帰省

鳥小路鳥麻呂

帰省

 木々の枝枝を、その葉の隙間を抜けて日差しが差し込んできて石の上に明るい模様を描いた。幣原は、その手前を流れる小川に沿ってそこへ辿り着いた。田舎の、懐かしい香りが、彼を感傷的な気分にさせた。小川はきらきらと光って、彼の視界の片隅を彩った。小さな虫がいるが、トンボはまだいない。彼はトンボに会いたかった。しかし、季節が合わない。彼ははるか遠い記憶を思い出した。


 大学生になって初めての春休みを利用して彼はここへ来た。この一年の反省をするために。ここは、かつて彼の暮らした町だ。ここでは、高校卒業までを過ごした。大学生になってから彼は東京に引っ越したが、東京の大学に行きたかったわけではない。ただ結果としてそうなるより外になかったのだ。大学生活は単調で詰まらなかったが、国立大学に行かれなかったことが親に申し訳なく、何とか特待生になって学費を免除して貰うために、一所懸命勉強した。だから、大学では優等生になったし、ために何人かの同学や先生は、彼を好意的に評価し、尊敬さえした。しかし、彼の心は満たされず、結局のところ、骨の奥まで染み入った動かし難い劣等感は、拭い去ることができないのであった。ために、彼はいつも不機嫌で、又、暗かった。


 いくら探してもトンボはいなかった。ただ川の流れる音だけが、彼の耳を優しく洗った。

 彼はしばらく呆然としていた。川の流れに耳を澄ませると、いろいろなことを思い出したが、それらの一切が彼を暗鬱な気分にさせた。失われた青春を、少年時代を、しかし、彼はもう二度と取り戻すことはできないのだ。何かが足りない、と彼は思う。いつも何かが足りない。


 やがて、どこからか子供の声が聞こえた。

 楽しそうに遊ぶ無邪気な子供たちを見ると、彼の追憶は加速した。

「嗚呼、懐かしい声だ。俺もあの頃は、あんな風に屈託のない声で笑ったかしら。」と呟くと、静かに風が吹き抜けた。

 彼は歩き出した。


「おい、シデ。見ろよ、あれはオニヤンマだろ。」と加藤の声がして幣原は石の上に視線を移した。

 そこには、いまだかつて見たこともないような、大きなトンボが羽を広げていた。日差しが、その透明のダイヤモンドのような四枚の羽を輝かせた。

 二人の少年は息を呑んだ。

「ああ。きっとそうだ。あれはオニヤンマだよ。」と幣原は小声に言った。「慎重に行こう。気付かれるなよ。」

「うん。」

 網を構えてそっと近付いてトンボを捕まえた。加藤が駆けて行き、その昆虫を虫籠に移した。

「やったぜ。」

 二人は小川に沿って歩いた。虫籠を持った加藤は、その中を何度も覗いては満足そうにほくそえんで

「へっへっへ。これで栗山の野郎に自慢できるな。」

「そうだな。あいつは無理だと言ったが、俺たちは確かに捕まえたんだからな。しかし、でかいなあ。」

「ああ、本当にそうだ。こんなにでかいトンボを見たのは初めてだよ。」


 その後、幣原がオニヤンマを見ることはなかった。


 駐車場に停めたセダンの運転席で、幣原はフロントガラスを通して見える一面の木々を凝視していた。何かを考えようとし、それを言語化しようとしては、上手くいかずに言葉を選び直した。鳥の声がする。


 しばらくぼうっとしていた。長い時が経ったようであったが、実際は五分も経っていないようだった。

 突然、電話が鳴った。

「はい、幣原。」

「あ、俺だけど。何してる?」

 相手は、大学の友人の宮下であった。入学したばかりで彼がまだ友達作りに脅迫的だった頃、誤って仲良くなってしまった友人だ。あの時は、とにかく友達を得なければならぬと焦っていたので、つい話し上手な彼と親交を持ったのだ。しかし、後々になって思えば、彼は幣原とはまったく別のタイプの人間であり、その不協和が幣原をして宮下との会話を不愉快に感じさせた。どうしても彼との会話は退屈だった。

「今、旅に出てるんだ。」

「旅? 何だよそれ。明日の飲み会は?」

「飲み会?」と彼は腕時計の文字盤の片隅にある日付を確認した。

 しまった、と思ったが、もうどうでもよいことだった。

「そうだよ。女子大の女の子が来る大切な飲み会だぞ。まさか、来られない、とか言わないよな?」

 宮下は高圧的に言った。自分を兄貴分と勘違いしているようだ、と幣原は密かに反発した。彼は、今から帰る気にはならなかった。この一年、何とか前に進みたくていろいろなことをした。高校時代までの人間関係から脱却し、誰かの下僕であることでしか生きられない弱い自分を変えるためになるべく積極的に振舞った。しかし、所詮は誤魔化しである。結局のところ、いくら明るく振舞っても、明るくなることはできない。そして、ある程度無理をした後は、いつもこうなる。つまり、すべてを投げ出して閉鎖的な自己の精神世界に埋没していくのだ。今の幣原は、すべてを拒絶していた。

「すまん。ちょっと明日には帰れそうにない。そのことすっかり忘れていた。代わりに誰か他の奴を誘ってくれ。」

「この野郎、勝手過ぎるぞ。お前がいなくてどうするんだよ。明日のこと言い出したのはお前だろ。」

「状況が変わったのさ。」

 状況・・・・・・。そう、今ではすべてが変わってしまったのだ。片山葉子のことも、もう今となってはどうすることもできない、と彼は思った。小さく溜息をついた。彼女がその女子大にいるとしても、そして、その飲み会に来るとしても、もう彼にはどうでもよいことだ。いや、そうではない。しかし、とにかく今は目を背けていたいのだ。

「は?」と、宮下は憤慨した。

 一体何を恐れているのだろう? 幣原は、もう切ろうと思った。

「すまん。携帯の電池が切れそうだ。」と、嘘をつく。

「おい、待て。切るな。」

 躊躇いもなく、彼は切った。そのまま電源も切った。

「迂闊だったぜ。折角旅に出ているのに、携帯が鳴ったら意味がない。」

 外を見ると、もう昼時であった。彼は車を出た。


 教室では、十数人の生徒の群れが幣原たちを囲っていた。彼は虫籠を机に置き、彼ら全員に向かって誇らしげに説明した。

「見ろ、でかいだろ。これがオニヤンマだ。」

 周囲は感動のあまり引きつったような表情をしていた。全員が彼ら二人に恐れ入っており、それが幣原の優越感を満たした。

「おお、すげえ。」と、栗山が言った。加藤は彼を見て

「どうだ、栗山。お前は無理だと言ったが、オニヤンマはここにいるんだ。」

「うん。すごい。素直に認めるよ。」

「へっへっへ。」と、加藤は笑った。


 その後、幣原は虫籠をランドセルの中に隠しておいたが、帰りに見ると、ヤンマは死んでいた。その虫籠を持ち、中の死骸を悼みながら、彼はゆっくりと歩き、気付けばある公園にいた。ベンチに腰掛け、いつまでもトンボを見ている幣原に、やがて通りかかった同級生の片山葉子は気が付いた。

 彼女は躊躇いがちに近付いた。

「幣原くん?」と、怪訝な顔で聞く。

 彼は顔を上げた。

「片山さん?」

「何してるの?」

「トンボが死んだ。」

「そう。」

 二人はしばらく無言で見詰め合ったが、やがて幣原が目を逸らした。夕日が足下を照らしていた。非常に居心地が悪かったが、お互いに相手の言葉を待っていた。


「ねえ、」と、片山が言った。

 幣原は、彼女を見た。しかし、それ以上は続かなかった。

「また明日。」

「うん。」

 去り行く少女の後ろ姿を、幣原は泣きたくなりながら見た。そして、この日から彼女を、片山葉子を好きになった。

 しかし、結局思いが届くことはなかった。


 大学生になって半年くらいした頃、彼は片山葉子と再会した。彼女は、彼よりも偏差値の高い国立大学に通っていた。二人は、電車で会った。幣原が先に気付き、彼女を追いかけた。

「片山さん。」と呼び止める。

「え?」

「幣原だよ。久しぶり。」

 笑う幣原に、しかし、彼女は戸惑った表情をした。それは、嬉しいとか不愉快だとか、そういった単純な感情ではないようだった。彼女は笑顔を作った。

「どうして?」

「たまたまでしょ。」

「どこへ?」

「美術館だよ。」

「そう。」

 二人は改札を出た。彼は、無理矢理に彼女を誘った。そして、二人で美術館に行った。


 さまざまな思い出を胸に、幣原は一人で遠い町並みを歩いた。景色も香りも空気も懐かしかった。

 ふと、地面に鳩の死骸を見た。烏が駆け寄って来てそれを啄ばんだ。痛ましい光景であった。しかし、もとよりそれは仕方のないことだし、そうあるより外にないのだ。彼は、現在の自分を思って無性に情けなくなった。毎日をその場しのぎで過ごしている。サークルもゼミもやめた。すべてを成り行きに任せて優柔不断に決めてきた。かつてここで学生時代を過ごした頃には、すべての可能性は彼の手の中にあった。しかし、怠惰という疫病の惨禍によって、彼の人生は考え得る限りの惨めさを受け入れるより他になくなった。片山葉子や加藤を思い出しても、彼らと自分との住む世界が今やまったく異なる次元になってしまったことが悲しい。恋も学歴も、希望も失ったように思えた。


 しばらく歩くと、また公園に戻ってきた。小川を辿り、かつてオニヤンマを見たあの石まで行くと、すべてが一巡したように感じられた。ここからやり直そう。もう一度生きなければならない。少しだけ勇気が出たような、そんな気がした。


 彼は黙って車まで帰ると、背凭れに寄りかかって静かに目を閉じた。


 厳かな美術館の中で、二人の男女は互いの十年間を振り返っていた。小学校から高校まで同じ学校にいながら、どうしてこんなに遠いのだろう、と互いに考えるが、それはどうしても運命としか言えないように思う。彼が彼女を愛したことも、彼女がそれを知りながら拒んだことも、それでもなお彼が諦め切れないことも、結局はどうすることもできないのだ。誰かが悪いわけではないし、誰かが特別に不幸なわけでもない。今はまだ。

「あなたとは、会いたくなかったわ。」と、彼女は言った。

 彼は彼女の横顔を見た。彼女は、視線を前に固定して動じなかった。

「どうしてそんなことを言うの?」

「応えられないからよ、あなたの気持ちには。」

 何か答えようとしたが、しかし、言葉が出なかった。仕方なく、幣原は黙って目の前の彫刻を見た。

「会えてよかったよ。」

 やがてそう言って彼女を見た。彼女も彼を見た。

「もう行くわ。」

「うん。」

「さようなら。」

「うん。」

 彼女の靴のかかとが床を打つ音が、部屋全体に空しく響いた。だんだんと遠ざかっていく青春の日々に、僕らは何一つ抵抗できない。幣原は、もうやめなければならないと決意した。片山葉子は、もういない。もう二度と、彼に微笑むことはないのだから。


 それでも、彼は忘れられなかった。もはや愛とはいえない、ただの醜い執着となってしまった初恋に対し、これに別れを告げることもできず、彼は星空を見たくなって自動車のドアを開けた。曇っていて星は見えなかったが、懐かしい風が心地よい静けさを運んだ。


(終わり)



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帰省 鳥小路鳥麻呂 @torimaro

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