それきり、世界中のテレビ局は何も報道しなくなった。
ううん、報道できなくなったんだ。みんな、いなくなったから。
***************
「さあ、みんな。準備はいいかな」
指揮者のマイケルが画面の向こうで呼びかけた。
マイケルは40代で、残ったメンバーの中ではかなりの年長だ。この5年間でずいぶん老けて、髪が真っ白になったし、ひげはかなり長く伸びている。
画面は20分割されていて、久しぶりにオーケストラの全員がそろった。
「今日が本番だ。この日のために、みんな今まで準備をしてきたんだ。5時間後に演奏会をスタートしよう。それまでに各自、身なりを整えて、練習をしておくように」
「何の曲を弾くんですか?」
「それは、これから決める。後でまた連絡するから」
マイケルはあわただしく通話を切った。演奏会をすることをあちこちに告知をするので、忙しいらしい。
他のメンバーはみんな黙り込んでいる。
憔悴しきった顔、泣きはらした顔、興奮して紅潮した顔。みんな外に出て、現実を目の当たりにしてきたんだろう。
僕は、5年前のある夜のことを思い出した。
「なんで、僕が選ばれたんですか?」
泣きじゃくりながらマイケルに聞いた。一人で暮らすようになって寂しくて寂しくて、気が狂いそうになっていた時期だ。
「僕なんて、何もできないのに。バイオリンしか弾けないのに。頭よくないし、薬とか開発できないし。誰の役にも立てない……」
マイケルはおおげさに、「驚いた」とばかりにのけぞって、目を丸くした。
「君は音楽の力を知らないんだね。5年後、世界中の人が外に出られた時、希望を与えられるのは唯一、音楽なんだ。だから僕たちは1000人の中に選ばれた。世界に希望の灯りを再び灯すためにね」
それでも僕の涙は止まらない。
「今の君には分からないかもしれない。だけど、君が奏でるバイオリンの音は、きっと多くの人に生きる喜びを与えるよ。君は今も多くの人の役に立ってるし、君だから選ばれたんだ、ジュン」
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