2
当て所なく歩いた。足元も周りも見ていない。自分の足音がわからない。どこを歩いているのか、どうでもよかった。ここではないところへ行きたかった。船から出られないことはわかっているけれど、Yの影がある場所にいたくなかった。空が見える場所にいたくなかった。ただひたすらにその一心だった。
Yが所属している部隊からの連絡がない。こんなに夜が更けても、まだ帰ってきていない。それが何を意味するのか理解できないほど、僕は愚かではなかった――愚かであればよかったのにと思った。
船は寝静まっている。異変を知っているのは、ほんの一部の人だけ。そのことが無性に苦しかった。僕にできるのは、無事を祈ることだけだ。
きっと、見慣れた景色を避けるように歩いたのだろう。気がつくと、目の前に知らない扉があった。僕の背丈の三倍はありそうな両開きの白い扉は、艦橋や檣楼と同じオーバーテクノロジーの産物だろうか。僕が近づいていくと、扉はまるで誘うように淡く空色の光を発する。
やり場のない怒りが、僕の体を支配した。
空を逃れて船のどこともわからない場所へやってきたのに、船が空の色を映すなんて。まるで船が僕を嘲っているのかのような。
扉は音もなくひとりでに開き始める。わずかな隙間から青い光が光線のように少しずつ漏れ出し、やがてあふれ、僕をすっかり包み込んだ。あまりにまばゆい青空の色に、僕は爪が手のひらに食い込むほど固く拳を握った。
青い光の出処はすぐに知れた。開ききった扉の向こう、部屋の真ん中に浮かぶ巨大な結晶体が、眩しい光を放っていたのだ。
目が慣れてきて、青い光の中でも室内の色や様子が認識できるようになった。
どういう原理なのか、結晶体の真下に位置する円形の床は、がらんどうの塔の中に浮かんでいる。その浮き島のような床の左右の端には対になる女性の像がそれぞれ建っていた。彼女たちが持っている透明な瓶からは水が止めどなくあふれ出し、はるか下へと落ちていっている。この塔の下には水が貯まっているようだ。海と違って、潮の香りはしない。
僕にはわかった。この大量の水が、どこから生まれているのか。
この水を生み出しているのは、人々の祈りだ。願いだ。目の前で空色の光を放つこの結晶体だ。そうだ、きっとこれが、
「ガイア・プラント……」
僕の足は吸い込まれるように動いた。塔の入り口から浮き島に続くゆるいスロープを歩いて行く。
この場所にYの影はない。けれど結晶体が――ガイア・プラントが空の色を映し出して、僕の心を揺さぶる。怒りがさらに募る。この得体の知れない物体を守るために、Yは夕空に消えてしまったのだ。
ガイア・プラントは、人々の祈りを聞き届け、願いを叶える魔法の永久機関だと聞いている。それなのに船員たちの願いはなんてささやかなのだろう。『淡水がほしい』、ガイア・プラントが叶えている願いは、それだけに見えた。
きっとみんな、本当にガイア・プラントが永久の存在なのか疑っているのだ。僕もそうだ。ガイア・プラントは船上生活の命綱。もしも、使いすぎて壊れたりしたら――その懸念は、人々を慎重にさせるには十分だ。
けれど今の僕は、僕を嘲るように輝くガイア・プラントを前に、投げやりな気持ちになっていた。
「なんでもできるんだろ」
喉が嗄れそうな大声で、叫んだ。
「願いを叶えてくれるって言うんなら、Yを返してよ!」
無力感から、僕は膝をついた。涙が頬を伝う。喉が焼け付き、肩がひくひくと震えた。そんなことをしても無駄だと、冷めた自分が言う。
ところが――
「えっ……」
視界が、青く染まった。ガイア・プラントが光を放ったのだ。呆けながらも、僕は思わず顔を上げ、ガイア・プラントを凝視する。放たれた青い光は僕の目の前で収束し、人の形を作り始める。その姿は――
「……父さん?」
Yではなかった。光がかたどったのは、父の姿だった。
青く光る父の似姿は、うずくまる僕の背後に誰かを見ているようだった。しかし、振り返ってみても誰もいない。
「お前がどんなに努力しても、僕にはなれない」
父は普段と同じく、感情の読めない声で言う。その視線の先にはやはり誰もいない。これは、なんだろう。
「同じように僕も、お前にはなれない。お前は息子を羨ましいと言うが、きっと息子もお前を眩しく思っている。僕にはそう見えるよ」
ふと、父の表情が緩んだ。僕は、父がこんなに優しい顔をするのを見たことがない、ような気がした。気がするだけで、本当は見たことがあるのかもしれない。柔らかな気持ちが、胸の底から湧いてくる。
僕は、父の顔をしっかりと見た。
「何をやりたいかで決めたい。誰もがそう思う。僕もお前に、お前が望むように生きてほしいと思う。だが、己に無理を強いてまで夢を追うことがいいことだとは、僕には思えないんだ。人は生まれながらみな違う。背も顔も、頭の良さも運動神経も、すべてが同じ人など一人もいない。僕はお前のようにはなれないし、お前も僕のようにはなれない。だから僕は、僕が羨むような生き方を、お前にしてほしいと思っているんだよ」
僕は、答えた。
「……何をすべきかより、何をやりたいかで決めたい」
父は、答えた。
「やめたくなったら、やめればいい。次を探せばいい」
父の姿は僕をすり抜けて、少しずつ塵になって消えていった。
水の流れる音が反響している。波音とは違う。この船の上で生命を育むための音だ。
Yの影から逃れたくてここへ来たけれど、今、Yの存在をすぐ近くに感じるのが心地いい。
僕にはわかった。ガイア・プラントが見せた父の姿は、過去にあった現実。父が話しかけていたのは、きっと、在りし日のYだということが。Yを返してという僕の願いを、ガイア・プラントは聞き届けたつもりなのだろうか。
僕は知っている。Yがパイロットの道を選んだことを。
僕は知った。Yが、僕にガイア・プラントを見に行こうと言った意味。Yが、僕に伝えたかった言葉を。
「……もともとは、東へ向かうつもりだったんだが」
住居層の自宅で夕食を共にしながら、父が突然言った。東は、Yたち第一航空班が消えた方角だ。
「危険なんじゃないの。……兄さんを撃墜した奴らがいるかもしれないんでしょ」
あれから数日。僕はやっとその事実を受け入れることができた。だから父に対してもそう尋ねることができた。けれど、父の答えは予想外のものだった。
「Yが撃墜されるはずがないだろう。あいつは稀代の天才パイロットだ」
「えっ、でも」
「お前と同じことを言う者は多いが、東が危険であるという報告はなかった」
「でもそれは、兄さんたちが報告する前に墜ちたからなんじゃ」
「前回、どこかの船の飛行機が来た時は、真っ先に『不審な機影発見』との報告が入った。だから他の班も出撃させてなんとかなった。今回は……」
父は口をつぐんだ。思わず口を滑らせそうになったという様子だ。
「……機密事項?」
「いや……そうだな、お前に聞いておけばよかった」
手にしていたフォークを皿に載せ、細く息を吐くと、父は僕を見て問う。
「Yからの最後の報告は――『伝説があります』だった」
心臓が跳ねた。出撃前のYの顔が、言葉が、脳裏をよぎった。
「それきり、Yからの通信が途絶えた。他のパイロットたちからもだ。暗号のようなその言葉が最後の通信。お前なら、どうする?」
「僕なら……」
父はひどく真剣な目をして、僕を見ている。父は僕に何かを話す時、こんな顔をしていたのだろうか。いつから、父の顔をちゃんと見ていなかったのだろう。
「東へ向かうよ。……兄さんを探したいっていう気持ちもある。けれどそれより、Yの言う『伝説』の真偽を確かめることが、この船の人たちのためになると思う」
父は、口元をほころばせた。眉間のしわがほどけ、優しく微笑んでいる。
「ありがとう。お前の言葉で、僕も心を決められたよ。お前に聞いてよかった」
行こう、東へ。
父の言葉に、僕は頷いた。
翌朝の東の空は、先日の曇天が嘘のように明るく透き通っていた。甲板で僕の隣に立ち深呼吸をしている父もまた、晴れ晴れとした顔をしている。Yたち第一航空班の面々が死んだなんて考えてもいないという顔だ。僕はまだ疑っているけれど、生存を信じる気持ちもある。なにより、東行きを言い出した父がそうやって自信のある様子でいなければ、艦橋の幹部たちは納得させられないのだろう。この海域は東へ向かえば向かうほど通信機器の調子が悪くなるらしく、その理由を確かめる必要があると父は主張したが、幹部たちは何があるかわからないから危険だと言ったそうだ。僕だってそう思ったのだから、東に危険がある可能性は高いだろう。何があるかわからない。まったくそのとおりだ。でも、その先にあるものが悪いものばかりだと決まったわけではない。
飛行機よりもずっとゆっくり、船は東へ進んでいく。
伝説上の存在でしかなかった『陸』は、きっとある。もうすぐ、水平線がふくらむのが見えるだろう。僕はそう信じている。
「父さん」
「なんだ」
「兄さんが父さんを優しいって言ってた意味、わかったよ」
父は僕の言葉に目を丸くしたあと、うつむいて頬をかいた。
「Yのやつ、そんなことをお前に言ってたのか。いったい僕のどこを見てそう思うんだろうか……」
僕のこともYのことも、父は心から信じてくれている。期待してくれている人に応えるのも、悪くないと思えた。だから僕は、父に言った。
「父さん、僕、政治を勉強しようと思うんだ。……時間がある時に、教えてよ」
少年たちの針路 遠野朝里 @tohno_asari
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