5-10 売り込み戦略

 長い沈黙の後、杵口は大石内蔵助おおいしくらのすけ吉良上野介きらこうずのすけと対峙するような顔つきになって蔵野を睨んだ。「あんたの指図だって? ……冗談じゃない。私はあんたを反面教師として精進してきたんだ」

「だがそのおかげで君は今の地位に登りつめたんじゃないのかね?」

「何を言っている?」

「心外かもしれんが、北嶋先生はこの私が君を育てたと思っているのだ。親ライオンが子ライオンを谷底に突き落とすようにね。それを信じるか信じないかは君次第だが、私の持てるものを君に伝授することが亡き彼女への弔いだと思っている」

 北嶋先生の名前が出たことで、杵口は少し態度を緩めた。あたかも抜いた刀を鞘に収めたかのように。

「わかった、あんたの指図通りに調律しよう。……で、どうすればいい?」

「それは現場で話すとしよう」


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 その数週間後、ヨントリーホールにてレコーディングが行われた。当初マーシャルの希望で大ホールを押さえていたが、狩野が音響的に小ホールの方が録音に適していると主張したので、急遽小ホールに変更となった。

 楽器や反響板の位置を試行錯誤していたため、なかなか調律作業に入れなかった。さらに、蔵野自身が調律するものとばかり思っていたカザマ・ムラービトがゴネだした。

「話がちゃうわ!」

「安心したまえ。杵口君は技術的には私より上手い。私が指揮者で彼が奏者なのだよ」

 そうして何とかカザマをなだめ、杵口も調律することができた。

「……で、どのようにすれば?」

 杵口が半ば苛立たしげに、蔵野の指示を仰ぐ。

「さっきカザマの言動を見ただろう。だ」

「って、どんな感じなんだ……」

 しかし蔵野はまともな回答もせずにホールの座席にドッカと座った。杵口はを一所懸命に思い浮かべながら、調律作業を進めていった。終了後、カザマがピアノをチェックした。ピアノに否定的だった割には結構な腕前だった。しかし……

「あかん。これやったらただのピアノや。やっぱりがせなあかん」

 杵口はやってられないとばかりにため息をつく。そしてマーシャルは手を合わせて蔵野に頼み込む。

「すみませんが、蔵野さん自身でやってもらえませんか」

 一同の期待の目が降り注ぐ中、蔵野はしかたないというように言った。

「わかった。君たちの望む通りにしよう。ただし、杵口君以外はここから出てくれ。これから彼に秘技を伝授するからな、覗き見するようなこともしないでくれたまえ」

 そうして追い払われるようにさやかたちはホールの外に出た。


 さやかたちが適当にお茶を飲んで時間をつぶし、ホールに戻って来たときにはもう作業は終わったという。そこでカザマが再び試弾した。すると、

「おおっ、さっきと全然違うわ! 秘技や言うてたけど、いったい何をしたんや?」

 その目は杵口に向いた。だが杵口は蔵野にチラッと目をやりながら、

「いや、それは私からは何とも……」

 と口ごもらせた。蔵野も、

「さっきも言っただろう、秘技だとな。正式に伝授する者以外に話すわけにはいかないのだよ」

 一同は狐につままれたようになった。ともあれ、カザマがピアノに満足したことでレコーディングは順調に滑り出した。二日間まるまるホールにこもりきりの作業だったが、時間が経つのはあっという間に感じられた。


 録音は完了したが、堂島エージェンシー側ではどうやって売り込みをかけるかということが課題となった。全国規模のツアーを企画するとなると、やはりそれなりの売り上げ見込みが必要となってくる。はじめから難色を示している小早川副社長はコメントもシビアだ。

「そもそも知名度ゼロのアーティストなのに、CD企画とタイアップで全国ツアーを組むなど、ドブにカネを捨てるようなものじゃないか!」

 堂島社長は半ばそれを宥める目的で発言する。

「誰か、可及的速やかに話題をさらうアイデアはあるかね」

 すると営業課の〝接待の鬼〟黒田説郎の手が上がった。

「YouTubeのインストリーム広告はどうでしょうか?」

「インスタ……なんなんだね、それは!?」

 小早川副社長が苛立たしく聞き返すが、黒田はソフトに答える。

「YouTubeを見ていると時々広告が挟まれるでしょう、あれですよ。だいたいはスキップされますが、興味を引くと思わずそのまま見てしまいます。宣伝効果は抜群ですよ。昔から日本ではテレビコマーシャルでクラシック曲が有名になるケースが多いんです。ショパンのプレリュード7番も太田胃散のコマーシャルで知られていますし、ピアソラのリベルタンゴやドボルザークのピアノ五重奏曲もテレビコマーシャルで有名になりました。そういう例は枚挙に暇がありません。昨今ではテレビからYouTubeに視聴者が移りつつあるので、インストリーム広告が最適だと思います」

 黒田の発言を聞いて、堂島社長は手をポンと打った。

「よし、それでいこう!」


 ところがその話を聞いた狩野が反対した。

「私の録音は圧縮音源で再現出来ないところに持ち味があるのです。YouTubeで宣伝しても全く意味がありません」

 さやかは頭を抱えた。達人のこだわりには敬意を払うが、売れないことにはどうしようもない。会社に戻って狩野の反対を報告すると、前田課長が鬼の形相で突き返した。

「もう上が決めたことなんだよ。何とかして狩野とやらを説得しろ!」


 さやかはその瞬間仕事が嫌になった。どうしてこうみんな頑固なのかしら。そう思っていると、携帯が鳴った。母親からだった。

「また連絡がなかけん電話したっちゃけど、元気でやっとおと?」

「うん、まあ……」

「あら、しょぼくれとおね。あんた、東京ん空気が合うとらんけん、こっち帰ってきたほうが良かやなかと?」

 福岡かあ、それも、悪くないかも。もう充分頑張ったよなあ、私……などという思いが頭をよぎったが、ハッとしてそれを振り払うようにさやかは頭をブンブン振った。

「ごめんねお母さん。私、東京でまだやることあるけんっ!」

 振り切るように通話を切ると、さやかは駆け出した。どこへ? わからない。でも、走るのをやめると全てが止まってしまいそう。だから走り続ける。そして気がついたらカノクラシックスの前に来ていた。たまたま出てきた舞香が驚いた目でさやかを見た。

「どうしたんですか、そんなに息を切らして」

「はあ、はあ、あの、YouTubeがダメでも他にやることがある気がして、あきらめないでそれを探したいの!」

 舞香はしばらく考えてから答えた。

「さやかさん、覚えてます? 音楽評論家の鶴見惣五郎さん。もし彼の好評が得られたらこれ以上の宣伝はないと思うの」

「覚えてるも何も、あの辛口評論家でしょう。グレイス・ニューイェンではたまたま良い評価をくれたけど、悪評がほとんどで、そのせいで演奏家生命を絶たれたアーティストも多いと聞いてますよ」

「確かにそうですけど……何となく今回のCD、あの人の良い評価を引き出せそうな気がするんです。一か八かだけど、やってみませんか」

 舞香の目は自身に満ちていた。それに勇気づけられ、さやかも鶴見氏の評価にかけてみようと思った。

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