やさしい指

高橋 白蔵主

やさしい指

 父がテレビに出ていた。

 僕は家電売り場のモニターで偶然それを見かけ、目を離せなくなっていた。父は、実際に見るよりもずっと痩せ、昔のような、人を値踏みするような目をしなくなっていた。変な言い方だが、老いているのに、まるで若返ったように見えていた。老けた高校生みたいだ、と僕は思った。


 夕方のニュースの特集で、リタイヤ世代が旧友に会うという企画だった。生放送だ。父が静岡の田舎から出てきたのはこれが理由だったのか、と不思議と冷静な頭で考えた。動かなくなっていた足は再び動くようになっていた。

 最初に感じた目眩はもう、遠くなっていた。



 父からの電話に、出るか出ないか迷って、結局耐えきれなくて出てしまったのは先週のことだった。

「もしもし」

 何年もの間、頭の中で何度もシミュレートした最初の一言は上手く出なかった。父はもうずっと半分失踪したような、連絡がつかない状態だった。連絡がついたら、絶対にののしってやろうとずっと思っていたのだ。今更何の用だ、クソ親父、ばかじゃねえのか。僕が言おうとしていた言葉は一つも役に立たなかった。

「おう、元気か」

 聞きなれた声で父は、僕に東京に来ることを告げた。暇なら飯でも食うか。それはまるで普通の親子の会話だった。

 母の葬式以来、もう五年も音沙汰がなかったことを除けば。


 すこし高めのホテルの昼食を押さえてあった。見晴らしのいい席、ちょっと奮発したランチだ。見ろよ、このくらいのグレードのレストランに入ったって、ビビることない甲斐性を手に入れたんだぜ。もう五年前の僕とは違う。見たか。おい、見えるかよ。この景色。眺め。

 コーヒーだって一杯八百円もするんだぜ。この五年間、時折ちまちました金を申し訳程度に弟の口座に振り込んで、お前は何してたんだ。いったい何してたんだよ。

 僕は空想の中で、八百円の、熱々のコーヒーを父の顔にかける。

 憎しみなのか、恨みなのか、もう自分でも分からない気持ちを、ただ、空想の父にぶつけている。

 果たして何もなければ、本当に僕がそれを実行したかどうかは今となっては知る由もない。それは僕が、ささやかな復讐を遂げる可能性が生まれる前の、あっという間の出来事だった。


 五年ぶりに父と会って交わしたのは「ひさしぶり」という一言だけだった。父は返事もせず、肩を竦めただけだった。予約してあるのか、と聞かれて今度は僕が肩を竦めた。

 ウェイターがこちらです、と僕らを先導した。

 父は、席に案内される直前に、横のワゴンに積んであった、どこかの誰かのコース料理用に準備された皿から、ひょい、とサーモンをつまんで口に放り込んだ。

「ふん、まあまあだな」。

 父はつまらなそうに呟き、ウェイターが僕を見てすごい顔をした。

 僕は父の服を掴んで席に追いやり、ウェイターを壁の方に引きずっていった。

「すみません。父は、その、ボケちゃってるんです。弁償します。すみません。幾ら払えばいいですか」

 自分では判断できないとかなんとか言うので、フロアマネージャーを呼ばせたり、色々やっているうちに暫くが経った。気がつくともう父は席にいなかった。


 そこには遅れてきた弟が、ただ、ぽつんと窓際の席に座っていた。

 オレンジの少しくたびれたパーカー。ただ無精に伸びた髪。髭の生えない青白い顔。背もたれにさえ寄りかからずにいる気弱な弟は、まだ十九歳だった。

「にいちゃん、お父さんが」

 父は五年ぶりの弟の顔を見ると、相変わらず女みてえな頭だな、とだけ言い、僕を顎でさして、へいこらしてばかりでみっともねえ、と不機嫌そうな顔をしたのだという。

 そして、どこへ行くとも言わずに席を立った。俺には、行くところがあるんだ。じゃあな。


 なんだそれ。


「でも、ほら、トイレかも」

 弟がすがるように呟き、僕は首を振った。あのクソ親父は昔からそうだ。周りの全てを、傷つけるように生きてやがるんだ。僕はすっかり顔を覚え、そして向こうからも覚えられてしまったであろうさっきのウェイターを呼んで、ワインリストを押し付けた。

「一人、キャンセルになりました。キャンセル料かかるなら払います、払いますよ、今度こそ払いますからね」

 僕は半分叫ぶみたいにした。何人かの客がこっちを見た。構うもんか。もう戻って来たって遅い。テーブルの下に落ちたパンのひときれだって、お前にはわけてやるもんか。僕は想像の中で父を何度目か蹴り倒した。


 悔しいことに、高層フロアの高いランチは旨かった。僕と弟は、おそらくは意識して父の話をしなかった。しかし最後、耐えきれなくなったように弟が呟いた。

「お父さんと話してみたかったなあ」

 弟は嫌味を言うような人間ではない。分かってる。分かってるよ。弟は親を知らずに育ったのだ。あんなクソッタレでも、弟にとっては、望んでも得られなかった父親なのだ。

 だが、だからといって会わせてやりたいなんて、考えなきゃよかった。会って、会わせて、何かいいことが起こるかもなんて、本気でお前は考えていたのか。ばかめ、お前は救いようのないばかだ。ばかだな。なあ。


 僕は猛烈な後悔の中、コーヒーを啜った。八百円分の苦さだった。


 父が失踪に近い消え方をした時、つまり、母が死んだ時、弟はまだ中学生だった。僕は大学を出たてで働き始めていたが、正直なところ歳の離れた弟を養っていかなければならないのかと思うと陰鬱な気持ちだった。とにかく檻に囚われたような気持ちだった。

 だから母の保険金で、弟に一人暮らしをさせた。

 僕はもう自活できるのだから母の残した金に手をつけない。父からの金もぜんぶあいつにやる。だからいいだろ。僕はそれを言い訳にして、弟をずっと一人にさせておいた。


 それがどれだけ残酷なことだったか、僕が気づいたのはごく最近の話だ。

 おれ、にいちゃんと、ご飯食べてみたいよ。よその家みたいに、おれだって。ひとりじゃなくて。


 進路の話をしている時、弟は言った。絞り出すような声だった。僕は初めて、弟も一人の人間であることに気付いた。僕は人でなしだ。やっぱりあの父の子供だ。僕は特に憎むわけもないのに、血の繋がった弟を、五年余りもほとんど一人きりに放っておいたのだ。

 ちくしょう。

 僕は俯く弟の青白い頬を見ながら歯ぎしりした。また失敗しちまった。ただ、あいつを喜ばせてやりたかっただけなのに。僕は、うまくやろうとしただけなのに。



 一度アパートに帰るという弟を見送り、街を歩いていた。

 どこかで父を見つけたらぶっ殺してやろうと考えていた。その辺で買い物をしている父を想像した。店から、弟へのプレゼント以外の包みを抱えて出てきた父を見たらドロップキックしてやろうと考えていた。 体の中心に、全力のドロップキックだ。そのあと馬乗りになって、ぶちのめして、鼻血たらして泣いて命乞いするまでやってやる。勢い余って殺したって構うもんか。


 俺は友達が多いからな。泊まるところくらい自分で用意できる。

 ついでに宿も取ってやろうかという僕に、先週父はそう言った。もう約束したの、と聞くとしてないという。

「突然押しかける気かよ」

「まあ、向こうの都合が悪かったらお前の世話になるかも知れないな」

「急に頼まれたって部屋が空いてるかわからないよ」

「その時はその時だ」

 僕はこんな風に無計画な父の計画が、大抵外れることを知っていた。小さい頃に連れて行かれた家族旅行は二度しかない。二度とも車の中で寝た。僕は電話を切ってすぐにホテルの部屋を押さえていた。


 それはすべて先週のことだ。

 今、父はこの街にはいなかった。

 テレビの向こうにいたのだ。


 夕方のニュースの特設コーナー「旧交再加熱の旅」。

 電子レンジ芸人として有名な中年タレントと並んで歩きながら、父は僕たち兄弟には見せたことのない表情をしていた。

 自慢の親友なんですよ、東京で、小さいけれど予約でいっぱいの、素晴らしい寿司屋を営んでいて、魚の送り甲斐がある、自慢の親友なんです。カンちゃん、おれが急に訪ねて行ったらびっくりするだろうなあ。レポーターに父が語っている。


 それはリタイヤ世代が旧友を訪ね、現役世代の思い出を語り合うという企画で、江東区某所、「友達」の寿司屋に父は向かっていた。

 モニタ越しにその後頭部をひったぱたいてやりたいと思っていた。生放送。不意に僕に超能力が芽生え、モニター越しに拳だけテレポートさせてぶん殴ってやれないものか。あるいはモニターから引きずり出して叩きのめしてやれないものか。思わず伸ばした手は、液晶画面にむなしい指紋をつけただけだった。


 しかし直後、コーナーは僕の思いもしなかった展開を見せることになる。


 結論から言うと、江東区にあった筈の「カンちゃんの寿司屋」は潰れていた。潰れて、夜逃げをして、廃墟みたいになっていた。入り口の前には、父が送った発泡スチロールのケースがそのまま積んであった。父が、聞いたことのないような声を出していた。ケースの蓋を開けた芸人が「うわっ」と小さい声で言って咽せた。すごい臭いを嗅いだ顔。

 父がしゃがみこんだ。カメラが父の背中を写し、店の入り口を写した。なんでだよ、カンちゃん、カンちゃあん。父の声。


 なんだよ。その声。そんな声、母が死んだ時にだって聞いたことがなかった。なんだこれ、放送事故じゃないか。なんだよこれ。なんなんだよ。


 冷静に考えれば、テレビクルーが本当にアポなしで訪ねて行くわけがない。定休日だったらどうする。取材拒否の店だったらどうするんだ。スタッフはこの店が潰れていることを知っていたはずだ。証拠に、見ろ、そのカメラワーク。慌ててスタジオにも戻さない段取り。こいつら、こいつらは僕の親父を見世物にしてやがる。逆立つような怒りというものを感じた。

 相変わらず父はテレビの向こうで慟哭している。見世物じゃねえか。父親とどんな顔をして会ったらいいのか分からずにモジモジしていた弟を、追い払うように「俺には行くところがある」なんて言ったのは見世物になるためだったのか。

 僕は家電量販店の前で、いつか道でこいつらに出会ったら必ず殺してやろうと心に誓った。スタッフも、芸人も、企画を通したやつも皆殺しだ。父も含めて皆殺しだ。絶対皆殺しにしてやる。どいつもこいつも親でも顔がわからないくらいにぶちのめして、ドブに放り込んでやる。ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうめ。拳を握りしめている自分に気付いた。


 携帯が震えた。出た。弟だった。

「にいちゃん、お父さんが、テレビで」

「あんなやつ父親なんかじゃねえ」

 それっきり、次の言葉が出なかった。どうやって電話を切ったのかさえ覚えていない。


 僕はぐわんぐわんする頭のまま、とにかく歩いていた。



 そんな中、ミシマと会ったのは本当に偶然だった。

ミシマは僕の大学時代の後輩で、人懐っこいやつだった。もう会うのは何年振りだろう。通り沿いの喫茶店の、テラス席から聞き覚えのある声がしたのだ。

「たかはしせんぱい」

 彼女は確かにひらがなで僕を呼び、僕は、ミシマ、という名前が出てくるまでにしばらくかかった。彼女が、長かった髪をうなじを刈り上げるくらいまで切っていたからだ。しばらくの年月を経て、やはり少しだけ大人になったように見えた。白の、麻かなにかのノースリーブ。長めのスカート。ホクロが少し多い二の腕。

「やあ、ミシマ」

 僕が呼ぶとミシマは唇だけで笑った。

「ひどい顔してますよ。お婆ちゃんに道を教えたら、鞄ひったくられたみたいな顔」

「だろうね」

 僕は認めた。軽口を叩く気力もなかった。促されるまま、テーブルの向かいに座った。

 随分と黙っていたように思う。ミシマは特に口を開かず、コーヒーを飲んでいた。


「落ち着きました?」

 ミシマが少し生意気そうな声を出したので、反射的に僕は笑顔を作った。会社にいる時と同じ。こんなのたいした事ない。もっとやるならやればいい。僕が苦しむ顔を見たいんだろ。残念だったな。お前なんかに僕の本心を覗かせてやるものか。他人なんかに、胸の内を、覗かせて、たまるものか。ちくしょう。

僕を見てミシマは、ふう、と息をついて笑った。

「私は落ち着いてますよ」

「だろうね」

 もう一度言って、僕は肩をすくめた。野球選手が打席に立つ前のルーチンみたいに、作り物の笑顔は僕をだいぶ落ち着かせたが、同時にそれが、ひどく悲しくなった。

 僕は、学生時代にこんな風な嘘をついたことがあっただろうか。


「なあ、一方的なゲームをしようぜ」

 僕が言うとミシマは受けて立つ、という顔をした。久しぶりなのに変わらないな、となんだか他人事みたいに思う。学生時代に僕らはよく、こうしてふざけあっていた。即興で決めたルール。意味も無くルールを守りあうお喋り。

「こっちは君の個人的な事情を尋ねるかもしれないが、僕のことについては詮索して欲しくない。質問されたくないんだ。君が質問したらそこでおしまい。僕は帰る」

 僕は言葉を切る。

「今日はひとりかい」

「ひとりですよ」

「ずっと?」

「意味がわかんないです」

「そうかい」

 こと、とミシマがカップを持ち上げる音。

「コーヒーをひとりで飲んでるのかって意味なら、そうですよ。ここに来るときは、いっつもひとり」

「邪魔しちゃったな」

「私が呼んだんじゃないですか」


 学生時代にミシマと何かあったわけではない。

 サークルで話すようになって、時々文通みたいなメールのやり取りをしていただけだ。その当時は、お互いにほかに付き合っている相手もいた。ミシマは昔からこういうやつだった。輪から少し外れて、ひとりでコーヒーを飲む。そうだ、お前そういう感じだったよな。

 僕は今、ひたすら混乱の中にあり、なんでもいいから喋りたい、という気持ちと戦っていた。


「あのさ」

 僕は口を開いた。

「はい」

 ミシマは口を結び、口角だけを上げて僕を見ている。

「今日今から、三人分のコース料理を予約してあるんだけど、たぶん二人、来ないんだ。僕ひとりになっちまった」

「はい」

 僕は言葉を切ってしばらく待った。

「三人分だぜ?なんでかって気にならないのか?」

「せんぱいが聞くなって言ったんじゃないですか」

 僕は鼻を鳴らした。そうだった。

 僕はなぜだか泣きそうになっていた。こいつ優しいやつだな。本当にやさしいやつだ。こちとら、彼女とですか、なんて聞き返してきたら席を立ってやろうと思って、身構えていたってのに。

 たぶん、今の僕は今、誰でもいいから傷つけてやりたいだけなのだ。それも、お前が悪いんだろ、自業自得だろって、責めながら、殴りつけながら、ただ、ひたすら、僕は悪くない、僕は悪くないんだって言いたいだけなのだ。


 僕は、空を仰いだ。もう暗くなりかけている。

「今晩、そのホテルにシングルの部屋も二つ取ってる」

 事実だった。父と、あとは弟にもふかふかの布団で寝かせてやろうと思ったのだ。なんなら、飯を食った後、眠くなるまで父と話せばいい。そんなことを夢に見た。僕は、バカだ。バカだ。バカだ。

 ミシマが僕を見つめている。

 僕は次の言葉を絞り出した。話し出すと止まらなかった。

「それが全部無駄になった。金のことはいい。そんなことはいいんだ。ただ、いま僕は誰でもいいから滅茶苦茶に傷つけてやりたいと思ってる。君の方が喧嘩は強いかもしれないけど、僕は男で、君は女でしかも年下だ。ホテルの晩飯は君の好きな芽キャベツが出るコースなんだが、予約したのは個室で、壁とドアがあって、ちょっとくらい騒いでもたぶん人は来ないとこだ。あと、僕は猛烈に誰かを傷つけてやりたいって思ってる。誰でもいいんだ」

「傷つけたいって、二回言いました」

「二回傷つけてやりたい気分なんだよ。そんで、そんな気分で僕は、君に今夜、芽キャベツのコース二人前分、奢ってやろうかって誘うつもりなんだ。これまでのところ、なんか質問ある?」


 ミシマは目を伏せてたっぷりと沈黙し、そして顔をあげた。

「私、別に芽キャベツ好きじゃないし、せんぱい、ひどい顔してます。わたし癌なんですかって尋ねた患者みたいな顔」

「君もひどい顔って、二回言った」

「さっきとは違う顔です。どっちもひどい顔だけど」

「顔のことは言うなよ」

 ミシマが僕の目を覗き込んだ。

「私、ぜったい質問しませんけどね」


 そして僕は心を決めた。

「ミシマ、なあ、ミシマ、よかったら晩飯を一緒にくわないか」

「はあ」

 声だけ聞くと、気の抜けた返事。僕はコーヒーカップを見ている。ミシマがどんな顔をしているのか見ていない。見られないと言った方が正確なんだろうか。

「奢るよ。どうせキャンセル料で同じだけ取られる飯だ。一緒に食わないか。二人分食っていいよ。なんなら僕の分も食っていい。僕の足し算が正しければ三人分食える計算だ」

「いいですね」

 僕はようやくミシマの目を見た。

 ミシマはきらきらした目をしていた。こんな顔をしているのを、昔にも見たことがある。カラオケ屋で絡まれて、消火器をぶちまける数秒前の顔。ミシマは、変わってないな。僕はそんなことを考えた。今の僕の内面は、消火器のように一度レバーを引いたらとめどなく吹き出し、あたりを汚し尽くすまで止まらないのだろう。僕はもう一度、天を仰いだ。


 神様。


 自分でも、断られたいのか聞いて欲しいのかわからなくなっていた。ただ、目の前の相手を否定したいだけなのかもしれない。

「僕はちゃんと言ったぜ。僕は男で、君は女だ。飯を食うところはホテルのレストランで、密室ではないが個室で、僕は今、誰彼構わず傷つけてやりたい気分でいる。危ないだろ。危ないんだ。断ってくれて構わないんだ」

「んー」

 ミシマは顎に手をやった。声と裏腹に、あまり悩んでいないような表情。そして彼女は囁くように言った。

「せんぱい、昔とあんまり変わらないですね」

 返事ができなかった。

 僕は真似して、囁くように返事をしようとしたが、かすれた声になるだけだった。

「一つだけ嘘ついた。予約したのは芽キャベツじゃない。コースは魚だ」

「よかった。魚、すきです」

 ミシマの声はかすれなかった。



 そして僕たちは二人で夕食に向かった。

「やあ、その節は」

 僕は案内しようとしてくれたウェイターの顔を見て、思わず声をかけた。当たり前だがミシマはきょとんとしている。昼間、完璧に覚えた顔。高層フロアのラウンジと、地下のレストラン。夜はこっちの方で働いてるんだな。ウェイターは僕に気付いたのだろうが、一切を出さない完全な笑顔だった。

 その笑顔を崩してやろうと思って機先を制した。

「二人になりましたが、こっちはキャンセルしません。この若い女が二人分食べるから」

 ウェイターは僕とミシマを交互に見た。かしこまりました、とウェイターは微笑んだ。僕を認識したことをおくびにも出さない微笑。プロフェッショナルだった。


 通されたのは和室だった。ガラス窓から見える専用の小さな中庭には間接照明と笹、庭石。靴を脱いで携帯を見た。弟からの着信はなかった。しばらく液晶の画面を見つめて、鞄に放り込んだ。


 僕は木目の天井に目を向けた。

 中学生にでも戻ったような気分だった。ひどく落ち着かない。何も持っていないし、何を手に入れる力もない。僕はまるはだかで、無力だ。少しは変わったようなつもりでいたが、まるで変わっていなかった。弟を捨てるようにして離れた頃と、何一つ変わってはいないのだ。寿司屋の前で父はまだうずくまっているんだろうか。弟は、何をしているんだろうか。

 電気の点いてない部屋で、一人でいる弟を思った。あの時弟は、中学三年生だった。まだ中学生だったのだ。

「あああ」

 堪えきれずに声が出た。出始めたら止まらなかった。あああ、あああああ。僕は鞄を落とした。ついでに泣いてしまうかと思ったが、涙は出なかった。ほとんど同時にミシマが僕の背後から、膝の後ろに膝を入れた。膝かっくん。かくん、と僕はへたり込む。

 膝をついたが僕は振り向かなかった。体に力が入らなかった。

「何すんだ」

 自分でも分かるくらいに力ない悪態。ミシマは何も言わなかった。何も言わずに僕の頭をぺん、と軽く叩いた。僕はそのまま横向きに倒れた。座卓の足と、座布団が見えた。


「せんぱい」

 ミシマは倒れている僕の背後から声を掛ける。

「せんぱいは二択から選ぶことが出来ます」

 喋りながらミシマは足踏みか何かをしているようだった。ん、という吐息と衣擦れと、片足でとんとんと小さく踏みかえるような音。

「ガサガサと、スベスベ」

 透き通った声だった。


 他人事のように僕は考える。

 五年ぶりに父親と出会ってバカみたいに裏切られ、その父親も見事に放送事故を繰り出した。それを見物した後、後輩と久々に出会ったと思ったら最低に近いやり方で夕食に誘って、今や電池が切れたみたいに寝っ転がっている。

 だが、ミシマからしたら前半部分は関係ないことだ。年上の恋人に甘える童貞だってこんなみっともないことをするもんか。僕は、完璧にミシマの優しさにつけこんでいる。


「ごめんな」

 僕が呟くとミシマは、二択の話ですよ、とあきれたような声を出した。息を整えて、僕は返事をした。

「がさがさ」

 とたんに頬に、なにかが降って来た。

「なんだこれ」

「ストッキングです、いま脱いだの」

 たまげたが、僕は動かなかった。背後でミシマが座った気配がする。

「失礼しますね」

 いい、とも悪い、とも言わないうちにミシマが器用に足でストッキングをどかして、反対の踵を僕の頬に乗せた。

「私、かかとがガサガサなんです」

「意味わかんないな」

 僕は息をついた。確かにミシマのかかとは少しガサガサしていた。エロティックではない。ひんやりしていて、がさがさしたミシマのかかと。


 学生の頃、ミシマとこんな遊びをした覚えはなかった。

「ここ、ご飯食べるところだぜ」

「泣きながら寝てる人に言われたくないです」

「倒れてるだけだし、泣いてない」

「慰めてあげましょうか」

「意味わかんないよ」

 僕は頬に、がさがさのミシマのかかとを感じながら喋った。長い沈黙が流れた。

「本当に意味わかんないですか」

 ミシマの声が掠れて、そして僕は目をつぶった。

 言うべきか。言わざるべきか。

 暫し悩んで僕は、やはり言った。

「いま、質問したな、きみ」

「ほんとだ」

 ミシマは、心底うっかりした、という声を出した。


 そして僕は目をつぶったまま、次の瞬間を待った。

 私、帰んなきゃダメですか。

 ミシマがそんなことを言ったら僕はどうしたら良いのだろう。僕はどうするべきなんだろう。僕は、いったい、どうしたいのだろう。


 そして個室のドアが開いた。


 何てタイミングだ。


 個室に入るなりストッキングを脱いだ女と、その女の足をほっぺたに乗せた男。昼間に人の皿から盗み食いした父親がいて、二人で三人分のコースを食べようとしている男。

 どうやってウェイターに弁解しようかどうか少し悩んだが、ちょっとだけおかしくなってしまった。何と言われようと、どんな光景を見ようとウェイターはプロの笑顔を崩さないような気がする。ミシマはどんな顔をしているだろうか。ミシマの弁解を聞いてみたいと思った。


 事態を観察しようと目を開けると、入り口に居たのは弟だった。

「にいちゃん」

 僕は文字通り絶句した。

「ここ、ご飯食べるところだよ」

 弟は僕と同じことを言った。ミシマは足をどけなかった。すごい神経してるな、この女。僕は感心するような気持になった。横目で見ると、ミシマはすました顔で弟を見ている。


 なんだかやけっぱちのように、急に面白くなってしまい、僕は弟の顔を見ながらミシマに呼びかけた。

「ミシマ、さっき、スベスベを僕が選んだらどうするつもりだったんだ」

「え」

「教えて欲しい」

「ふくらはぎ乗せました」

「大紀、この人がミシマだ。大学の頃の後輩だよ。いいやつだ。こっちきて座れよ。僕は、まあ、座ってないけどさ」

 当たり前だが弟は事態が飲み込めなかったみたいで、挨拶するべきか、何かを指摘すべきか、決め兼ねているみたいにモゴモゴしている。多分笑い出すべきなんだろうな、と僕は考えた。

「ミシマ、そこに立ってるのが、僕の弟。僕のたった一人の家族だ」


 たった一人の家族。そうだ。そうだよな。


 そして、発作みたいに僕は笑い出した。

「残念だけど、二人キャンセルが一人キャンセルになった。二人分食べさせてやれない。コースは一人分で我慢してくれ、ミシマごめん、ごめんな」

 笑いながら、涙が滲むのを感じていた。人生は悲劇か、それとも喜劇なのか。

「大紀、父さんは来ない。でもいいだろ、あんなやつ、なあ」

 僕は笑いながら言った。言ってやった。

 弟の後ろに、今度は本当にウェイターが顔をのぞかせた。ほとんどプロフェッショナルの笑顔だったが、弟の肩越しに、さすがに一瞬すごい顔をした。僕の笑いは火が付いてしまって止まらない。僕はがさがさのミシマの足が外れないよう、ぎゅっと頬に押さえながら笑った。


「すみません、やっぱり三人になりました、三人なんだ。僕たちだけ」


 ウェイターは少しひるみ、ミシマの方を見ながら、お料理の準備を始めますね、と断りを入れて去って行った。正しい判断だ。

「今のひと、大紀は財布もってなさそうだし、消去法で君を選んだんだ。僕のことは頭がおかしいと思ったんだろうな」

 くすくす笑ったつもりが、僕は自分が涙を流していることに気付いた。

 ミシマがそっと足をどけて、姿勢をなおして僕の頬に手をあてた。ひんやりしている。ミシマの指はぜんぜんガサガサしていなかった。すべすべして、すんなりしていた。

「そんな座り方すると、もうちょっとでパンツ見えるぜ」

「見えないですよ」

 ミシマの指が僕の瞼をなぞる。

「かかとは荒れてるけど、手は、すべすべなんだな」

「せんぱい、泣いてますね」

「うるさいよ」

 ミシマが囁くような声を出した。

「せんぱい、頭おかしくないですよ」

 なぜか弟が、不意に泣きそうな顔を見せた。

「ちゃんと、普通ですよ」

 僕は涙を止めるため、息を吸って、目をつぶった。

「そうかな」

 僕は目をつぶったまま答えた。


 しばらくして、つるりと言葉が溢れた。自分でも驚いた。

「聞いて欲しいんだ。食べながらでいい。話を聞いて欲しいんだよ」

 驚いたが、それはきわめて自然のように思った。ミシマが僕の頬を撫でた。

「せんぱい、いいんですよ、普通ですよ」

 そして僕は、こんなに優しい指に触れられたことがないと心から思った。

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