蛇足

「へー、これが澄の初恋の人かー」


「あ、ちょっと! 勝手に読まないでくださいよ!」


 お風呂から上がり居間に戻ると、享子さんが私のパソコンを開けていた。その画面に何が表示され、彼女が何を読んでいるかは見なくても分かる。迂闊にも保存だけして、ウィンドウを閉じていなかった。というか、画面ロックしておいたはずなのに!


「澄が設定しそうなパスワードなんて、すぐに分かっちゃうよ。それに澄、他のところでもパスワード使い回しているでしょ? ダメだよ無用心だから。せめて一部だけ変えるとかしておかないと」


「あ、はい、わかりました、以後気を付けます……じゃなくて! 何で勝手に私のパソコン見ているのかって聞いているんですよ!」


「え? だって、置いてあったから」


「いくら恋人でも携帯とかパソコンを勝手に見るのはダメでしょ!?」


「そんなに目くじら立てなくてもいいじゃない。見られて困るものでもないんだから」


「人に見せるために書いたものじゃないから、恥ずかしいんですよ!」


 特にあなたにだけは見られたくなかったのに、と心の中で付け加える。


「そうなの? せっかくの力作なのに、勿体ない……まあ、文章には人に読んでもらうためのものだけじゃなくて、自分だけのための、書くこと自体が目的のものもあるからね。私も仕事の息抜きにそういうのを書くことがあるから、気持ちは分からなくもないけど」


「文章を書く息抜きに文章を書いて、本当に息抜きになるのか甚だ疑問ではありますけど……」


「”書く”と一口に言っても、その道具を変えれば全く別の行為に変わるものよ。仕事ではパソコンを使っているけど、息抜きの時は手書きにしたりとかね」


「まるでライターの鑑みたいですね」


「書くことくらいしか私には出来ないからね。まあ、それもいつまで続けられるか分からないけれど」


「そん、なこと……ないんじゃないですか」


 こういうところ。自分の「身体」のことを自虐的に言うところ。正直、苦手だ。どう返したらいいか分からないから。享子さんの悪い癖だと思う。当人は何も気にしていないと分かってはいるけれど、その度にざわざわと胸に広がるモヤモヤしたものは抑えきれなくて。でもそれは彼女への不快感ではなくて、自分の「身体」を受け入れることが出来なかったあの人への……何だろう。後悔? 何も知らない子供の私に何が出来た? それは傲慢だ。非日常に酔い、月明かりの下の彼女にのぼせ上がっていた幼く愚かだった私。あんな無力感はもう二度と嫌で。もう二度と、彼女のように苦しむ人を目の前にして何も出来ないままなのは嫌で。


「髪、ちゃんと乾かしておいで」


 ふわり、と享子さんに頭を撫でられる。体温の無いはずの手のひら、だけど不思議と温かく感じる。触覚じゃない、五感以外の感覚。それは享子さんが教えてくれたもので。


「私もお風呂入ってくるから。上がったら、いつものマッサージお願いね」


「はい。ちゃんと温まってきてくださいね」


 彼女と出会えたこと、そして別れを後悔したことはない。あの時、私を撃ち抜いた弾丸は、胸の中で溶け、全身に広がり、今の私を形作っている。それが無ければ享子さんと出会うことも無かっただろう。


 パソコンの電源を切る。真っ暗になったディスプレイには、彼女と同い年になった私がいた。



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月に弾丸 新芽夏夜 @summernight139

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