5-11 coda(コーダ)
「あなたがこれを持ってくる日を……楽しみにしていましたよ」
鶴見惣五郎は舞香から手渡されたサンプルCDを手に取り、嬉しそうに眺めていた。
「でも、ちゃんと厳しく批評して下さい。……いや、あまり厳しくしないで欲しいって言うか……」
「あなたの言いたいことはわかりますよ。無論私は自分の天職に恥じるようなことはしないつもりですが、心配はいりません。あなたがこれまで地道に積み上げたものを誇りに思うべきです」
舞香は立ち上がり、深く頭を下げた。
さやかは鶴見惣五郎の評価が気になって生きた心地がしなかった。そもそも会社の重役連中を説得するのも必死で、プレッシャーもあった。
そうして満を持して音楽新報のゲラが届けられた。さやかはそれを手にして目をつぶり、まず祈った。そして恐る恐る目を開けると……
★★★★★
「町村樹の録音で有名なカノクラシックスの新盤。ほとんど音をいじらない狩野氏の録音ではごまかしというものが通用しない。そんな過酷な条件下で繰り広げられる完璧なインプロヴィゼーション。まさに珠玉というより他ない」
その他にも、カザマや舞香を絶賛する言葉が連ねられていた。鶴見氏がいかにこの録音に感銘したかが、文面にあらわれていた。さやかは思わずやったーと叫び、周囲から不審な目で見られた。
音楽新報当月号が発売されると、鶴見氏の評論は音楽ファンたちの注目を浴びた。あの辛口評論家が絶賛したということで、カザマ・ムラービトと北嶋舞香のデュオCDは発売前から話題沸騰となり注文が殺到した。発売記念コンサートも東京、名古屋、大阪、福岡で開催され、各地ともチケットは完売、大入りとなった。つまるところ今回の企画は、リーダーズミュージックや堂島エージェンシーに多大な利益をもたらしただけでなく、クラシック音楽界きっての大金星となったわけである。
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それから数カ月後、パルマ・デ・マヨルカ……
「暑っ……!」
飛行機を降りたさやかは、焼けつくような地中海の熱気に煽られた。トランジットで降りたフランクフルト空港が寒かったので、その差が激しい。
「日本だと東北くらいの緯度なのに、随分暑いですよね……」
と舞香も言う。ターミナルまではバスで移動となっていたが、乗車前に慌てて上着を脱ぐ旅客も多い。ゲートを出ると、既に当地に数週間滞在していた一条寺若菜が迎えに来ていた。
「あ、来た来た。おおい、こっちー!」
手を振る若菜にさやかは駆け寄り、舞香と引き合わせた。
「北嶋舞香です、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。どこか行きたいとこあります?」
「うーん、やっぱりショパンが滞在したというカルトゥハ修道院でしょうか……」
「オーケー、じゃあ早速行きましょう!」
三人は若菜が用意した車に乗り込んだ。パルマからしばらく走ると山間部に入り、クネクネとした山道を行く。若菜の運転は左右によく揺れて酔いやすく、長旅直後のさやかにはキツかった。一方、舞香は平然としていて、「ショパンがここにいた時ってかなり健康を害していたそうだけど、自動車もなかった時代によくこんな険しい道を登ってこれたものだわ……」と、誰にともなくつぶやいた。さやかも車窓をみながら、心の中で同意する。これでは療養というよりむしろ修行だ。
ショパンにさほど関心を示さない若菜がさやかに話を振る。
「それにしても、社長賞がマヨルカ旅行だなんて……金一封というわけにはいかなかったの?」
「うん。税金の関係で現金は渡せないんだって」
ちなみにマーシャルも仕事の一環として舞香に同伴するように進言した。むろん費用は会社持ちである。
カルトゥハ修道院に入り、まず目に入ったのは二体の巨大な人形だった。左にはいかにも気の強そうな女性、右にはいかにも病弱で気の小さそうな男性……ジョルジュ・サンドとショパンだった。以外にショックを受けているのは若菜だった。
「これ、ショパン!? 病弱で、今にも死にそう……」
実際、展示を見ていると、当時のショパンがいかに弱っていたかが伺える。だが、山景の見渡せるテラスにいくと晴れやかな気分になれる。
「ここに落ちる雨粒の音で『雨だれのプレリュード』を思いついたというけど、これだけ晴れてるとよくわからないわね……あいにくの晴れとでも言うべきかしら」
舞香が少し冗談めかして言った。
修道院を出て、レストランに入った三人はパエリアを注文した。それを街角ながら舞香が若干ためらいがちに言った。
「あの……さやかさん、ウチに来ませんか?」
「え? もしかして舞香さんが来たのって、その話をするため?」
「……すみません」
「いやいや、あやまることじゃないし、とても光栄だし、だけど……私、やろうと思っていることがあるんです」
「やろうと思っていること?」
若菜が代わりに答えた。
「さやか、会社を辞めて故郷の博多で事業を始めるんですって」
さやかが頷いて話をつなぐ。
「九州方面って、アーティストの卵はすごく多いのに、首都圏と比べるとやはりチャンスは少ない。だから私がこれまで堂島エージェンシーで掴んだノウハウを生かして、発掘したいと思ってるんです。若菜のお父さんも支援してくれるって……」
「まあ、素敵! 私にも出来ることがあったら協力させて下さい!」
「ぜひぜひ、マイさんの協力があったら百人力よ!」
✈︎
旅行を終え、成田空港に降り立ったさやかは、退職をどうやって告げようかと悩みだした。社長賞までもらって言いづらいのもある。そうして悶々としていると、横にいた舞香が「あっ」と声を上げた。目を上げると、そこに蔵野江仁がキャリーバッグを手にして立っていた。
「ほう、二人揃って海外旅行か。気楽なもんだな」
「蔵野さんこそ……これからどちらへ行かれるんです?」
「デュッセルドルフに戻る……ピアノを遠ざける理由がなくなったものでな」
「理由ってノートルダム寺院の願掛けのことですか、じゃあ舞香さんのこと、認めたんですね!」
「認めるも認めないも、もう大人なんだ、好きにすればいい」
そう言って二人の横を通り過ぎようとする蔵野に舞香が「お父さん!」と呼び止めた。蔵野は思わず振り返る。
「お父さん……これからそう呼んでもいいですか?」
舞香は切実に問いかけるも、蔵野の表情は読み取れない。やがて蔵野は前を向き直り、
「達者で暮らせ。これから忙しくなるだろうが、気が向いたらたまに遊びに来い。そこの無駄に元気な女とでも一緒にな」
「はあ!? 失礼な呼び方しないで下さいっ!」
さやかの叫び声に応えるように蔵野は背を向けながら手を振った。
蔵野が角を曲がると、背後から声をかけられた。
「せっかくの親子の対面だと言うのに……ハグでもしてあげれば?」
声の主は……ふくよかな体型、ドレッドヘアにカラフルなレゲエファッションに身を包んだおばちゃんだった。
「相変わらず世話焼きだな。……ところであんた、本当はマムシ指なんてとっくに克服しているんだろ。どうしてわざとそんな弾き方をした?」
「さあ……何のことだか。それよりあなた、杵口さんに秘技を伝授するとか言って、ホールを抜け出して安恵ちゃんの墓参りに行っていたでしょう、杵口さんと一緒に」
「ふん、北嶋先生の霊に頼ったとでも言い出すつもりかね。杵口がキッチリやり過ぎるから時間を置いて調律を風化させただけだ。その間ガンガン暖房入れてな」
「それで……杵口さんは何か学んだ?」
「〝適当〟の真髄だ。ああ言う完璧主義者は人間が呼吸をする生き物だと言うことを忘れている。それに気づくキッカケを与えただけだ」
「それで成長できるかどうかは本人次第……というわけ」
「ああ。……おしゃべりの相手はそろそろいいか?」
「ええ。気をつけて行ってらっしゃい」
「うむ」
そして数歩進んだところで、蔵野は思い起こしたように言った。「舞香のこと……よろしく頼む」
だが振り向くと、そこにレゲエおばちゃんの姿はなかった。蔵野はフッと一息つくと、再び前に向かって歩き出した。
完
エヒトクラング 緋糸 椎 @wrbs
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