木霊の声
西条彩子
第1話 声、林に咲く
林は黙っている。
雑木林に分け入ってものの十分で緑は濃くなり、濡れた根のにおいも強くなった。空気はひんやりとして秋の気配はあれど風はなく、木立のざわめきも遠い。
時折コゲラが木をつつく音が聞こえたけど、ぼくたちの足音が高まると、途端に鳴りを潜めた。
そのただ中でぼくと彼女——
林はずっと黙ったまま、時折木々に話しかけるように触れながら進む。山岳ガイドのぼくの案内よりも、そっちに聞いたほうが早いといわんばかりだ。
小一の秋から高三までぼくと彼女はこの武蔵野で同じ学校に通っていたはずなのに、仕事が絡んだせいか、十年ぶりの再会はぎこちなかった。
落ちてきた雨だれがハットに弾け、ぼくは天を見上げた。葉に砕ける陽光の中で、オナガらしき鳥の影が舞う。
十月に入ってから一週間続いた秋晴れを断じるように降った昨日の雨が、雑木林に残していったものは多い。高い湿度に沸き立つような土と木と緑のにおい、水たまり。だけど反転してこの日は、朝からよく晴れた。
いつもならガイドとして、あの樹はなんだとか、その鳥はなんだとか喋りながら歩くことに慣れていたぼくにとって、林が貫く沈黙は落ち着かない。そのせいでさっきから、濡れ土と葉とどんぐりを踏む自分の黒いトレッキングシューズばかりが目に入る。
「
「え? ——うわっ」
ようやく喋ったと思って顔を上げたら、目の前に主不在の蜘蛛の巣が迫っていた。コナラの枝と幹のあいだにかかった、ジョロウグモの大きな放射状の巣だ。水滴をたっぷりと蓄え木漏れ日にきらきらと輝いていて、なぜ気づかなかったのか不思議なほどだった。
すんでのところで激突は避けられたが、今度はぬかるみにかかとを取られる。すると、よろめきかけたぼくの腕を林が引いた。
知的に冷めていた彼女の目が、驚いたように見開かれている。
「ちょっと、大丈夫?」
「あ、ああ」
適当な相づちを打つと、林はほっと頬を緩めた。
「足下ばっか見てるから。しっかりしてよ、ガイドでしょ」
「……悪い」
格好が。いやむしろ、バツが。
とは、さすがに言えなかった。するっと手を離して歩き出した林を見て、やっぱり彼女は、ぼくの案内がなくても目的の場所までたどり着いてしまいそうな気がした。
さすがにそれは不甲斐ない。ぼくは彼女のあとを追い、さっきよりも気持ち距離を詰めた。
「浅間ってまともに呼ばれたの、すっげえ久しぶり」
リュックを背負い直すふりをして肩を竦めると、林は辺りを見回すついでのような視線をぼくへよこす。
「そういえば浅間、転校してきたその日からセンゲンって呼ばれてたね」
「そう、最初びっくりしてさ。浅間はセンゲンとも読むなんて知らなくて」
母親の再婚という、小学校一年生の少年にはまあまあセンシティブな出来事の直後の転校だった。新しい家族にも、浅間
単純だったのだろう。友達の輪に入れた途端、ぼくが抱いていた家族へのわだかまりはゆっくりと消失してくれた。
「山と神社があるからね。もしかして今もそう呼ばれてる?」
雑木林を吹き抜ける風のような無邪気な声の向こうに、白い歯が見えた。
しゃべってくれた安堵に、ぼくは思わず胸をなで下ろす。
「うん。大学もバイト先も、就職して三年経った今もそう。おかげで人の輪にはすぐ入れたけど」
「それ、あだ名関係なしに浅間がいいやつだからじゃないの」
意外な物言いに面食らった。その上また笑顔がついてきた。
小学生から高校を卒業するまでの十二年。林とは何度か同じクラスになった。
教室での彼女は、飾り気のない短めの黒髪に校則通りの制服を着て、端っこで少数の友達と静かに話す女子だった。
今の林の格好だって、言ってしまえば地味だ。カラフルなウェアが増えた中、全身白黒グレー。唯一の色味は、シューズのかかととグレーのリュックの肩紐に蛍光イエローの反射板があるくらい。
だけど林は、その反射板をいつも躰のどこかにくくりつけているみたいな、不思議な存在感がある女子だった。
「あの樹?」
肩から指先まですいっと一直線に伸ばされた林の腕が、しばらく向こうにそびえる一本のケヤキの巨木を差した。枝葉に向かって上にも横にも広がる、この辺りじゃ一番大きな樹。
ぼくの仕事は、ここに彼女を連れてくることだ。
「ああ」
「すごい。立派な子……」
呆然とした淡い声音で呟いて、林はケヤキに吸い寄せられるように足早になった。
全高二十五メートル。灰色の太い幹は、ガイドで連れてきた子どもたちが四人手を繋げるほど。力強く大地を噛む根も獰猛な様相をしている。
そんな巨木に近づく百六十センチほどの林の姿は、雑木林に自然にとけ込んでいった。
ぼくは彼女の後頭部をぼけっと見つめながら追いかけた。
その背はぼくに懐かしいデジャヴを与え、次第に確かな記憶に変える。
向かうべき先がわかっているように、樹木が立ち並ぶ獣道の中をひたすらに突き進む林の姿。小一の時に見た、華奢ながら頼もしい背中。それがはっきりと輪郭を帯びた。
——もしかして樹の声が、林には聴こえてるの?
幼かったぼくが口にした突拍子もない疑問に、彼女は目を大きくしながらも、ぴんと立てた人差し指を唇に押し当てるだけで答えなかった。
ぼくは林のすぐ横で足を止めた。
彼女は間もなく秋色に色づく葉を見上げていた。それからおもむろに、リュックから木槌を取り出す。
「始めるね」
大工が使うのと変わりないそれを手に、林はケヤキの幹に耳をあてがい、どんぐりのような目を閉じた。
小さく振りかぶった木槌が、こぉん、と幹に打ち付けられる。
林は、——雑木林は黙っている。彼女のじゃまをしないでいるかのように風はやみ、鳥ははばたきもせず、一切が静かに黙りこくっている。今ならいが栗が爆ぜる音すら聞こえそうだ。
目も口も閉ざした林の横顔は、清廉としていて近寄りがたい雰囲気を放っていた。ぼくはそこに視線を縫い止められたまま、神聖な儀式を見守る気分で息をひそめた。
林は、樹木医だ。
人間に医者が、動物に獣医がいるように、樹木にも医者がいる。
彼女は木槌を一旦下ろし、頭のすぐ上を見やった。去年、虫害に遭ってしまった枝を切り落とした場所だ。
直径三十センチほどある楕円形の切断面はまだ生々しい。だけど外周は、樹皮が薄く盛り上がっているのが窺える。カルスといって、樹木を適切に切ると、かさぶたのようなものができるのだ。
定規を持った林の白い手がカルスに触れた。幅は二センチ。ほぼ均等に周りを囲っている。
「うん、きれいに戻ろうとしてる」
患部を労るように撫でると、彼女は慈しみ深い笑みを浮かべ、今度はスマホのカメラを構えた。
今日の林の仕事は、さしずめ術後の経過観察ってところだろう。去年担当した樹木医は別の現場につきっきりらしく、今年武蔵野に戻ってきた彼女にその役目が回ってきたらしい。
だから今日の仕事が決まったとき、ぼくは驚いた。女性じゃまだまだ数少ない樹木医に、林がなっていたことに。
だけど一方で納得もした。もしかして、と聞いたあの日のぼくは、なぜか確信に満ちていたからだ。
「……樹の声が聴こえる?」
手探りをするように林に尋ねる。彼女はスマホを構えたまま、ゆっくりとぼくを振り返った。
「え?」
「違ったならごめん。忘れて」
じわじわと大きくなっていく林の瞳を見て、ぼくはすぐに首を横に振った。だけどぼくの目は、彼女の見過ごしがたい苦笑いを捉えてしまった。
「……浅間が私にそれ聞くの二度目だね」
林の声はひっそりとしていたけれど、否定はしなかった。それにたぐり寄せられるように、ぼくも記憶をゆっくりと紐解く。
小一のときの宿題。どんぐりを拾うために浅間山に入ったぼくたちの班の六人は、すっかり迷子になった。日が暮れて、雨まで降って、躰まで冷えて心細くなったぼくらは大泣きしていた。その中で林は。
「忘れられなかったんだ。林が言った、『だいじょうぶ、みんなが教えてくれる』……ってセリフがさ」
泣いて動けなくなった子たちをほら穴で休ませ、大人を呼びに行くために一人で山を下りようとした林を、ぼくはたまらず追いかけた。
目印になるからと、林は緑の葉を刺した枯れ枝を地面に置きながら、道がわかってるみたいにざくざくと進んでいく。ぼくはその背を見失わないよう、必死で半ベソを隠してついていった。我慢しすぎて耳と奥歯が痛くなった。
ついていった先に、懐中電灯で辺りを照らしてぼくたちを探し回る大人たちがいた。
連れて行かれた公民館の長椅子でタオルに身を包んだぼくは、よそよそしい距離で横に座る林に向かって問いかけた。
あの時内緒と指を立てた林の表情は、ほんの少しだけいたずらっぽく微笑んでいた。
「あの時、信じてついていけって、背中を押されたような気がした」
「なにに?」
なににだろう。あの感覚を説明できるだけの自信がぼくにはない。
枝葉のすすり泣きか、風のうそぶきか、土のたわ言や種子の笑い声か。あるいは、神様の息吹か。だからぼくはこの仕事を受けたとき、林に尋ねてみたいと思っていた。
かさぶたみたいになった心残りをくすぐるような林の瞳を、ぼくは見つめ返した。
「……わからないからガイドになって、わかりたいから林に聞いてる」
「本気で信じた?」
林を。それとも
どちらもイエスだ。ぼくは力強くうなずいた。
林はやっぱりしばらく黙ったあと、やがて差し込んだ白い木漏れ日の裾で、花が咲くように笑った。
「なら、耳を傾けるだけでいいの」
その言葉はぼくのほしがるものとは違ったけど、彼女が言うならそれでいい気がした。
林がもう一度、木槌をケヤキの幹に打ち付ける。
ぼくは、こぉんと響くその音の残響の端まで捉えられるように、目を閉じてじっと耳をすませた。
木霊の声 西条彩子 @saicosaijo
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