先輩、好きです。私のセフレになってください

九頭七尾(くずしちお)

短編

風間玲二かざまれいじ先輩……。あたし、先輩のことが……ずっと好きでした」


 放課後。校舎の屋上。

 夕日に照らされ、頬が赤く色づく少女。

 いや、赤らんでいるのは恥ずかしさのせいか。


 先ほどまでグラウンドから運動部の声がうるさかったが、今はまるで耳に入ってこない。

 俺の心は今、目の前の少女に鷲掴みにされてしまっていた。


 それもそのはず。

 彼女の名は三月凜みつきりん

 俺の一つ下の高校一年生で、クラスの男子たちの間でよく噂になるほどの美少女なのだ。


 髪を明るく染め上げ、薄っすらと施されたナチュラルメイク。

 それが整った顔立ちをさらに際立たせている。

 渋谷辺りを歩いていたら、芸能界にスカウトされてもおかしくない。


「だから、お願いします……あたしの……」


 まさかそんな相手から告白されるなんて……。


 しかし生憎と彼女の気持ちには答えられない。

 なぜなら俺には――



「あたしのセフレになってください」



「……は?」


 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 今、何て言ったんだ?

 俺の聞き間違えだろうか……?


 いや、そのはずだ。

 こんな美少女からセフレなんて言葉、聞くはずなんてないのだから。


「す、すまない。もう一度、言ってくれないか?」

「先輩にセフレになってほしいんですけど」

「聞き間違えじゃなかった!?」


 俺は思わず頭を抱える。

 なにこの子、高一にしてすでにビッチなの!?


「あー、分かった。俺のこと、揶揄ってんだろ。やめろよ、そういう遊び。いつか絶対、痛い目を見るぞ」

「え、マジなんですけど?」

「じゃ、じゃあ、何で……セフレなんだよ」


 口にするのも憚られる言葉だが、先輩男子としてはここで躊躇してはならない。

 童貞だってバレるの恥ずかしいし。


「だって、彼氏とか彼女とか、めんどいじゃないですかー」


 事もなげに、三月は言った。

 それから吐き捨てるように、


「関係を維持するために、放課後は一緒に下校してー、RINEが来たらすぐ返事してー、休日はデートに行ってー、とか、マジでめんどい。挙句の果てには、他の男と仲良くするのもダメ」

「最後のはともかく、好き同士だったら普通は嬉しいと思うが……」

「好き同士だからって、面倒なものは面倒でしょ」


 女子高生のくせに冷めてるな……。


「その点、身体だけの関係は楽でいいと思いませんか? お互いの都合のいいときだけ会って、溜まったモノを吐き出す。嫌になったらサヨナラ。相手の気持ちが離れてしまったんじゃないかとか、他の女に取られたらどうしようとか、そんな馬鹿馬鹿しい不安に駆られる心配もない。完全に割り切った、後腐れなしの都合のいい関係――」


 普通の女子高生が抱くような恋愛への憧れとはかけ離れた考えを口にしながら、三月がゆっくりと近づいてきた。

 ふわりと香る、甘い女の子のにおい。


「いいと思いませんか、せ、ん、ぱ、い?」


 そして小悪魔めいた上目遣いから放たれる、悪魔のような囁き。


 俺はつい、彼女の身体を上から下まで見てしまう。


 小柄なくせに制服のリボンが押し上がるほど豊かな胸。

 短いスカートから伸びるすらりとした白い足。


 彼女と身体を重ねてしまうところまで想像したところで、俺は慌てて首を振った。


「ま、待て! 俺にはそんな気はない! だいたい、彼女がいるんだよ! それもつい最近、できたばかりの!」


 そう。

 俺には彼女がいるのだ。


「中学の頃からずっと好きだった人だ。美人で、清楚で、優しくて……俺には勿体ないくらいの人なんだ」

「三年の七瀬鈴ななせすず先輩ですよね?」

「っ……何でそれを……?」

「先輩、凄いですよねー。あんな高嶺の花を射止めちゃうなんて」


 三年生の七瀬鈴先輩は、学校でも一、二を争う人気の女性だ。

 中学の時から部活が同じだったこともあり、俺はずっと思いを寄せていて、つい先日、意を決してその気持ちを伝えたのだ。


 そうしたらなんと、信じられないことにOKをもらってしまったのである。


 ただ、そのことはまだ誰にも言ってないはずなんだが……。

 何でこいつが知っているんだ?


「そういうわけだから、君の期待には応えられない」

「えー、でも、あたしが求めてるのは先輩の彼女じゃないですし。セフレですよ、セフレ? セフレなら浮気じゃないと思います」

「いや浮気だろ!?」

「バレなきゃいいんですよ、バレなきゃ」


 バレなければ……。

 きっと世の男たちは、そんな軽い気持ちで手を出してしまうのだろう。

 そうして破滅への道へと突き進むのだ。


「悪い。無理だ。俺は七瀬先輩を裏切ることはできない」


 俺はそんな間違いは犯さない。

 正しい選択をし、先輩への愛を貫く。


「ふーん……」


 だが三月は、引き下がるどころか、ニヤリと口の端を吊り上げ、言った。


「でも、知ってるんですよー? 先輩、彼女さんとエ〇チすること、許されてないんですよねー?」

「ぶっ!? な、なぜ、それを……?」

「ふふふ、どうするんですかー、先輩~? せっかく彼女さんがいるのにノーエ〇チだなんて、本当に耐えられるんですかー? しかも、キスすらもアウトって話じゃないですかー?」

「ぐ……そ、そんなこと、お前に関係ないだろっ?」

「あー、今、揺らぎましたね? 揺らいじゃいましたね? 分かりますよー? 本当はめちゃくちゃエ〇チしたいですもんねー、だって男の子ですしー。いいんですよ? その欲望、あたしで解放しちゃっても?」


 動揺を隠し切れない俺に、小悪魔な後輩がぐいぐい迫ってくる。

 一度は振り払ったはずの煩悩が、再び俺の心を蝕みはじめ――


 次の瞬間、俺は踵を返して屋上から逃走していた。


「あっ! ちょっ、逃げないでくださいよ!」


 呼び止める声を無視し、階段を全速力で駆け下りていく。

 下駄箱で靴を履き替え、校舎を飛び出したところで、ようやく俺は息を吐いた。


「あ、危なかった……」


 あのままいったら、完全に後輩の術中にハマっていたかもしれない。


「どうしたの、玲二くん? そんなに慌てて」

「っ!? な、七瀬先輩っ!?」


 不意にかけられた声に、俺はハッとして振り返る。

 そこにいたのは外でもない、俺が誰よりも敬愛してやまない七瀬鈴先輩だった。


 清楚さの象徴とも言うべき、艶めいた長い黒髪。

 身に付けている制服に乱れは一切なく、まさに全生徒が模範にすべき優等生といった立ち居振る舞い。浮かべる柔和な笑みはまるで聖母のよう。


 実際、彼女は最近までこの学校の生徒会長だった。

 進学校であるこの高校では、主に二年生が生徒会を務め、三年生の五月いっぱいで引退するのだ。


 しかしそんな彼女の笑みが陰り、少し不満そうに頬が膨らむ。


「……」

「あ、す、すいません。えっと……鈴、さん」


 彼女の不機嫌の理由を瞬時に察して、俺は呼び方を改める。


 今まではずっと七瀬先輩と呼んできた。

 だけど、付き合い始めてからは、「名前で呼んでほしいな」と彼女から言われているのだ。


 この呼び方に全然慣れないし、まだ敬語のままだけれど、それでも先輩と本当に付き合い始めたんだなという実感が湧いてきて、俺は嬉しくなる。

 ……恥ずかしいけど。


「~~~~っ」

「って、何で鈴さんまで恥ずかしがってるんですかっ」


 どうやら恥ずかしいのは俺だけじゃなかったようだ。

 自分から提案してきたくせに。


「べ、別に恥ずかしがってなんかないよ」

「どう見ても恥ずかしがってるじゃないですか。頬がめっちゃ赤くなってますよ」

「なってないなってない。なってないからね?」


 年上としてのプライドか、七瀬先輩は白を切ろうとする。

 意外と見栄っ張りなんだよな、この人。


 だがそれがいい。

 容姿端麗、成績優秀、そして生徒会長として堂々と全校生徒の前に立っていた彼女は、皆から完璧な人だと思われている。


 けれど、実はこんな子供っぽいところもあるんだと、俺だけは知っていた。


「それより、もう用事は終わったの?」

「え、あ、は、はい。終わりましたっ」

「? どうしたの? なんか変だけど……何かあった?」

「いえいえいえ、何にもありません!」


 三月とのやり取りなんて、先輩に言えるはずもない。


「じゃあ、一緒に帰ろっか」

「は、はい」


 そうして俺たちは並んで歩き出した。


 二人きりで歩いていると、当然ながら校内にいる生徒たちからの注目を浴びてしまう。

 だがそれは別にやっかみの視線というわけではない。


 単に七瀬先輩が目立っているだけだ。

 そして俺はただの仲の良い後輩。


 というのも、俺と七瀬先輩はこの高校でも同じ部活に入っていて、しかも家も同じ方向にあるので、前々から一緒に帰ることが多かったからだ。

 もちろん俺たちが付き合っているなんて、誰にも言っていない。


 たとえ言ったところで、俺みたいな普通の高校生が七瀬先輩の彼氏だなんて誰も信じないだろう。

 だからこそ嫉妬されたりしないのだけれど。


 ……と、そこで改めて疑問が湧く。

 なぜあの淫乱女は知っていたんだ?

 それどころか、先輩と付き合う上での条件すら知っているなんて、どう考えてもおかしい。


「くそ、もうちょっと詳しく追及しておけばよかったな……」

「玲二くん? ねぇ、私の話、聞いてる?」

「あ、すいません。えっと……確か、おうちのワンちゃんが……」

「もう、全然聞いてない。今は猫の話」

「……どんだけペット飼ってるんすか?」

「犬が五匹に猫が四匹、それに鳥が三匹かな?」


 ……さすがはお金持ち。


 実は七瀬先輩のお父さんは、地元でも有数の大企業の社長さんなのだ。

 つまりは正真正銘のお嬢様。


 きっとペットたちも優雅な暮らしをしているのだろう。

 俺もペットになりたい。


 学校からほど近い場所を流れている河川。

 その土手の上を二人で歩いていく。

 先日、梅雨入りの発表があったばかりとは思えないくらい、気持ちのいい快晴だ。


 授業終わりと部活終わりの半端な時間のせいか、周囲には同じ学校の制服が見当たらない。

 すると何を思ったか、先輩が恥ずかしそうに口を開いた。


「手……繋いでみる?」

「えっ? い、いいんですか?」

「それくらいなら……いいと思う」


 しばしの沈黙を経て、俺と先輩は恐る恐る互いの手を伸ばし合う。

 そうして繋いだ先輩の手の感触は、柔らかくて、すべすべしていて……。


 心臓が早鐘を討つ。

 や、やべえええっ!

 手を繋いだだけで、こんなに興奮するなんて。


「玲二くん……」

「せ、先輩……」


 気づけばどちらからともなく足が止まっていた。

 頬を赤らめた先輩に、その桃色の唇に、俺はじっと見入ってしまう。


 キス……したい。

 めちゃくちゃしたい。


 ていうか、この流れ、もうやっちゃっていいんじゃない?

 何となく、先輩もそれを求めている気がする。


 俺は恐る恐る、先輩の両肩に手を置いた。

 先輩は嫌がったり、逃げたりしなかった。

 それどころか微かに顎を上げて、こちらを潤んだ瞳で見つめてくる。


 やがて俺と先輩の顔が近づいていき――


「お帰りなさいませ、鈴お嬢様」

「「~~~~っ!?」」


 突如として割り込んできた声に、俺たちは慌てて距離を取っていた。

 振り向くと、そこにいたのは今どきコスプレでしか見ないような、ザ・メイド服といった感じの白黒の衣装に身を包む眼鏡美女が、そこに立っていた。


「ら、欄っ!? どうしてここに……」

「お嬢様のお帰りが遅かったので、お迎えに上がりました。最近は物騒な世の中ですし、万一、帰り道で恐ろしい野獣にでも襲われてやしないかと、心配になりまして」


 そう淡々と告げながらも、眼鏡の奥の鋭い瞳が、じろり、と俺の方を睨む。

 こ、怖い……。


 彼女、立花蘭は、先輩の家に仕えるメイドさんだ。

 実は先日、俺と先輩が付き合うことになった直後、俺の家に突然やってきた。


 そうして告白が成功したことに浮かれていた俺に、こう言ったのだ。


『風間玲二様。我が七瀬家のお嬢様とお付き合いをしていく上で、必ず守っていただく条件がございます』


 一、性行為、またはそれに準じることを禁ずる。

 二、午後六時半以降に会ってはならない。

 三、高校卒業後も付き合いを継続する場合、必ず四年制大学に入学すること。ただし偏差値60以上。

 四、結婚する場合、七瀬家に婿入りし、七瀬家が経営する企業に入社しなければならない。


 ……どう考えても高校生に突きつけるようなものじゃないよな。

 俺も最初は面食らったし、とんでもない人と付き合ってしまったと背筋が凍った。


 とはいえ、俺の七瀬先輩への愛は、そんなものでは揺らがない。

 立花さんの前で、俺はその制約を護ることを誓ったのだった。


『ちなみに玲二様のお父様が勤務されている会社ですが、我が七瀬家の企業と以前から取引をさせていただいていますね? もし条件を破ったりしたら……』


 そしてめっちゃ脅された。

 俺の親父が働いている会社の、大口の取引先。

 それがどうやら、七瀬先輩のお父さんが経営している企業らしい。


 ……親父のためにも、俺は結婚するまで、絶対に先輩と一線を越えてはならないのだ。


「ところで、今お二人は何をされていらっしゃったので?」

「ななな、何もしてないですよ!? で、ですよね、先輩!」

「う、うん! 強いて言うと、私の髪に付いていた糸クズを、玲二くんに取ってもらっていたくらいかなっ?」

「そうですか」


 ちなみに先輩も付き合う上で、この条件を護ることを誓わされている。

 俺の親父が人質になっていることまで、知っているかは分からないけれど。


 それからはぎこちない感じで帰路を歩いた。

 背後からまるで監視するように立花さんが付いてくるので、会話も弾むはずがない。


 そうしていつもの分岐点。


「じゃ、じゃあね、玲二くん。また明日」

「は、はい。また明日」


 俺たちはそんな当たり障りのない挨拶を交わして、別れたのだった。


 色々あってどっと疲れを感じながら、俺は自宅のあるマンションに辿り着く。

 四階の部屋のドアを開け、溜息とともに中に入る。


「はぁ……。それにしても今日のはほんと、何だったんだ……? 三月凜……あんなかわいい女子が、クソビッチだったなんて……なんつーか、ちょっとショックだな……」

「わっ、嬉しいなぁ、せんぱーい♪ あたしのこと、かわいいって思ってくれてたんですねー♡」

「っ!?」


 突然、背後から聞こえた甘ったるい声に、俺は慌てて後ろを振り返る。

 するとそこにいたのは、学校の屋上で別れた三月だった。


「な、何でお前がいるんだよ!?」

「何でって、後を付けてきたからですけど」

「ストーカーか!?」

「えー、心外です。単に帰る方向が同じだっただけですしー」


 そうだった。

 この女、三月は同じマンションに住んでいるのだ。


 恐らく高校入学と同時に引っ越してきたのだろう。

 それ以前に見かけた記憶はないしな。

 こんな目立つ女子が住んでいたらすぐに分かるはずだ。


 同じマンションと言えば、一緒の中学に通ってた一学年下のあの地味な子、最近まったく見かけなくなったな? もしかして引っ越してしまったのだろうか?

 って、今そんなことはどうでもいい。


「俺の部屋にまで入ってくんなよ!?」

「あは、部屋を間違えちゃいました(てへぺろ)」


 悪びれる様子もなく、舌を突き出す三月。

 これが男女逆だったら恐怖でしかないが、悔しいことにそのウザい仕草が少しかわいいと思ってしまった。


「っ! ……そうか。じゃあお前が先輩とのことを知ってたのは……」


 もしかしたら先日、立花さんが家に来た際に、どこかで話を聞いていたのかもしれない。


 ……あの人、自分から訪問したくせに、男の部屋は危険だからって、家の中まで入ってこなかったからな。

 お陰でずっと廊下で話すことになってしまった。


「偶然、聞いちゃいました~☆」

「やっぱりか……」

「そんなことより、羨ましいですよねー。高校生にして一人暮らしだなんて」

「何でそんなことまで知ってんだよ……」


 そう、俺は今、ここで一人暮らしを謳歌しているのだ。


「へえ、意外と綺麗にしてるんですね」

「って、おい、勝手に奥まで入っていくなって!」


 いつの間にか靴を脱いでリビングまで侵入していた三月を、俺は慌てて追いかける。

 ビッチは遠慮ってものを知らないのかよ……っ!


「ていうか、先輩。ここなら幾らでもヤり放題じゃないですか?」

「何の話だ?」

「えー、決まってるじゃないですかー。七瀬先輩をここに連れ込んじゃえば、こわーいご実家にバレずにエ〇チし放題ってことです」

「……そもそも禁止されてんだよ、自宅に連れ込むの」

「あ、そうなんですねー」


 てか、たとえそうじゃなくても、先輩はこいつと違って清純なお嬢様なんだ。

 そんな淫乱な真似は絶対にしない。


「じゃあ、そんな悲しい先輩に、素敵なプレゼントをあげちゃいます! とってもかわいい後輩ちゃんをどうぞ☆」


 そう言って三月が腰をくねらせた。

 爪先立ちしながらお尻と胸を突き出し、誘惑するようなポーズを取る。


 ――ごきっ。


「あ……」


 慣れない爪先立ちだったのか、足を捻ってしまったらしい。


「危なっ!」


 三月が後ろ向きに倒れ込みそうになった先にテレビがあった。

 このままでは後頭部を硬いテレビにぶつけかねない。俺の身体は反射的に動いた。


 咄嗟に彼女の腕を掴むと、強引に倒れる向きを変えようとする。

 何とかソファの方向へとズラすことに成功したものの、体勢を崩してしまった俺もそのまま一緒に倒れ込んでしまった。


「「……っ!」」


 気づけば鼻と鼻がくっ付いてしまいそうな距離に、三月の整った顔があった。


 ソファの上で、折り重なるような形になってしまったのだ。

 しかも俺が上の方なので、端から見たら俺が後輩を襲ったような恰好に思えるだろう。


 すぐに離れようとした俺だったが、そのときあるものへと視線が吸い寄せられてしまった。


 唇。

 桃色で、柔らかそうで、ぷるっとした艶々の唇だ。


 不意に脳裏を過ったのは、先ほど逃した絶好のキスのチャンス。

 今こそ、そのリベンジのとき。


 ……違う。

 こいつは七瀬先輩じゃない。


 しかし分かっているのに、俺は動くことができなかった。

 三月が一向に拒絶しないのをいいことに、俺はさらに顔を近づけていき――


 ――ピコン。


「っ!?」


 RINEの音にハッとする。

 ようやく我に返った俺は、慌てて彼女の上から飛び退いた。


 ……あ、危なかった。


 キスというのは最初の一線だ。

 もしあのまま唇を奪い、それを超えてしまっていたとしたら。

 きっと歯止めが効かなくなって、いずれは彼女の狙い通りのセフレに……。


 だが、俺はどうにか耐え切った。

 RINEの通知音のお陰かもしれないが……それでも、今の最大の誘惑を乗り越えたのは大きい。


「三月、いい加減、帰れよ。……三月?」


 いつの間にかソファから立ち上がっていた三月が、なぜかこちらに背を向けたまま硬直したように動かない。


 よく見ると、耳が赤い。

 もしかしてこいつ、自分から俺を誘惑してきておいて、恥ずかしがっている……?

 ビッチ女からしてみたら、キスなんて別に特別なものでもないだろうに……。


 と思った俺が間違いだった。

 こちらを振り返った三月の顔は、嘲笑に満ち溢れていた。


「ぷぷぷぅ~っ! あそこまでいっておいてやらないとか、先輩マジ完全に童貞じゃ~んwww ウケるんですけどぉ~www」

「なっ……」

「まぁ今日のところは許してあげますけど、この三月ちゃんの誘惑にいつまでも耐えられると思わない方がいいですよ? じゃ、お邪魔しましたーっ!」


 言い返す間もなく、とっとと踵を返して出ていってしまう三月。

 ……なぜかその姿が逃げるように見えてしまったと言ったら、負け犬の遠吠えになってしまうだろうか?


 バタン、と玄関のドアが閉まったのを見届けて、俺はへなへなと崩れるようにソファに倒れ込んだ。


「……疲れた」


 しかしあの女のことだ。

 最後に宣言した通り、きっと今後も事あるごとに俺を誘惑してくるつもりだろう。


 一方で、先輩とはキスすらも禁止されている。

 性欲が抑圧されているせいで、ますます三月の色仕掛けが耐え難いものとして襲い掛かってくるのだ。


 何でこんなことになったのか……。

 思わず頭を抱え、叫んでしまいたくなった。


「俺は一体――」




    ◇ ◇ ◇




「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ただいま」


 後輩彼氏と別れた七瀬鈴は、自宅へ帰ってきていた。

 門を通っても、そこからまたしばらく歩かなければならないほどの大豪邸である。


 何人ものお手伝いとすれ違いながら、自分の部屋へ。

 トイレやバスルームまである、ホテルのスイートルームばりの豪華な一室だ。


 ドアを閉め、一人になった鈴は、


「蘭のばかあああっ! もう少しで玲二くんとキスできたのにいいいっ!」


 叫びながらベッドにダイブした。

 お姫様が寝るような、天蓋が取り付けられたダブルベッド並のサイズのベッドだった。


 枕を抱きかかえ、その広いベッドの上をゴロゴロ転がりながら、鈴は胸の内に秘めていた不満の感情を爆発させた。


「ハアハア……玲二くんに、抱かれたい……っ! せっかく付き合うことができたのにっ……結婚までお預け!? そんなの絶対、無理ぃぃぃっ! 私は今すぐ玲二くんとエ〇チがしたいっ! 今すぐ玲二くんにピーをピーされて、ピーにピーをピーされたいのおおおっ!(自主規制)」


 とてもお嬢様とは思えない淫乱な言葉が次々と飛び出してくる。

 目は血走り、口の端からは涎が垂れかけていた。


 幼い頃から厳しく躾けられてきた、その反動かもしれない。

 普段は清楚なお嬢様を装っているが、実は誰よりもエロいことに興味津々。


 七瀬鈴はド変態お嬢様なのだった。


「私は一体――」




    ◇ ◇ ◇




 バタン。


 逃げるように部屋を飛び出した三月凜は、ドアが閉まるや、へなへなとその場に座り込んだ。


「う、うぅぅぅ~~」


 その顔は熟れたトマトのように真っ赤だった。


「む、無理っ……やっぱ、無理……っ!」


 中学時代、凜は地味で目立たない生徒だった。

 そんな自分を払拭しようと、髪を染めてばっちり化粧をし、見事に高校デビューを果たす。


 お陰でクラスの第一軍グループに入ることができ、充実した毎日を送っていた。

 だがそんなある日、仲の良い女子たちの間で、恋愛の話になったのだ。


 凜は大いに驚いた。

 どの子もすでに中学の頃には処女を卒業しており、中には社会人と付き合っている者までいたのだ。


『凜、あんた今、彼氏いんの?』

『え? いないけど……』

『嘘、マジで? まさか、今までいたことないとかないよね?』

『そ、そんなわけないじゃん! てか、もう彼氏とかそういうの、とっくに通り過ぎたっていうかさー』

『それどういうこと?』

『付き合うのって面倒じゃん。だから今は身体だけの関係が楽っていうかー』

『えー、それ、セフレってこと? 凜、マジ~? あんた意外と先いってんじゃん』


 咄嗟に口を突いて出た出任せが、友人たちにウケた。

 しかし結果的に、それが自らの首を絞めることとなってしまう。


『じゃあ今度、色々と教えてよー。ほら、どうやったら喜ばせられるかとかさ』

『あ、それ、わたしも聞きたーい』


 もちろん経験などない凜は、誰かに教示できるはずもない。


 このままでは嘘がバレてしまう。

 焦った凜が慌てて取った行動が――実際にセフレを作ってしまう、ということだった。


「せ、せ、せ、セフレだなんて……っ! だいたいあたし、まだキスもしたことないのにっ!」


 ビッチどころか、実はまったくの処女。

 彼氏がいたこともなければ、キスをしたことすらない。


 三月凜は超絶初心なのだ。


「あたしは一体――」




    ◇ ◇ ◇




 その瞬間、奇しくも三人の叫び声が重なったのだった。


「――どうすりゃいいんだよおおおおおっ!?」

「――どうすればいいのよおおおおおおおっ!」

「――どーしたらいいのおおおおおおおっ!?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先輩、好きです。私のセフレになってください 九頭七尾(くずしちお) @kuzushichio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る