第4話
ママが病室でやっと目を覚ました時、側にはパパがいました。ママは高校生の頃、初めて幼なじみのパパと映画を観に行った日、感動した映画に泣き過ぎてソファに崩折れた時の事を思い出していました。そして一瞬今高校生の頃のその映画館に戻った錯覚を起こしていました。
火事が消火され、三、四十分過ぎた頃、トコとリクが五キロ離れている町で無事、保護されたという連絡がありました。
消化作業の後の確認を行った消防士が遺体と思われるものは出てこなかったと報告した時、左隣に住んでいた家族の男子高校生が友達に呼びかけ、二人を探そうという話になったのです。声をかけ合い七人の男の子達が自転車で薄暗くなっていく空の下、夕食抜きで道の隅々からコンビニの中まで探し回りました。
それは警察が実際に捜索活動するよりもずっと早かったのです。そして高校生の一人が路面電車の終着の駅のベンチに座っている二人を――正確には座っているトコと眠っているリクを――見つけたのでした。駅員が警察に迷子の電話をかけようとしている所でした。少年の顔を覚えていたトコにとって――正確にはピンク色の髪を覚えていたのかも――少年の姿を見た事が安心につながり、まるで家に帰り着いたのと同じ位うれしかったと後で振り返って話していました。もちろん不安で押しつぶされそうな家族にとっていち早く少年から連絡を受けられた事は感謝しても感謝しつくせませんでした。
事の次第はこうでした。火事はアパートの裏の家の使われていない部屋のコンセントに付いていた
その時、履いたのはママがお兄ちゃん用に買っていたブルーの運動靴でした。なぜなら前にお兄ちゃんを追いかけようとサンダルを履いてダッシュしたら、人形の重みもあって派手に転んでおぶっていた人形のパティをひっくり返してしまった事を憶えていたからです。なので今度お兄ちゃんを追いかける時には絶対ブルーの運動靴の方を履こうと心に決め、玄関の隅っこに置いていたのです。その時はなぜかドアの外に、窓の外にお兄ちゃんがいるんだと思って一瞬も迷わずブルーの運動靴を履きました。なるべく遠くへ、と思うと大通りでなく、裏の方の路面電車に目がいきました。バスや鉄道の列車ならトコには乗れなかったかもしれません。でも路面電車には段差がなく、また降りる時に電車賃を払う方式になっているため誰にも止められず乗る事ができました。午後の路面電車には乗客が多く、誰もが女の子と赤ちゃんは近くの大人の連れだと思い込んでいました。トコはリクを背中からずらし座席に寝かせるようにしていたので、尚の事、子ども二人だとは思われなかったのです。ついに終点の停留所に着き、他の乗客達が全員降り終わるまで。そして驚いた運転手さんに手を引かれベンチに連れて行かれるまで。
この話を警察の人に話した時、変な匂いがしたらなるべく遠くへ逃げるという教えをちゃんと覚えて実行できた事、そしてサンダルでダッシュした時、足に力が入らなくて転び、背負っていた人形をひっくり返してしまったから次は運動靴を履こうと自分で決められた事について、とても感心されました。泣きながらトコを抱きしめるママに、「ひじょうに賢いお子さんですね」と警察の人は言いました。また、いくら未熟児で生まれ他の赤ちゃんよりずっと軽いとは言え、人形より重いリクを背負って裏の路面電車の所まで歩いたのだから根性があるとも。でもトコはただ夢中で行動していたのでした。だからパパやママがどんなにその時の気持ちを聞こうとしても、トコは「よく覚えてない」としか答えられませんでした。
結局、来年からパパの実家で同居する計画は火事のためすぐ実行に移されされる事になりました。
これから車でパパの実家に向かい、そこに住むという夜、最後に公園の丘から家族全員でアパートのあった場所を見ました。半分近くが燃えただけでしたが、安全のため全部が取り壊されていました。他の住人はもう別な場所に移り住んでいました。
パパは二部屋向こうに住んでいたおばあちゃんについて聞いた事をみんなに話しました。おばあちゃんは火事の時、避難させようとしても最後までトコとリクの事を心配して部屋に見に行こうとしていた事を。実際にはその時にはとっくに二人は路面電車の停留所まで行っていたのですが。
なんでもおばあちゃんの息子は働いていた工場の火事が原因でまだとても若い時に亡くなったのだそうです。
アパートが花壇で囲まれていた理由についてもパパは話しました。元々アパートを立てた大家さんの夫婦が安全目的のために作った花壇だったのです。窓を広く作っているので、その窓から小さい子が落下した時、花壇がクッションとなり、重大な事故にならないようにするためでした。
それに季節ごとの花が咲いている事で、アパートの住人が部屋に戻った時、ここが自分の場所なんだという幸せな気持ちになれるようにとの思いからでした。
大家さん夫婦は息子にアパートの管理を任せてからも花の世話だけは続けていました。自宅のプランターで栽培した花を定期的にアパートに持ってきては入れ替えていました。春にはマーガレットやキンセンカ、夏にはオシロイバナや朝顔、秋にはコスモス、撫子、冬にはスノードロップと、予告なしに様変わりする花壇は住人たちの楽しみでもありました。
だからトコとお兄ちゃんが遊んだ記憶の中にはいつも花の思い出がいっしょにあるのてした。
ママは言いました。
「私、これからたとえ白亜の豪邸に住んだとしてもここ程、好きになれないかもしれないな…」
トコとヒロキお兄ちゃんはこれまで遊んだ道や丘までの坂を名残惜しそうに見て思い出していました。風の強い日、雪の降った日、トコがいつもお兄ちゃんの後を追いかけていた日々を。
――新しい家も花が植えてあるといいな――
――そうだ、花を植えよう――
二人はそれぞれ心の中でそう考えていました。
―――――――――――――――――
これが昔々、花壇に囲まれたアパートに住んでいた小さな女の子とその家族のお話。世話が焼けるし、泣き虫で甘えん坊で、おっちょこちょいだけど、いざという時はとても賢くて勇気のある、そして思いやりが何より大事って知っている僕のカノジョ、琴美――トコトコ歩くのでトコというニックネームだった――とその家族の…。三世代同居の花がいっぱいの明るい家に遊びに行くと、両親のそれぞれから思い入れいっぱいで話される、家族の歴史。
サンダルでダッシュ/トコと花ざかりのアパート 秋色 @autumn-hue
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