甘くて怖い

フカミオトハ

甘くて怖い

「パフェを食べよう!」

 とつぜん左腕をつかまれて、とつぜん声をかけられた。ナンパにしても前衛的。場所が放課後になったばかりの昇降口なのだからなおさらだ。倒れそうになるのをどうにかこらえて振り向くと、制服を着た女の子が息を荒くして立っていた。よほど焦っていたのか、コートの前を閉じていない。指定外のダッフルコートから、わたしと同じ紺色のセーラー服が見えている。短すぎるスカートの裾からは白いふとももが覗いていた。二月の風は冷たいだろうに。

 走ってきたのか?

「はあ……? なに、だれ?」

「秋吉です、三組の秋吉。瀬尾さんよね。パフェを食べよう!」

「食べないよ。なんの話?」

「パフェの話よ、パフェの。パフェ!」

「なにいきなり……三組の?」

「秋吉! パフェを食べよう!」

 なんだこいつ怖い。

 パフェパフェと連呼する新種の妖怪みたいな女は、なるほど見覚えがあった。三組――となりのクラスだ。合同授業で一緒になったことがあるし、この一年で何度かすれ違ったことくらいはあるだろう。つまりその程度の仲だ。

 で、なんでパフェ?

「あっ、ひょっとして、わたしのこと知らない?」

「顔は知ってる。名前は今知った。できることなら近づきたくない」

「よかった、怪しい者じゃないことはわかってくれるよね。パフェを食べよう!」

 それは新しい語尾かなんかなのか。

「できることなら近づきたくない! わたしは帰るし、買い食いは校則違反だよ」

「そんな……瀬尾さんはそんな細かいことにとらわれるような人間じゃないはずでしょう!」

「あんたがわたしの何を知ってる……」

「何も知らないけど、」

 そこで、秋吉ナニガシは声のトーンを落とした。さわがしい昇降口でわたしたちは少なからず人目を引いていたが、足を止めさせるほどじゃない。ちょっと声をひそめれば、人の流れと一緒に興味も消えていく。

「――瀬尾さんが異性化症だってことは知ってる」

 そうして周囲の意識がわたしたちから離れた瞬間、秋吉はそうつぶやいた。

「……ふうん」

 あっそう。

 ならこれでおしまいだ。

 わたしは乱暴に腕を振り払って歩き出した。一歩。二歩。大またでずかずか。後ろから「待って!」と声が聞こえたが、やつはまだ上履きのはずだ。今のうちに引き離そう。

「待ってって!」

 と思ったら、またしても腕をつかまれた。見れば秋吉サンが困惑顔でこっちを見ている。足元を確認。おお……上履きのままで外に出てきたぞ。なにが彼女をそこまでさせる。

「いや、その、ごめん。違うの」

「違わない。わたしはそういう関わりかたをされたくない。考えればわかると思うけど」

「そうよね、ごめん。あやまる。そういうつもりじゃなかったの。その」

 なにかを言いよどむようにして、秋吉サンは視線をさまよわせた。あらためて見ると、秋吉サン、なかなかかわいい。わたしよりも頭ひとつ分背が低く、ころころしていて小動物みたいだ。上目遣いに困ったような視線で見られると、いじめたくなってしまう。

 いじめられたいのだろうか? だったら契約成立ということにしてもいい。

「その……わたしも」

「ん?」

 促してもなかなか先を言わない。いいかげん一発殴って帰ろうかと思いはじめた頃、

「わたしも、異性化症なの」

 さっきよりも一層声をひそめて、秋吉サンはそう言った。


**


 異性化症とは。

 読んで字のごとく、性別が変わる病のことだ。厳密には病気じゃないらしいけど、わたしにはよくわからない。わたしはこれにかかった。つまりもともとは男だ。

 三日三晩かけてわたしのからだは女性のものになり、生活は激変を余儀なくされた。具体的には九ヶ月に及ぶ入院とリハビリ、そして引越し。元の学校に通うわけにもいかず(できるらしいが断固拒否した。冗談にしても悪質すぎる)わたしは一年遅れで今の学校に入学し直したのだ。

 バレるわけがないと思っていた。実際一年間は何事もなく、安心していたところだったのだ。

「まさかいまさらバレるとはなあ」

「その、なんかごめん。ごめんなさい」

「いや、別にいいよ……お互いさまじゃないけど、そっちもそうなら納得もいく。謝るようなことじゃないしね」

「そっか、うん、そうだね」

 頷きやがったぞ。なんなんだこいつ。

 駅前の、学生たちでにぎわう目抜き通り――から一本外れた路地にある、地味で薄暗い喫茶店。窓から一番遠い席で、わたしたちはブレンドコーヒーを間に挟んで向き合っていた。ほかに客はいない。あまり流行っているお店ではないのだ。

「ここ、よく来るの?」

「たまにね。それで、なんで気づいたの?」

 実のところ、わたしは全く納得していない。自分が異性化症なら相手もそうだなんてわかるわけがないのだ。

 事実、わたしは秋吉サンに一年間気づかなかった。今もわからないくらいだ。ほんとに異性化症なのか?

「ほんとうだよ。まあ、同じ異性化症だからっていうのが、やっぱり理由かな」

「ふうん?」

 答える気はないらしい。ふるまいでバレたというわけではないみたいだけど。

「まあ、それはいいや。それで?」

「それでって?」

「だから、なんの用件かってこと」

「ああ……いや、だから」

 そこで、秋吉サンはずい、と身を乗り出した。顔が近い。

「パフェを食べよう」

「顔が近い」

「パフェを食べよう!」

 思ったことをそのまま声に出したが無視された。なんなんだこのパフェ妖怪。

「食べればいいでしょ。わたしはいらない」

「いや! 一緒に食べよう!」

「いらないって、ひとりで食べなよ」

「どうして! 一緒に食べましょう! パフェを食べよう!」

「いや……なんなんだもう……」

「なにかといわれたらパフェなのよ! パフェ!」

「ちょっともう、近い近い!」

 テーブルを乗り越えんばかりにグイグイ近づくかわいい顔をどうにか押し返すと、秋吉サンは大きく息をついて席に座り直した。しゅん、としょげたような顔でうつむいている。

 なんだか知らんが怖すぎる。パフェを食わないと死ぬ病気にでもかかってるのか? ていうか食べたいならひとりで食べればいいだろうに。

「落ち着きなよ。コーヒー飲んで。ここのブレンドおいしいよ」

「うう……」

 うめく秋吉サンを横目に、自分のカップに砂糖とミルクを落としてくるくるかきまぜる。味も香りも中途半端になったブレンドコーヒーを一口飲んでみせると、微妙な顔で秋吉サンもカップを手にとった。ブラックで飲むのか。

「瀬尾さんは……自分のことどう思ってる?」

「どうって」

「女の子として、やっていけるって思ってる?」

「んん?」

 なるほど、そういう話か。

 異性化症――わたしと彼女の共通点。秋吉サンは、これから女として生きることに不安を抱えているというわけだ。

「やっていけるというか、一年間女の子してみて、まあなんとかなるなとは思ったよ」

「なんとかなる……」

「秋吉サンもそうなんじゃないの?」

 言ってやると、秋吉サンは「まあ……」と曖昧に頷いた。何事も、やってみればどうにでもなるものだ。不安も躊躇も最初だけ。踏み出したなら、あとは進むしかないのだから。

 踏み出すまでが、問題なのだ。

「えっとな、秋吉さん。わたしはここに来る前、大きな施設に入っててさ。知ってるよね、専門のやつ」

「うん……」

「そこではいろんなひとがいたけど、だいたいみんな怖がってた。ここから出るのが怖い、社会に出るのが怖い、異性化症って知られたくない――ってさ。気持ちはわかるけど、そんなに心配することじゃないんだなって、実際に外に出て思った。歩き出せば止まれないんだから、そうそう悩む余裕もないんだよ」

 たとえば、異性化症の発症者には迫害があった頃もある。生まれの性別と今の性別が違うというだけで、言葉にするのもはばかられるような酷い目に遭った時代はたしかにある。しかしそういう魔女狩りめいた悪夢はもうおわったのだ。異性化症は既に社会常識となったし、少なくとも表立った攻撃はそこにはない。それに、言わなければ気づかれることそのものがない――昔はそれこそ、発症者は診断書の提出が義務づけられるようなこともあったらしいけど。

 社会は、そんなにわたしたちを嫌っていない。

 わたしの言葉をじっくりと、かみ締めるように聞いて、秋吉サンはうつむいていた顔をあげた。そして背後を向いて、

「すいません、パフェください」

 パフェを注文した。

「おい、わたしの話聞いてた? 聞いてたか? ずっとパフェを頼みたいと思いながら聞いてたのか? もう帰っていいってことかな?」

「……瀬尾さん」

 こちらを向き直った秋吉サンはいやに神妙な顔で、まっすぐにわたしの目を見た。きらきらとした大きな目だ。かわいいとは思ったけれど、この子は目が綺麗なんだな。

「瀬尾さん、わたしは今も怖いよ」

「――今も怖い?」

「今も怖い。踏み出した今でも怖い。異性化症であることが怖い。迫害されるんじゃないかって怖い。すごく怖い。はやく女の子にならなくちゃって――ずっと思ってる」

 その言葉が震えていることに、わたしは気づいた。

「ねえ、きのう、講演会があったじゃない」

「……あったね」

 異性化症の発症者を呼んで、全校生徒の前でありがたいお話をお聞かせいただくというイベントがあった。三十年も前、二十代で発症したというその人は、当時の環境がいかに過酷だったか、今がいかに進歩しているか、そして、それでもどれだけ足りない部分があるかを熱弁していた。

 あれを聞いてあてられたのだろうか?

「あの体験はたしかにすごかったけど、昔の話だろう。今は、あんなことはない」

「ない? 本当にない? 迫害も、偏見も、本当にないっていうの?」

「……秋吉さん?」

「ないわけないよ――ないわけない。ないわけないじゃん。なくなるわけないんだよ。迫害も、偏見も、今も昔もずっとある。これからもだよ。そんなに簡単に消えたりしない」

 声の震えが大きくなる。怖がっているのか、興奮しているのか、その両方か。感情の発露が涙になって、まなじりを濡らしているのが見える。

「ちょっと、落ち着きなって……」

 なにか地雷を踏んだだろうか。迫害? まさか、今まさにいじめられているのか? それなら全然話が変わってくる。わたしにできることはしてあげたいが――


「嘘女」


 ――思考を切り裂くように、秋吉サンがつぶやいた。

「嘘女。気持ち悪い。もともと男のくせに、最初から女だったような顔をして――ねえ、ほんとうは、瀬尾さんも聞いたんでしょう?」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、秋吉サンは一度俯いた。袖で顔をごしごしと拭いて、また頭をあげる。

「聞いたんでしょう? 講演会のあと、みんなが言ってた。みんなが! みんなが言ってたんだよ。気持ち悪いって。異性化症なんて気味が悪いって。今はもう迫害がない? 嘘だよ、そんなわけない。社会がわたしたちを嫌ってなくても」

 ――みんなは嫌ってる。

 その声に、わたしは咄嗟に言葉を返せなかった。その通り。講演会のあとの心無いざわめきは、わたしも聞いていたからだ。もちろんそんなのは一部の阿呆どもだけだ。「みんな」が言っているわけでは決してない。実際、そいつらをたしなめている連中もいたし、そういう声の方に嫌悪感を示している生徒もいた。

 しかし、そんなことを説明しても意味がないだろう。言葉の上でも、現実的にも無意味だ。

 異性化症の発症者を嫌悪する人間が実在することは、紛れもない事実なのだから。

「そんなのは、一部の……」

 それでも、そう言うしかない。そう思ったわたしの言葉は、

「わたしも言った」

 秋吉サンの涙声に塞がれた。

「わたしも言った。ずっとずっと昔、発症者を見てわたしも言った。わたしも言ったんだよ。それを思い出した――思い出したんだ。わたしだって、どうにかなると思ってた。でも今じゃそんなこと言えない。わたしは、忘れてたんだよ。ずっと忘れてた。どうでもいいことみたいに!」

 赤い目が、私を見ている。

 ぬぐってもぬぐってもこぼれてくる涙が、秋吉サンの顔をぐしゃぐしゃにしていく。何を言えばいい? 何を言うべきだ? どうすれば助けられる? いや――わたしはその答えを本当に持っているのか?

 わたしが抱えているものと、彼女の苦悩は同じなんじゃないか?

「たすけて瀬尾さん。わたし――女になりたい」

 女になりたい。

 搾り出すような声で、秋吉サンは悲鳴をあげた。かすれた、今にも消えそうな細い細い声だったけれど、それは間違いなく悲鳴だった。

「あの……」

 言葉を失っていたわたしを現実に引き戻したのは、全く別の声だった。あわてて振り向くと、お盆にパフェを載せた店員が困り顔で立っていた。

「だいじょうぶ、ですか……?」

 両手で顔を覆ってしゃくりあげている秋吉サンを見て、おそるおそる店員が聞いてくる。反射的に「大丈夫です」と言ってしまってから、まったく大丈夫じゃないな、と心の中でつぶやいた。

「おしぼり置いておきますね」

 気の利く店員はパフェと一緒におしぼりを二個テーブルに載せて、そそくさと去っていった。今頃厨房で噂されているだろうか。わたしたちはどういうふうに見られているんだろう。会話は聞こえていないだろうな。

「ほら、顔を拭け」

「……おしぼりで顔を拭くのは、おじさんの証明なんだよ」

「うるさい、いいから拭け」

 腕を伸ばしてまるまったおしぼりを広げると、身を乗り出して無理やり顔にはりつける。ぐしゅぐしゅと拭うと「あむぐぐぐ!」とおしぼりごしに変な声があがった。

「ひどい!」

 抗議を無視して座りなおす。おしぼりをどけると、充血した目と腫れぼったい瞼が現れた。非難めいた目でわたしを見る秋吉サンは、それでもかわいい。

「ほら、パフェきたぞ。食べるんだろう」

「……ちがう」

 泣きすぎてぼうっとしてるのだろうか。どこか焦点の合わない視線をさまよわせて、秋吉サンは言った。

「瀬尾さんが食べて。一緒に食べるんだよ」

「わたしはいいよ」

 その言葉に、

「――どうして?」

 秋吉サンは切り込むように反応した。思わず目をみはると、真っ赤な目がわたしを射抜くように見ていた。

「瀬尾さん――わたしも施設にいたんだ」

「え……?」

「施設でも瀬尾さんと一緒だったんだよ。同じ学校になってびっくりした。瀬尾さんは全然気づいてないみたいだったから、黙ってたけど……」

 ぞくり、と背筋を何か得体の知れないものが走り抜ける音がした。

「瀬尾さんは、知らないでしょう? わたしは瀬尾さんをずっと知ってた――ねえ、瀬尾さん、どうしてパフェを食べなくなったの?」

 パフェを。

 知っている。この子は知っている。わたしを、いや――少年だった瀬尾を知っているのだ。

「瀬尾さんも、怖いんじゃないの?」

 その言葉は。

 間違いなく、わたしが内に眠らせていた脆い部分を貫いた。


**


 喫茶店でパフェを食べるのが趣味だった。

 僕はそもそも甘いものが好きで、ケーキもパフェも大好物だった。男のくせに、と小学生時分にはからかわれたこともあったが、知ったことじゃない。うまいものはうまい。

 それでも「女子高生に人気!」みたいな店に堂々と入るのはさすがにためらわれた。だから僕は大通りから一本はずれた、静かで落ち着いた喫茶店でパフェを頼むのが常だった。そういうお店はパフェがないこともあったが、それだけにおいしいパフェを出すお店を見つけたときの喜びは格別だ。

 誰も知らないお店で、ひとりこっそりとパフェを食べる。

 それが僕の楽しみだった。

 毎日お店に通って、毎週お店を探して、そんなことを繰り返して――そして、僕は異性化症を発症した。

 僕の場合、異性化するまでに三日三晩かかった。想像を絶する痛みと苦しみで、すぐに病院に運ばれたらしい。気がつくと何もかもが終わっていて、変わっていた。

 背が縮んだ。からだつきが変わった。顔に面影は残っていたけれど、それだけに気味が悪かった。最初に鏡を見たとき、思い切り吐いた。

 僕は取り乱したし、不安定になったし、おおいに暴れた。そういうわけで専門の施設に入れられたのだ。比較的早い段階で落ち着いた僕は、施設にもほどなく順応した。

 たぶん、大きな問題のない患者として見られていたと思う。実際、トラブルを起こすこともなく、翌年四月には施設を出て別の学校に入学した。

 そうして覚悟を決めて、僕がわたしになって――とうとう、誰も気づかなかった。

 異性化してから、わたしが一度も甘いものを食べていないということを。


**


「瀬尾さん、施設でも、最初は全然外に出なかったよね……どうして?」

「秋吉……」

 知らず、声に怒りのような感情がこもった。秋吉。まさかここで、踏み込まれるとは思わなかった。

 これで終わってくれればいいけれど、秋吉ももう退けないだろう。踏み出したなら、あとは進むしかない。

「怖かったんでしょ? 瀬尾さんも」

 攻め立てるような、けれどどこかすがるような目で秋吉は言う。怖かった――否定はしない。たしかにわたしは怖がっていた。秋吉のように社会全部が怖かったわけではない。最初のうちは、この「わたし」が世界に認知されてしまうと、かつての「僕」が消えてしまうような、そういう馬鹿みたいなことを考えていたと思う。

 けれど、そんなややこしい上っ面を剥がせば、わたしが施設から出たがらなかった理由は明白だ。

「答えてよ」

 迫力に圧されたわけではないが、ここまで来たのだから付き合ってやろうという気持ちがあった。真っ赤に充血してなおきらきらと輝くその目にほだされたのかもしれない。

「わたしはいやだったんだ。あの施設は――ここもだけど、わたしの地元からそんなに遠くないんだ。昔の知り合いに会いたくなかった。女になったって思われるのも、男のままみたいに扱われるのも、中途半端に気を遣われるのもいやだった」

 そうだ。わたしはいやだった。子供じみたプライドを抱え込んで、傷つけられるのを怖がった。遠くないといっても、気軽に来られるほど近くもない。実際には、知り合いに会う確率なんてそんなになかっただろう。それでも、わたしにとっては恐怖だった。

「パフェも、そうなんでしょ」

「……」

 目の前には、透明な器。生クリームとアイスが層を重ねて、フルーツが彩りを添えている。てっぺんにはイチゴと白いバニラアイス、それに口直し用のクッキー。久しぶりに間近に見るパフェだ。正直言っておいしそう。

「そうだよ」

 わたしは頷いた。その言葉をどう受け取ったのか、秋吉はほっとしたとも、納得したとも、悲しそうにも、ショックを受けたようにも、何かを諦めたようにも見える混沌とした表情で俯いた。

「パフェだって食べたかった――でも、女になったとたんパフェを食いだしたって思われるのはごめんだったんだ」

「だれも思わないよ、そんなこと」

「そうだと今では思うけど」

 でも、それも間違っていたわけだ。

「秋吉は気づいたんだな」

「……わたしは、パフェを食べる瀬尾さんを見てた。まだ、わたしが男だった頃だよ。通り道にある古くておしゃれな喫茶店に、いつも入っていく子がいるのを知ってた。あんなお店に入るなんて格好いいって思ってた。いつかあそこでコーヒーを飲むって決めてた。それで」

 秋吉は苦笑してカップを掲げてみせた。

「ブラックコーヒーを飲めるように特訓した」

 申し訳ないけれど、わたしは未だにブラックコーヒーを飲めない。カップの中身は琥珀色だ。

「勇気を出して、実際に入ってみてびっくりしたよ。ブラックコーヒーを格好よく飲むんじゃなくて、こそこそパフェを食べてるんだもん。なんだこれ詐欺じゃないかって思ったよ」

「詐欺って」

 わたしが誰を騙したというんだ。

「でも、すぐになんだかすごいって思い直した。そんなに好きなんだって。隠れて食べるくらいに好きなんだって。執念みたいなものを感じたし、プライドも感じたし、どっちもなんだか子供っぽいような気もして、親近感もあったよ」

 なんだろう、馬鹿にされているようにしか思えない。わたしの器が小さいんだろうか。

「だから」

 少しずつ明るくなっていた声のトーンが一気に落ちた。諦観を固めたような重苦しい音で、秋吉はうめくように言った。

「だから――瀬尾さんがパフェを食べなくなったとき、今も食べてないって知ったとき、わたしはもうだめだと思ったよ」

 わたしのスイーツ趣味に何を見出していたのか知らないが、どう考えても責任が重過ぎるだろう。それだけ、秋吉には頼れるものがなかったのだろうか。

 支えてくれる何かが。

 秋吉のことは正直よく知らないけれど、この子はずっと、ひとりだったのかもしれない。

「あんなに好きだった瀬尾さんが、あんなに執念を燃やしていたパフェを、異性化したからって食べてないなんて、信じられなかった。外に出たら食べるようになるって思ってたけど、違ってた。やっぱり違ってた……」

 今日までの間、わたしの知らないところでずっとわたしを見ていたんだろうか。そうして積もり積もった感情が、講演会をきっかけに溢れ出したのか。正直、この子かなり危ない。ストーカーじゃないか。執念を感じるのはそっちのほうだ。

 そんなにも追い詰められていたのだろうか。

「異性化症で、人生が変わったんだよね。わたしも、瀬尾さんも。怖くて、ずっと怖くて、怖いままなんだ。克服なんてできると思えない。ねえ、わたしも誰にも言ってない。瀬尾さんもそうでしょ? 異性化症だなんて言えない。この先もずっとそうなんだよ。そうしたら――そうしたら、本当に女にならない限り、わたしはずっとこれを抱えていくんでしょ? そんなの、耐えられない」

 充血した瞳に、また涙がたまりはじめている。

 ――パフェを食べよう。

 だから、いきなりあんなことを言い出したのか。パフェを食べよう。わたしがパフェを食べれば、そうすれば、救われると思ったのか。勇気がもらえると思ったのだろうか。

 わたしが克服すれば、自分も克服できると思ったのだろうか。

「秋吉……ここじゃわたしが異性化症だってことは誰も知らないし、古い知り合いに会うことも滅多にない。わたしはもうそれを知ってる。それでも、わたしが今でも怖がってパフェを食べてないと思うのか?」

「思う」

 秋吉は即答した。そうか。そうだろうな。それで正解だ。少なくとも、がんばってまで克服しようと努力するつもりはなかった。

 抵抗も躊躇もある。異性化した今でも、女子高生に人気のカフェには近寄れない。下着を買うのも一苦労だ。かわいい服なんて着られない。セーラー服さえ葛藤の末に着てるんだ、スカート丈も標準。そもそも女友達をうまくつくれない。男友達も無理だ。おかげで放課後はひとりでカフェにいる。正直、どう考えたって秋吉の方が女の子している。

 全部、馬鹿みたいなこだわりだ。わたしが必死にしがみついているのは、もうありもしないプライドのような何か。浮き上がるたしにもならない。抱えていたってただ沈むだけだ。

 だったら――捨てるなら、それはきっと今だ。

「秋吉」

「……なに?」

「わたしは正直そんなに苦しんでないし、このままこれを抱えてなあなあで暮らしていけると思ってるし、世の中みんなそんなもんだと考えてるんだ」

「……そうなんだ」

「でもまあ、わたしだって、勝てる勝負なら勝ちたいよ」

 秋吉のことはよくわからない。疑問だらけだ。ああだろうか、こうだろうか、そんなふうにしか言えない。でもたぶん、わたしと秋吉は似ているんだ。違うようで、似ている。結局ふたりとも同じようなところで足踏みしているのだ。踏み出したその先で、もう一歩をためらっている。なんて中途半端なんだろう。

 踏み出しなら進むだけ。進むだけだ。ほら、もう一歩――先に進もう。

 スプーンを取り上げる。秋吉がわたしを見てる。うさぎみたいに真っ赤な目の中に、どんな感情があるのか読みきれない。この子、将来男に騙されて、挙句人とか刺すようになりそうだ。気をつけないと。

 スプーンを差し込んで溶けかけのアイスをすくい、その下のクリームをひっかける。銀色の曲面にわたしの顔が歪んでうつっている。その上の真っ白なクリームとアイスが、きらきらと輝いているように見えた。

 ――やば。

「いただきます」

 スプーンをくわえる。舌の上に金属の感触、口の中に冷たさが広がって、後からそれら全てを甘みの嵐が拭い去った。砂糖とも、フルーツとも違う、冷え切った、芯まで届く甘さ。舌で一度転がす。二度転がす。そのたびに新しい味わいと甘みがはじける。アイスと生クリームの輪唱。その衝撃は舌の上からノドを駆け下り、同時に神経を伝って全身に走っていく。鳥肌が立つ音を幻聴する。爪の末から毛の先まで、「甘さ」が味覚を超越して、からだ全部を蹂躙する。これはもはや快感だ。快甘だ。飲み込む――胃の中で甘味が爆発するのを見た。既に快甘が行き渡っていた全神経が誘爆する。血管の中を、血のかわりに甘さが疾走する。毛細血管全部を埋め尽くし、神経の全てを焼き尽くし、骨に達した甘味が、背骨を一気に――逆流する。

「――――ッ!」

 快甘はそのまま脳髄をかけまわり、わたしの意識をめちゃくちゃにする。視界が明滅する。意識が飛ぶ。すべての感覚を攫われる、真っ白な――絶頂甘。

「ふ……あぁ……」

 世界が白い――アイスクリームみたいに。

「せ、瀬尾さん……?」

 呼ばれて、我に返った。口内にはまだ甘みが残っていて、ふわりふわりと幸福感を刺激する。全身を焼き尽くした快甘がまだ燻っているようだ。もう一口食べたら死ぬかもしれない。

「ちょううまい……」

 つぶやくと、思わず涙がこぼれた。

 ああ――わたしは今までいったい何にこだわっていたのだ。馬鹿じゃないのか。ほんとに馬鹿じゃないのか。女だ男だどうでもいい。パフェだ。わたしはパフェになる。

「せ、瀬尾さん、しっかりして! 人間はパフェになれない!」

 声に出してた。やばい。

「ご、ごめん、久しぶりだったから……」

「あ、うん……」

 やばい人を見る目で見られている。正直、秋吉にそんなことを言われる筋合いはないからな。

 水を飲んで一呼吸。ああ、厨房からさっきの店員がこちらを見ている。

 まあ、なにはともあれ。

「食べたよ」

 スプーンを差し出して、わたしは言った。

「思ったとおり、踏み出せばなんてことなかった。あとは進むだけだ」

 少しだけクリームのついたスプーンを見て、秋吉は複雑そうな表情で、それでも一応頷いた。まあそりゃそうだ。本当にわたしがパフェを食べるだけで解決するなら、そもそも泣くほど悩んでいないだろう。

「いいよ、秋吉。わかった」

「え?」

 戸惑う秋吉に、できるだけ優しくなるように、わたしは笑いかけた。成功しただろうか。

「まだつらくて、苦しくて、どうしていいかわからないなら、わたしが一緒に考える。一緒にいろんなお店で、いろんなパフェを食べよう。かわいい服も買おう。遊園地も行こう」

「瀬尾さん……?」

 追い詰められて、追い詰められて、誰にも頼れなくて、支えがなくて折れてしまいそうなら、わたしがその支えになろう。放っておくと何をしでかすかわからないし、それに、わたしはこの子が結構好きになっていた。

「ともだちになろう、秋吉。わたしもそろそろ、ひとりはさびしいと思ってたんだ」

 気持ちを言葉にすると、秋吉はまずぽけっとして、それから驚いたように目を見開いて、顔を真っ赤にして、俯いて、涙目でわたしを見た。

「わたしも、ちゃんと、できるかな……?」

 知るか。できないかもしれない。でも、できるかもしれない。できないけどうまく付き合っていく方法を見つける可能性もある。なんだってやってみなくちゃわからない。泣いているよりいくらかマシだ。沈みそうなら引き上げるくらいはしてあげられる。邪魔は重りはたった今捨てた。

「手伝うよ。だから秋吉も、わたしを手伝ってくれ」

 あいている左手を前に出すと、

「……うん!」

 秋吉は、両手でしっかりと握り締めた。ぼろぼろの顔で、泣きながら笑って。

 スプーンでパフェをすくう。そのまま差し出すと、一瞬だけためらって、秋吉はぱくりとそれを食べた。手を握ったまま、ほろりと顔をほころばせる。

「……おいしい」

「だろう」

 うん、きっとこれでハッピーエンド。めんどうごとを背負い込んだと思う気持ちもあるけれど、でもいいさ。だってほら、ちょっと危ないし怖いけど、

 やっぱりこの子、かわいいんだよね。


甘くて怖い・おわり

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