二人はすうっ、と大きく空気を吸い込んだ。潮の匂いが鼻から入り、肺から血液に移って体中に循環する。体に溜まった古い空気をゆっくりと吐き出した。その息が、ずっと先まで延々と続く砂浜の上に積もる。


「海、久しぶりだな。一年ぶりくらいかな」と砂浜に立った悠斗は呟いた。


 二人の目の前には、だだっ広い海が悠然と、超然と存在していた。ざざーん、ざーんという控えめな波の音は、海の静かな息遣いにも聞こえる。真っ青な空に浮かぶ雲は、そこにあるはずのない白く空虚な穴を空けているようだ。蒸気を立ち昇らせながら遠くを進む貨物船も、寂しげに羽ばたく一匹のカモメも、つい写真に収めたくなるような儚さを持っていた。


 悠斗は辺りを見回すが、夏だというのに人の数は多くなかった。目に入るのはスコップを使って砂で何かを作ろうとしている若い女の人と、二人と同じように海を眺めながら煙草を吸う中年の男性、砂浜を歩きながら楽しそうに話すカップルだけだ。


 悠斗の隣で絵里が息を呑む音が聞こえた。


「すごい……。私こんなの初めて見た……!」絵里は感無量といった様子で悠斗に向かって言う。その目は驚きと感動に満ちていた。


「気に入った?」と悠斗が訊くと、「うん!」と眩しいような笑顔で返事をするので、彼は心がじんわりと温かくなった。


 絵里は目を閉じ、海独特の風を体全体で感じる。数週間前までは、こんなことができるなんて思ってもいなかった、と彼女は思う。


 ひたすら学校と家の往復で、日々を食い潰していく毎日。決して無意味ではないが、このままでいいのかという不安も抱えていた。母も父も、できる限りの努力をしてくれてはいたが、自分の病気に関する根本的な解決にはなり得ていなかった気がする。この先自分はどうなるのか、ふと気になって眠れないこともあった。


 だが、悠斗のおかげで、少し希望を見いだせた気がした。「不安」という暗闇を払いのけ、常に一緒にいてくれた彼には感謝してもしきれない。絵里は目を開け、小さな声で「ありがとう」と言った。悠斗には到底聞こえないくらいの小さな声で。やはり彼の耳には入っていないようだった。


 悠斗は無言で海を眺めていたが、「何回も見たことあるけど……、なんか今日はいつもと違う気がする」と彼は言った。続けて「絵里ちゃんがいるからかな」と笑顔で言うので、絵里は顔を赤くした。


 二人はのんびりと砂の上を歩き出した。悠斗のサンダルの中には砂がずぶずぶと入ってくるが、もちろんそんな事は気にしない。遠くから流れてきたのであろう流木をまたぎ、波打ち際へと進んでいく。


 波打ち際まで着くと、寛容な海の静かな呼吸が更によく聞こえた。遠くから見ると真っ青だったそれは、近くで見ると底が透き通って見えるほど透明だ。足元では、黒いカニが突然の来客に驚いたように水中へ消えていった。


「なんか……、『生きてる』って感じするね」絵里はそう口にした。


「こうやって風を浴びたり、砂を踏む感触を楽しんだりしてると、ああ、私も生きてるんだなあ、ってすごく思う」彼女の声は、自然と耳に入ってくるような静かなものだった。


 悠斗にはその感覚は分からない。きっと、絵里だからこそ感じられる感動なんだろう、と思うと彼は羨ましくなった。


「やっぱり、違うね」と悠斗は言う。


「何が?」


「僕たち二人の話だよ。何もかもが違う」


「考え方とか?」


「それ以外にも、感じ方とか」


「急にどうしたの」絵里は笑う。


「感動してるんだよ」


「私に? それとも自分に?」


「え? うーん……。何に感動してるんだろう、僕」考えてみると意外と分からない。二人の違いに、か。あるいは海の雄大さに、か。


 考える悠斗を横目に絵里はキョロキョロし始める。そして、「あ、もしかしてあれだったりして」と絵里は笑いながら後ろの方を指差した。


「あれ?」悠斗は彼女の指差す先を見る。そして同じように少し笑った。


 そこには、見る者が思わず声を上げてしまうほど立派な砂の城があった。高さは70センチくらいに見え、今まで見たことのない形をしていたが不思議と整合性を感じる。細かい装飾も丁寧に仕上げており、圧倒されるような仕上がりとなっていた。


「すごいね、あの城」と絵里は悠斗に言った。


「うん」と笑いながら返事をする。


 その隣では、いろんなアングルからスマホで写真を撮る女の人がいる。最初に来た時に砂をいじっていた人だ、と悠斗は思い出した。どうやらこの短時間であの作品を完成させたらしい。その人の腕や足、横に置いてあるバケツは泥塗れだったが、周りには充実感が漂っていた。


「どう、感動した?」絵里がニヤッとしながら訊いた。


「……うん。これは感動する」これも今日の思い出だな、と悠斗は嬉しくなった。




 その後、二人はまた海岸線を歩き続けた。人がいないのも頷ける寂れようだったが、やはり楽しく過ごすことができた。すると、途中で小さい亀が浜辺をのろのろと歩いているレアな光景を見つけ、二人は興奮しながらその様子を眺めた。写真を撮るカメラやスマートフォンは持っていないので、しっかりと目と心に焼き付ける。


 その他にも、貝が砂浜からひょっこりと顔を出していたり、遠くの空を白い鳥たちが群れで通り過ぎたりと、たくさんの生き物と出会うことができた。絵里だけではなく悠斗も心からその散歩を楽しんだ。


 一通り歩いて戻ってくると、さっきの城づくりお姉さんが新しい作品を完成させていた。生き物のようだったが、二人にはそれが何なのか判断が付かなかった。悠斗は今更ながら、この人は何の仕事をしているのだろう、と考えた。


 海を一望できるベンチに座り、二人は息をつく。


「疲れたねー」と悠斗は言った。


「でも、楽しかったよ」そう言う絵里の顔には、満足感と充実感が滲んでいる。


 悠斗は大きく伸びをすると、笑みをこぼし、「そうだね」と答えた。


 未だ世界は明るいが、腕時計の針は、もう四時半を指していた。




 大きなトラブルもなく小さな旅を終えた二人は、もう家に帰るだけだ。


 ここで、浮かれた彼らに忠告できることがあるとすれば、「遠足は家に帰るまでが遠足だ」ということだろう。

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