睡魔
カチカチと休まずに進む時計の針は、四時四十分を指している。もう既に夕方に入る時間帯だが、窓の外は昼と変わらない明るさだ。二人は、予定に少々遅れてしまったものの無事にバスに乗り込み、家を目指していた。ほとんど立ちっぱなしだったので二人の疲労の色は濃く、口数も先ほどより大幅に減っている。
やはり、バスの中にそれほど客はいなかった。二人のほかには、数人おじいさんが乗っているだけだ。バスに乗り込むとまた運転手と乗客に好奇の視線で見られたが、絵里にとってそれは慣れたことだった。
悠斗は座席に座ると、ふうー、と大きく息を吐いた。「疲れたー」と呟き、目を閉じる。耐え難い睡魔が襲い掛かってきそうだったのですぐに目を開けたが、その一連の行動にいつもの溌溂とした元気は無かった。夏休み初めての遠出だったので疲れがどっと体に溜まっているようだ。
絵里はというと、未だ窓から見える海を眺めていた。さざめく波を名残惜しそうな表情で見つめている。どこか見覚えのある子供がバスとすれ違うのを目の端に捉えながら、日が傾き始めているため日陰に座るのが難しい。遅れて、今の子がクラスメイトだったことに気付いた。
「今通った人って、うちのクラスメイトだよね……。名前忘れたけど」と絵里は振り向いて悠斗に尋ねた。彼はまた一つ、欠伸をしている。
「え? 今通った人ってどれ?」悠斗は眠そうに目を擦りながら言う。
「ほら、あの人だよ」と絵里は後ろを指差した。行きと同じように最後尾の座席に座っているため、後ろの風景もよく見える。
「うーん……。あの青いTシャツの人? いやあ、あれは違うと思うよ」
「何で?」
「うちのクラスにあんな背が高い人いないし……。そもそもここ校区外だし。というか顔も見たことなかったけど」
「あ、そう……」絵里は沈黙し、また景色を眺める。確かによく見ると自分たちとは身長が全然違った。なぜあれをクラスメイトだと思ったのか、絵里自身も不思議に思った。そりゃ会ったことのない人の名前なんて憶えているはずもない。後ろの窓から見えていた青Tシャツの子は、角を曲がりどこかへ消えた。
バスの横を中学生らしき人物が自転車に乗って通った。それに続くように大柄な男性も通る。行きよりも道を歩く人が多いように感じた。こんな皮膚を焼くような暑さの中、よく自転車が漕げるものだ、と絵里は思う。絵里がそんなことをしたら、冗談ではなく皮膚が焼け爛れる。
彼女は、かろうじて日が当たっていない肘掛けに小さな腕を置き、ゆっくりと息を吐きながら背もたれに全体重を預ける。そして、それにしても今日は本当に疲れた、と考えた。こんなに歩いたのは数年振りかもしれない。いつもの十倍ぐらい歩いた気がする。自分の重度の運動不足に軽くショックを受けるが、何はともあれ今日は素晴らしい一日だった。あとは帰るだけだ。時間も十分にある。
そんなことを考えていると、自然と瞼が重くなってきた。しかし疲れている絵里はそのことにも気が付かない。彼女が気付かないうちに、もう目は閉じていた。そして自然に、意識は混沌へと落ちていく——。
その瞬間、絵里は悠斗の声を聴いた気がした。
「あー、もう無理だ。ちょっと寝るから着いたら起こして」
絵里はその言葉を理解もしていない。時既に遅し、だった。
「ん? うーん……」
先に覚醒したのは、悠斗の方だった。車内に響くアナウンスの声で目を覚ました彼は未だ寝ぼけているようで、呆けた顔で辺りを見回しながら欠伸をしている。靄がかかったような頭の中で思考を整理し、目を擦りながら隣を見ると、目を閉じ、静かに寝息を立てている絵里の姿が目に入った。
「うわっ……」
真横で女子が寝ているという不慣れな状況を脳が確認すると、彼の頭は急ピッチで活動を始める。
「あ、そうだ……。そういえば眠いからいったん寝ることにしたんだった……。」
悠斗の頭は少しずつ眠る前の記憶を取り戻していく。そして数秒後、ある危機的な状況に陥っていることに彼は気付いた。
「あ、もうすぐバス降りないといけないんだった! 早く準備準備……」
そう言いながら次の停車駅を確認したとき、彼の動きは急に人形と化したかのようにフリーズした。
そして慌てて絵里の方へ駆け寄り、「ね、ねえちょっと! 起きて起きて!」とすごい勢いで揺さぶり始める。彼女は睡眠を邪魔されたことに憤るように不機嫌そうな声を出すが、悠斗はそんなことお構いなしである。
まあ、それも無理はない。
なぜならもう既に、降りるべき駅を三駅も過ぎているのだから。
透き通る彼女 夏檸檬 @naturemon
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