偉大なる書物、あるいは完璧な誤訳
@isako
偉大なる書物、あるいは完璧な誤訳
夏の、徐々に涼しさの失われつつある午前のことだった。晴天のもとに広がる石造りの広場は前々夜からの徹底した清掃でこれまでにないほどに磨き上げられ、そして前日から始まった処刑台の建設は、国でもっとも堅実な仕事をするとの評判だった官吏が担当した。将来は大臣の席に座ることも目されていたほどの男だった。本来、断頭処刑の計画実行などというものは、新任上級官の仕事であるのだが、今回だけは、その男が携わった。それは王からの勅令だった。〈男〉の処刑は絶対に失敗が許されないもので、しかも、最高級の敬意が支払われるべきだと、王が考えたのだ。
処刑台のうえの〈男〉は、民衆を見下ろしていた。
民衆は邪悪なる男の死を望んでいた。〈男〉は邪悪なるものだとされていた。〈男〉は、民衆の中にひとつだけ異なる顔を見つけた。それは彼の弟子だった。弟子は、ほかの人々とは違う顔をしていた。その目や鼻、口、眉はなんの感情も示していなかった。興味も、怒りも、愉悦もない。〈男〉と弟子はもはや十分に語り合っていた。あとは、弟子が長い時間をかけて〈男〉の残したものを解かしていくだけなのだ。それらを、みんなが水に溶かして飲むことができるように。二人の間では、もうすべてが完了していた。
〈男〉を逮捕した警官もそこにはいた。〈男〉と弟子の二人、彼らを除けばあるいは、そのことをもっとも理解しているのはその警官だけだった。高等警察に所属し、思想的な犯罪者を取り締まる者たちは、ある程度において教養や学識を求められる。警官は、学生の時分に〈男〉と弟子と自分の三人で語らいあった夜のことを考えた。彼は、自分だけが抜け出して、国になびいたことを後悔していた。彼には金が必要だった。しかし、それが、師と学友を裏切ることの十分な理由に、自分を納得させられるだけの免罪符になるとは思っていなかった。彼は、王に高等警察官に任命され、式典に参加したときから、もはや自分にはあらゆる熱が取り去らわれてしまったのだ、と思った。機織り機のようになるしかない。そう思った。自分の意志は存在しない。誰かの手によって型きまりの動きをする機械になるしかない。そうしなければ、そのように意思を捨てなければ、二人を裏切ったことに対する示しがつかない。中途半端なことはできないのだ。一度裏切るのならば、最後まで裏切り続けなければ、誰よりも自分に、否定されてしまうのだから。
検閲にかかったその〈本〉の危険性を最初に見抜いたのは彼だった。そしてその危険性の裏にあるほんとうの意味と、示され期待された〈あたらしい時代〉の匂いを最初に嗅いだのも彼だった。〈男〉が望み、そうしたものに届いてほしいと思ったもっとも理想的な読者が彼だったのだ。
警官は押収した献本を一週間で写し取り、その写本を自宅の衣装棚の奥に隠した。彼は職務として、〈男〉を逮捕しなければならなかったが、一つの社会的精神としてその〈本〉をこの世界から消し去ることはできなかった。かつての弟子であったことは、彼がその〈本〉を「読む」ことができたということにしか関係しない。彼が〈本〉を残したのは、彼が弟子だったからではなく、彼が人間であるからだった。そうして世界には写本が二つ残った。弟子の持つひとつと、警官の持つひとつだった。弟子のものは、弟子によってなされた誤った注釈のほうが多い写本になって世に出回ったが、それらはのちにすべて焼かれた。いくつかの知識が、いくつかの精神の
〈男〉の罪状が読み上げられた。その意味さえ、民衆のほとんどは理解することができなかった。彼の遺した精神は誰にでも理解することができる。だが、彼が罰せれらる理由を理解できたものは少ない。それは、〈男〉が残したような万人に開かれた思考ではなく、特殊な社会形式のなかでしか受け入れられないような、特殊な理論によるものだったからだった。それでも民衆たちはいろめきたった。彼らは、唯一聞き取ることのできる、つまり音と意味を合致させられるいくつかの形容詞――たとえば、「邪悪」とか、「悪しき」とか、または、「不健全な」「誤りの」「背信的」というものたち――に、興奮したからだった。あるいは、刑執行に携わる官吏の大声が、待ちわびた断頭の前触れであることをよく知っていたからだった。
官吏は読み上げを終えると、〈男〉に最期の言葉を求めた。「ない。残すべきものは残した」そう〈男〉は言った。磨き上げられたギロチンが落下して、男の首を落とした。血が飛んで、人々は歓喜の声を上げた。弟子はその場を去った。警官は青ざめた顔で処刑の様子を見つめ続けた。広場の、石畳に転がった男の頭は、身体から切り離されてもなお、まだ目を見開いており、あたりを窺うように目を動かした。それから言った。
「百年たって、ようやく広まり始める。そして次の百年は、戦争の時代になる。それから百年で、ついに」
最後まで言わないうちに、頭は話すのをやめた。頭が話しているのを目の前で見た官吏は、その晩から高熱にうなされ、次の朝に死んだ。
〈男〉には残された家族も、また財産と呼べるようなものもなかった。彼の家にあった膨大な書籍と、研究ノートはすべて焼き捨てられた。といっても、重要といえるようなものはほとんど弟子が持ち去ったあとだった。
何年かしたあと、弟子も〈男〉と同じような理由で処刑された。今度はひどくお粗末なかたちでことが進められ、一度目の処刑のときには手違いからギロチンが用意されておらず、刑は延期になった。二度目はギロチン処刑の伝統が絞首刑に移り変わる時期にあたったため、どちらの刑によってなされるかが議論された。絞首刑が選ばれたが、質の悪い首吊り縄を使ったがために、縄は弟子の体重を支え切れず千切れ彼は絞首台から落下し足の骨を折った。そして三度目にしてようやく彼がつるされた時には、観衆はおろか、現場に立ち会った人間というのは、新人で、まったく無能かつ性悪とまでみなされていた上級官みならいの男のみだった。刑は、監獄の裏庭でごくひっそりと行われたのだ。その男は弟子を散々にからかったあと、肉体的に痛めつけ、それから刑を執行した。弟子は暴行の果てに死んだのであり、実際のところ、「絞首刑」が成立したとは言いがたい。弟子は、殴殺されたあとにその死体を吊られただけだった。弟子の死体は、師のように話したり、誰かを死なせたりすることはなかった。
警官はその後結婚し、三人の子をなした。子ができたころから心変わりをして、いつか職を辞し、贖罪に生きようと思っていたが、それを実行することはついになかった。あいまいな罪悪感を抱えたまま、隠居し、やがて、写本をなくした。どれだけ探しても見つけることができなくて、彼はついにあきらめた。そして、ある暖かな午後に、写本に何が書いてあったのかも、自分がもうほとんど覚えていないことに気づくと、彼は深く静かな絶望に陥った。彼はもうすでに年老いていて、そうした絶望に至ったとしてもそれに気づいてくれるようなものは一人もいなかった。彼自身それを、表面的に押し出そうともしなかったのだ。妻は老いた夫がその日の昼食を拒んだことを不思議に思ったが、なにせ二人とも、もう十分に生きたといえるほどの年齢になっていた。食べたくないのなら食べなくていいのだと、勝手に納得した。
〈男〉の教えをうけた者たちが死んで、また、本の行方が分からなくなって、数十年が経った。警官の写本は、なぜか隣国の古本商の倉庫にあった。ある冬の夜に、その建物は火事に遭い、古本商は焼け死に、その蔵書もすべてが燃えた。
火事場泥棒の一人が、倉庫の中に入った。中にあるのは古ぼけて難解な、ほとんど無価値に思える書物ばかりだった。彼が求めていたのは金目のものであり、確かに本はものによれば高値で売れるという話も聞いたことがあったが、彼には、そうした本を判断するだけの能力も時間もなかった。
倉庫にも火が回り始めていた。一秒ほどの逡巡(それでも、長すぎるくらいだった)ののち、彼は手元すぐそばにあった本を掴んで倉庫を飛び出した。そしてそれが、本ではなく、ただの紙束であることに気づいて、自分の間抜けさを呪った。
薄暗く汚らしい彼の家で、火事場泥棒の青年は紙束を紐解いた。彼はその身分に似合わず、文字を読むことができた。幼いころ、浮浪者街に流れ込んできた男が彼にそれを教えたのだ。男は名の知れた哲学教授だったが、発狂して、すべてを失って、そこにやってきていた。
青年には紙束の内容はとても理解できなかったが、これがどうやら、政治的ななにかについて、あるいはそれをはるかに超えた、人間と社会の関係とそのしかるべきありかたについて語ったものであることは理解できた。そして、これが、いまこのようにして自分の手に渡ってきたことに、運命と責任を感じた。――おれはこれを誰かに渡すために、生きてきたのかもしれない。これが、ちゃんとした場所に収まるのを手伝うために、おれは文字が読めたのかもしれない。
青年は紙束を、彼が知りうる限り、もっとも知的な人物に渡した。場末の盗人の人脈をもってたどりつける知性などには、限界がある。彼はそうとも思っていたが、彼はそのことで絶望したり、諦めたりはしなかった。彼がこれを盗み出したように、運命はこの写本をどうにかしようとしているのだ。自分が思う限り最大の努力をするのなら、なんであれ、写本はもっともふさわしいかたちに落ち着くのだと、そう確信していた。
写本を受け取ったのは、とある警官だった。わいろと不正で、魂と心をべたべたに汚した、若い警官だった。彼には学問の心得があったが、それにふさわしい職をえることはできなかった。彼は優秀だったが、優秀なものに豊かな職を与えるほど、彼の生きる世界は透き通ってはいなかったのだ。それに心を折られた彼は、警官になった。正義を為す気などさらさらなかった。世界の人間たちの多くが陥る、もはや欲望を貪るだけ機構になり果てていた。写本を受け取っても、彼が最初に考えたのは、どこに売りつければ高くなるだろうかということだけだった。
なにげなく、彼は写本に目を通した。そしてすぐに、写本を手放すことをやめた。彼に熱が戻ってきていた。それは思索へとひとを駆り立たせる熱だった。だがそれは、彼が初めて触れたもの、彼の魂が汚れる前に彼が持っていたものとは大きく違っていた。
彼はその写本の持つ意味の力をよく理解していた。彼にはその資格があった。だから彼はそれを、自分のために使うことに決めた。これらの言葉が、人間を動かしうることを見抜いた。そしてこれが、いまの世界を、彼を貶めたこの世界を破壊するためにあるのだということを見抜いた。彼は自分のために写本の力を使おうとしたが、その彼の認識は、起きることの実態してふさわしくない。起きたことというのは、結局、写本の力を生かすために、彼という人間が運命によって選ばれたということに過ぎなかった。
二年ほどで、彼は写本に意味された精神を掲げた政治的グループを作り上げた。水面下で、現行権力を転覆させることを目的に彼らは力を蓄えていった。彼はそのグループのリーダーになった。彼が、〈男〉の望んだ最初の「行動的な読者」ということになる。しかし、彼もまた、今後無数に現れる「行動的な読者」たちと同じように、写本の誤訳を生み出していた。彼らの解釈はあくまで彼らの抑圧を排除するための都合のいい解釈でしかなかった。
やがて彼らは、彼らの国の支配的権力を打倒することができた。それが、〈男〉の遺した精神のはじまりであり、〈あたらしい時代〉の始まりだった。写本はすでにほとんど聖典のように扱われていて、もはや「写本」などという足元おぼつかない存在ではなくなっていた。それはまごうことなく〈男〉が残したものとまったく同じ文字を持つものだった。新しい国ではそれが精神的支柱、あるいは正統性の論理基盤として信奉され、数えきれない冊数が製本・出版された。
やがて、リーダーになった男は死んだ。すると、彼の誤訳をもとに新しい誤訳を生み出すものたちが現れた。聖典はすぐに手に取れる場所にあったにも関わらず、後継者たちはあくまでリーダーの言葉をその心に刻んで、あたらしい火をともし続けようとした。聖典は時折、誤訳の説得力を支えるために悪質な引用の対象になったが、いちから聖典を読み直して、原理を得ようとするものはほとんどいなかった。いたとしても、彼らは異端として排除された。そして、彼らのものもまた、誤訳に過ぎなかった。
〈誤訳〉は広がっていった。いくつかの国がそれに飲まれた。いくつかの国が、新しい国々に対抗した。一つ二つの大きな戦争があり、小さな戦争が無数に現れた。死者たちの墓標には、「偉大なる精神のもとに倒れた」というような意味の文章が刻まれた。「誤訳のもとに倒れた」と記された墓標は一つもなかった。
〈誤訳〉が誤りであると気づいたものがいたが、彼らはまた別の誤訳に回収されていった。ひとに必要なものは、原典でもなければ正確な翻訳でもなく、ただ一つの偉大なる誤訳であるということを知るものたちも現れた。彼らの多くは発狂するか、あるいは発狂したとみなされて、処刑、あるいはそれよりもひどい目に遭った。残り僅かな聡しいものたちは、口を閉ざした。そして、その代わりに、書物を残した。〈誤訳〉についての書物だった。彼らは、〈誤訳〉の可能性について論じていた。その意味では、それらはひさしぶりに人類が生み出した――あるいはみつけなおした――真理だった。彼らは〈男〉とは違って、それほどは期待しなかった。〈男〉は世界の変革を意図しもたらしたが、それが〈誤訳〉になるとは思いもしなかった。彼らは、自分たちの言葉がいくらでも〈誤訳〉になることを知っていた。だから期待しなかった。ただあるだけのことやものについて言葉を並べた。「だからこそ、意味がないということがよくわかるのだ。つまり、善さへの志向の、そのやるせなさだ。」〈誤訳〉について物した者の一人はそう言い残して死んだ。その言葉さえ、本意はまったくといっていいほど、誰にも伝わらなかった。あるいは〈誤訳〉だけが広まった。
ついに、〈誤訳〉が世界を覆う日が来た。すでに〈誤訳〉の誤訳たるゆえん、そのいくつもの瑕疵は明らかになっていたが、もはやだれにも止めることはできなかった。そうなって初めて、古い過ちを新しい過ちで塗りこめただけだったのだということに人々は気づいたが、もう遅かった。誰もが新しいことばを必要としていた。新しいようでいて、〈誤訳〉の焼き直しに過ぎないものが無数に現れては消えていった。いつか。だれかが。あるいはわたしが。そのようして人々は生きていたが、限界は近づいていた。
***
ある朝、〈女〉は目覚めた。自分の股座から流れ出た精液の感触が、ひどく鮮烈で、それで目覚めた。隣では、男がまだ眠っていた。その瞬間、新しいことばが彼女に語り掛けてきた。それは流れた液体が、彼女の暗く湿った肌を乗り越えてシーツに触れるよりも短い時間に起きたことだった。
光。強い光と弱い光があり、濃い光と薄い光があり、白い光と黒い光があった。叫びがあって、祈りがあった。歌があって、罵声があった。臭いと香りと味が、同時に押し寄せる。冷たいものに触れて暑いと感じ、熱いものに触れて寒いと感じた。くすぐられた。殴られた。愛撫された。そして優しく抱きしめられた。彼女は落ちながら上昇していった。上と下はめまぐるしく入れ替わる。怒りを覚えた。それは嬉しいからだった。あとからやってきた悔しさは、寂しさと愛おしさによって支えられていた。そして、すべてを包み込む不安。嵐のようでありながら、凪のようでもあった。存在と無の境に触れた。同時に、触れられないものがあることがわかった。
一匹の大きな鯨がいた。空を泳いでいる。空は海だったのだろうか。鯨はあまりにも巨大で、星々が砂粒のように見えた。鯨がひれをなびかせると、波紋が広がって、いくつかの天体たちの動きを乱した。互いにぶつかって、破壊されてしまうものもあった。またその乱れによって、破壊や消滅を免れたものもあった。
鯨が何かを言った。そう思った。でもそうではなかった。それは何も言っていなかった。鯨が語るわけがなかった。
鯨は何も語らない。語るのは人間だけなのだ。人間だけがそれを語ろうとするものだった。
〈女〉は自分が妊娠していることを悟った。そして、みたものを語ろう、と試みた。男の肩を揺らした。男は、呻き声をあげる。日曜日だった。そしてまた、言葉が語られた。
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