来歴6 蔵野江仁

 前にも話したかもしれないが、私のドイツ行きを提案したのは北嶋先生だ。仕事上で彼女の信頼を勝ち取って以来、長い年月の間に徐々に親密度を増し、その付き合いは仕事上だけでなくプライベートにまで及んだ。側から見れば立派な恋仲だったかもしれない。

「蔵野さん、あの人いいんじゃない?」

 そう言ってけしかける、お節介なおばちゃんもいたほどだ。しかしどれほど親しくなっても我々の共通言語は相変わらず敬語であり、互いの呼び方は北嶋先生、蔵野さんであった。


「あなたにはドイツが向いているかもしれない」

 北嶋先生がそう言ったのは、私の仕事でクレームが多発していた頃のことだった。

「交換留学でドイツにいた時のことを思い出してそう思ったんです。あなたって腕はいいのに、話し方で誤解を招きやすいんですよね。でも向こうなら純粋に腕前だけを見てくれるから、きっと成功すると思います」

 私はその言葉に触発され、ドイツでの働き先を探し始めた。だが当時は今のようにインターネットが普及しておらず、情報探しでまず苦労した。ようやくあるピアノ工房で技術者を募集しているとの情報を得ても、問い合わせてみる頃にはもう他に採用が決まっていたりする。さらに、この業界では海外での職探しをしている者を、食い物にするような連中がいることも知った。ある時、学校時代の同期生から電話がかかってきた。

「蔵野、ドイツで職を探しているんだって? いい話があるんだ」

 その同期生が勤めていたピアノ工房はドイツやイタリアの工房と提携しており、彼が私のことをそこの社長に話したら、それらの工房の一つを紹介してくれるという。

「……ただし会社としては、どこの馬の骨ともわからない奴を大切な提携先に紹介するわけにはいかない。だから、形だけでも一定期間ウチで研修してもらうことになる」

 チャンスだと思う反面、どこか腑に落ちない私はこのことを北嶋先生に相談してみた。

「私にはよくわからないけど、蔵野さんが心の奥底で疑わしく感じてるのなら、やめた方がいいのでは?」

 その一言で私は同期生の申し出を断る決断が出来た。後から知ったのだが、その工房は研修と称してタダ働きをさせる悪徳な業者だったのだ。しかも同期生が私にしたように、カモを捕まえて来るよう絶えずプレッシャーをかけられているとのことだった。

 そんなこんなでドイツでの職探しには苦労していたが、北嶋先生もまた楽な気持ちで傍観していたわけではない。その間に彼女の両親はしきりに見合い話を持ちかけてきたという。その都度彼女は『私には心に決めた人がいます』と言って断り続けていたらしい。そんなプレッシャーに耐えながらも、彼女は私のドイツでの働き口に望みを託していたのだ。


 そうして月日が流れ、ようやくフランクフルトでの求人情報を掴んだ。数回に渡るやり繰りの末に、正式に採用が決定した。私は北嶋先生と二人で小さな祝賀会を自宅で開いた。彼女は本物のシャンパンを持参した。大切なことを祝うためにとっておいたものらしい。

 私たちはそのシャンパンを開けて語り合った。色々な苦労を思い出しては笑い合う。私は柄にもなく、いつまでもこの時間が終わらなければいいと思った。それから……二人がどうなったか、それを訊くのは野暮と言うものだろう。


 翌朝、目が覚めると彼女の姿はなかった。テーブルの上には彼女直筆の置き手紙があった。


──おめでとう。そして、さようなら──


|| ||| || |||


 それから彼女とは連絡がつかなかった。電話には出ない。一人暮らしをしていた自宅マンションも引き払っていた。なぜ急に姿を消したのか、わからないまま私はフランクフルトへ飛び立った。


 

 彼女の消息について聞いたのはその翌年のことだった。私が住んでいたWG(シェアハウス)に不思議な女性が現れたのである。ふくよかな体型、ドレッドヘアにカラフルなレゲエファッション。誰だと尋ねれば、北嶋先生の遠い親戚で名をエイミと言う。

「安恵ちゃん、女の子を産んだわ」

 彼女の発言はまさに青天の霹靂だった。

「もしかして……私との間にできた子か?」

 エイミは満面の笑みで頷いた。

「まさか、彼女とはたった一度きり……」

「ええ、本当に幸運だこと」

「幸運って……それで彼女は私に認知を求めているのか?」

 エイミは太い首を横に振った。

「安恵ちゃんは私がここに来ることを知らない。ただ私はあなたに喜びの知らせに来たの。おめでたい話だからね」

 それだけ言うと、エイミは消えるように去った。

 私は弁護士に相談し、総領事館を通じて北嶋舞香の戸籍に認知届を出した。もしかしたら北嶋先生に拒まれるかと思ったが、まもなく総領事館から認知受理の通知があった。



 次にエイミが現れたのはそれから十年以上後のことだった。前回のような派手な格好とは打って変わって、真っ黒な喪服姿で現れた。

「安恵ちゃん、亡くなったわ」

 予想もつかない知らせに私は言葉を失った。全く信じられないことだったがエイミは冗談で言っているように見えなかった。

「まさか、何かの間違いだろう……」

 私はそう言うのが精いっぱいだった。間違いでないことは頭では分かっている。

「末期の乳がんだった。本人の希望で緩和医療にしたの。最後は安らかだったわ」

「なぜ……なぜ彼女は私に知らせてくれなかったんだ」

「彼女は……誰よりもあなたの成功を願った。彼女は言っていたわ。あなたは人を突き放すことで相手を成長させる人だと。だからそれに倣ったんだって……」

「そんな……」

 私は唇を噛み締めた。私は意図的に誰かを育てようと思ったことはない。でもそう思われたことで彼女にこんな決意をさせたのなら、なんと浅はかだったことだろう。「娘は……舞香は大丈夫なのか?」

「彼女は気丈よ。祖父母のもとに引き取られたけど、馬が合わないみたいね。もしあなたを訪ねてきたら……やさしくしてあげてね」

 それだけ言うと、エイミはまた消え去った。

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