少年たちの針路

遠野朝里

1

 僕たちが暮らしている船は古い。住居区も栽培区も商業区もどこかしらガタが来ているし、僕が働いている整備ハンガーは輪をかけてボロボロだ。壁に空いた穴はトタンを貼り付けてごまかしただけ。雨漏りを直す余裕はないので、雫の滴る場所に歪んだ金属製の桶を置いている。


「機体整備、終了しました」


 僕が操縦士のYに声をかけると、Yは快活に返事をした。


「ありがとう! それじゃあ予定通り、十六時に出撃する」

「了解」


 出撃、と言っても、誰かと戦うわけではない――おそらくは。


 穏やかな青い海。まばゆい陽光にきらめく水面。ささやかな波音と白い波。それがこの星の、多分すべてだ。

 たくさんの人がその上で暮らせるくらいに大量の土や岩が固まっている場所を『陸』と言うらしいけれど、それは伝説上の存在だ。だから誰もが巨大船の上で暮らしている。この星に生きる僕たちにとっての『陸』は、この船そのものだ。


「でもよ、このあたりはまだ調査してないだろ。陸、あるかもしれないよな」


 Yはゴーグルのレンズを拭きながら楽しげに言う。「そうだね」と僕は返す。


「伝説の存在、この目で見てみたいな」


 昔から、Yには少し夢見がちなところがある。僕とYは、船室が密集する住居層の同じ階で暮らしている。十歳年上のYは僕にとって『近所のお兄さん』であり、母のいない僕のことを本当の弟のように可愛がってくれた。優しく、時に厳しく。今もYのことを「兄さん」と呼んでしまうのは、その名残だ。


「なんだ?」


 どうやら「兄さん」と声に出してしまっていたらしい。「あ、いや」と言葉を濁すと、Yはニカっと歯を見せて口角を上げ、大きな手で僕の頭をわしわしとかき混ぜた。


「どうしたんだ? 難しい顔して。眉間のしわすごいぞ」


 暖かい声に、僕の心臓はドキリと跳ねた。言葉が口元でわだかまる。


「えっと、ちょっと……考え事を」

「何を悩んでるかはわからんが、お前は考えすぎるところがあるからな。もう少し気楽に構えとけ」


 Yは暖かな飛行服に身を包み、耳が隠れる帽子をかぶっている。先ほどレンズを拭いていたゴーグルを額に着け直して、飛び立つ準備は万全だ。

 航空隊はいくつかの小隊に分かれている、操縦士たちはそれぞれの愛機を駆り、交代制で二十四時間絶え間なく空をめぐる。高みから船の周辺を見張り、異常があれば艦橋へ連絡する。そういう決まりだ。もうすぐ、Yの所属する第一航空班が夜の哨戒に出る時刻。Yはこれから、空へと『出撃』するのだ。


 この星で僕たちが生きていくために必要不可欠なものが二つある。一つは、陸地代わりの巨大船。そしてもう一つは、『ガイア・プラント』だ。

 ガイア・プラント――僕たちの先祖がこの星に持ち込んだという、魔法の永久機関。人々の願いを聞き届け、あらゆるものを生み出す力を有している、らしい。鉄の船の上でも作物を育てることができ、飢えに怯えることなく生活できるのはガイア・プラントのおかげだと言うが、残念ながら僕はガイア・プラントを見たことがない。それどころか、その実在すら疑っていた――あの日までは。

 この水の星を彷徨っている巨大船は、僕たちが暮らすこの船だけではない、とは聞いていた。それらの巨大船すべてが、一隻につき一つ、ガイア・プラントを搭載していると父は言う。ならば、多くの船を率い多くのガイア・プラントを擁すれば、船員たちの生活がさらに豊かになると考える者がいても不思議はない――以前この船を襲った知らない飛行機たちも、きっとそう考えていたのだろう。幸いにもその時には撃退に成功し、海域を離脱して事なきを得たのだけれど。

 あの日、恐怖と共に僕は悟った。ガイア・プラントは本当に存在するということを。そして、操縦士たちの『出撃』の意味が、変わってしまうかもしれないことを。


「大丈夫か?」

「……え?」


 Yが僕の顔を覗き込んでいる。


「そんな顔してなーに難しいこと考えてるんだよ。それとも、仕事で疲れたかあ?」


 僕を元気づけようとでも言うのか、Yは笑顔を向けてくる。僕は整備ハンガーで働く整備士の中では一番年下で新米で、雑用ばかりやっている。正直、楽しい仕事ではないし、仕事の量もきつい。それでも僕は飛行機が好きだし――できるだけ、Yを近くで見ていたい。


「なあ、お前さ。なんでまだ整備工なんてやってんだ?」


 僕の心のうちなんて知る由もないYが、唐突に尋ねた。


「お父さんと一緒に、政治に携わればいいのに」


――また、この話か。

 僕の父はこの船の船長だ。配給を管理したり、季節単位、年単位の航行計画を練ったりと、いつもせわしなく働いている。僕も将来は父のように船の政治に関われと言われる。けれど、


「僕は、Yみたいにパイロットになりたい」

「……そりゃあ、無理だなあ」


 無情な言葉が刺さると同時に、Yの大きな手が僕の顔へにゅっと伸ばされる。


「あっ、ちょっと」

「この瓶底眼鏡じゃあな」


 眼鏡を奪われ、視界がぼやける。ふらつきながら取り返そうとしてみても、僕とYには結構な身長差があるから、Yが頭上に手を伸ばすと僕の手はまるで届かない。


「ほらほら、取り返せるかあ?」

「……いいよ、もう」


 腕を下ろして拗ねた声を出すと、Yは「しまった」とでも言いたげに、笑ったまま申し訳なさそうな顔をした。


「悪い悪い、やりすぎた。ちょっとからかいたくなっただけさ」


 Yはゆっくりと丁寧な手つきで、僕の耳に眼鏡のつるをかけ、顔に合わせて、「これでよし」と呟いて、手を離す。そして、「ごめんな」とはにかんだ。それだけで、僕の幼い感傷は消えて、代わりに心臓がほんの少しうるさくなる。


「俺とは逆だな。俺がお前くらいの頃は、政治家になりたかった」

「え、そうなの」

「そうなんだよ」


 意外だった。Yは昔から、パイロットになるためだと言って、毎日訓練に励み、食事に気を遣い、ベランダから遠くの空を眺めて視力向上に努めていた。その態度は模範的で、なるべくしてYはパイロットになった――と、僕は思っていた。政治家になりたかったなんて、初めて聞いた。


「空を翔ぶのも、いいけどな。でも俺は、お前の父さんみたいに、みんなの輪を支える仕事がしたかったんだ。お前の父さん、かっこいいだろ」

「かっこいい……かな。父さんは無口だし仏頂面だし、何を考えてるかわからないよ」

「でも、優しい」


 まるで大切な宝物に触れるみたいに、Yは目を細めた。いったい父のどこを見て、優しいなんてYは思ったのだろう。僕にとっては、仕事ばかりで僕を放っておく、冷たい父親でしかない。僕にとっては、Yが一番身近で、かっこよくて、優しくて、憧れで。


「……どうして、政治家にならなかったの」


 僕は、話題を変えた。


「そりゃあ、頭が悪かったからさ」

「兄さんが馬鹿だなんて、思ったことないけど」

「それは単に、俺のほうがお前より年上だからじゃないかな」


 Yは穏やかに苦笑いを浮かべた。


「俺は政治家になりたかったけど、パイロットになった。明らかにパイロットのほうが向いてたから」

「だから僕にも政治家になれって?」

「パイロットになるよりは、いいと思うけどなあ」

「……何をすべきかよりも、何をやりたいかで決めたい」

「そうかあ……まだ、それでいいのかもな」


 Yは目を閉じた。

 Yは、まぶたの裏に何を見ているのだろう。僕に見えるのは、空を埋める黒い機影ばかりだ。


「僕はこの船と海しか知らない。空の向こうからやってくる何かがとても怖いんだ。じっとしてるだけじゃ、不安で仕方ないんだ」

「でもお前の視力じゃ、空は危険すぎる」


 Yの目が、厳しい光を湛えて僕を見た。

 何も言い返せない。言い返せないが、Yの言葉を受け入れたくはない。


「そ、そんな顔するなよ……ごめんな」


 慌てた様子でYは謝ったけれど、Yが正しいということがわからないほど、僕は愚かではなかった。


「そうだ! 今日のフライトが終わったら、一緒にガイア・プラントを見に行こう」


 名案をひらめいたとばかりに、Yは手を叩いた。


「ガイア・プラントを?」

「ああ。俺はあれを見て、パイロットになろうと思ったんだ」

「どうして、」

「おいY! 何やってるんだ、出撃の時間だぞ!」

「しまった、リーダーが怒ってる。そんじゃ、行ってくるからな」


 Yは僕の頭をぽんと軽く叩くと、小走りで去っていった。


「……いってらっしゃい」


 Yが愛機に乗り込んだのを確認する。僕は機体から離れて小さく手を振る。Yにはきっと見えていないだろう。

 ハンガーから甲板へ続く大扉が開かれ、各機のプロペラが回り始める。誘導員の指示に従って、機体は順に空へ発つ。YとYの愛機も、西日に染まる海の向こう、茜色の空へと飛び立っていく。

 僕にはただ、小さくなっていく機影を見つめることしかできない。




 日が暮れて、星が明るくまたたく時刻。僕は甲板に立ち、遠くの夜空を見ていた。Yたちが飛び立った東の空には雲でもかかっているのか、一部分だけインクを思いっきりこぼしたように真っ黒だった。

 Yが帰投し部屋に戻ってくるのは真夜中になるはずだ。いつもならYが任務中でも部屋に帰って眠るのだけれど――虫の知らせとでも言うのだろうか、心臓の表面がざわざわする。部屋で一人待つのは耐え難いなんて、初めてのことだった。


 どれくらいそうしていたのだろうか。僕はいつの間にか、甲板の縁に背中を預け、座り込んだまま寝てしまっていたらしい。生ぬるい風が頬をなでた。

 懐中時計を取り出すと、もうYの任務終了時刻を過ぎていた。父もとっくに仕事を終え、部屋に戻ってきているはずだ。僕は遅くまで出歩いていたことを咎められるだろう。寝こけていた僕の不注意のせいだけれど、気が重い。胸にうずまく不気味な感覚も、まだ残ったままだ。

 東の空の星は、まったく見えなくなっていた。


 部屋に戻ると、父はいなかった。日付が変わるまであと数十分、こんな時間に父が帰ってきていないなんて、よそ者たちの来襲の時以来だ。胸騒ぎにいよいよ耐えられなくなった僕は、艦橋へ向かった。

 檣楼(しようろう)の階段を上って行くと、硬質な足音が響く。艦橋へ続く通路がいったい何の素材でできているのか、僕は知らない。先祖がこの星にやってきた頃の技術は、特別に勉強しないと知り得ないのだ。この檣楼は、増築だらけのこの船で一番古い場所でありながら、きっと最先端のテクノロジーで作られている。

 艦橋の入り口にたどり着くと、扉が僕に反応してひとりでに開く。中にいる船員たちはせわしなく動き回っていて、焦りが充満しているのが肌でわかる。何かあったのだ、と悟るのは容易かった。


「第一班からの連絡が途絶えて、もう四時間になります……」


 誰かが、悲痛な声でそう言ったのが聞こえた。船長席の近くに立つ父の背中が見えた。

――連絡が、途絶えた。

 僕は父に声をかけることもなく、そっと艦橋を立ち去った。

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